***第一章 錆びついた旋律***
雨の匂いが、古書の埃っぽい香りと混じり合っていた。東京の片隅でひっそりと息をする古書店「時の迷い路」。その店主である桐島翔太は、カウンターの奥で文庫本のページを漫然と繰っていた。活字は目を滑り、物語は頭に入ってこない。いつものことだった。人との深い関わりを避け、過去を振り返らず、ただ一日を無事に終えることだけを考えて生きる。そんな翔太の静寂を破ったのは、郵便配達員の乾いた声だった。
「桐島さん、お荷物です」
差し出されたのは、ずしりと重い、古びた木箱だった。縦横三十センチほどだろうか。表面は黒ずみ、角は丸くすり減っている。何より奇妙なのは、差出人の欄が空白であることだった。訝しみながらも受け取り、カウンターに置く。金属の留め金を外すと、軋んだ音とともに蓋が開いた。中には、ビロードの布に包まれて、一台のオルゴールが鎮座していた。精巧な木彫りの細工が施された、アンティークと呼ぶにふさわしい品だ。
そして、一枚のカードが添えられていた。インクが滲んだ、震えるような文字。
『君が忘れた音を、思い出して』
翔太は眉をひそめた。悪趣味な悪戯か。しかし、このオルゴールには、どこか懐かしい気配が漂っている。まるで、遠い昔に手放した自分の片割れに再会したかのような、奇妙な既視感。誘われるように、底にある小さなネジを巻いた。カチ、カチ、と小気味よい音が響き、やがて蓋を開けると、澄んだ、しかしどこか物悲しい旋律が流れ出した。
その瞬間、頭の奥が鋭く痛んだ。知らないはずのメロディが、心の最も柔らかな部分を掻きむしる。息が詰まり、翔太は慌てて蓋を閉じた。心臓が早鐘を打っている。静まり返った店内に、自分の荒い呼吸だけが響いた。
その夜からだった。翔太は、悪夢にうなされるようになった。冷たい水の中に沈んでいく感覚。誰かに強く腕を掴まれ、引きずられる恐怖。そして、耳元で聞こえる、あのオルゴールの旋律――。毎晩、汗びっしょりで目を覚ます。忘れていたはずの「何か」が、心の固い扉を内側から叩き続けているようだった。このオルゴールは一体何なのか。そして、これを送ってきたのは誰なのか。平坦だった日常は、錆びついた旋律とともに、不穏な協和音を奏で始めた。
***第二章 偽りの追憶***
悪夢から逃れるように、翔太はオルゴールの正体を突き止めることを決意した。箱の底を丹念に調べてみると、微かに焼き印が残っているのを見つけた。意匠化された鳥のマークと、小さな文字。虫眼鏡で覗き込み、翔太はその名を読み取った。「佐伯工房」。
インターネットで検索すると、その工房は長野の山あいにある、百年以上続く木工芸の老舗であることがわかった。翔太は衝動的に店を臨時休業にし、新幹線に飛び乗った。理由のわからない焦燥感が、彼を突き動かしていた。
緑深い山道をバスに揺られ、たどり着いた工房は、木の香りと時間が染み込んだような場所だった。店主の佐伯は、白髪の温和な老人で、翔太が差し出したオルゴールを見ると、深く刻まれた皺の奥にある目を細めた。
「ああ、これは……よく覚えていますよ。三十年ほど前になりますかな」
佐伯は、懐かしむようにオルゴールの表面を撫でた。「美しいけれど、どこか悲しげな女性からの、たった一度きりの注文でした。『遠くへ行ってしまう息子への、最後の贈り物なんです』と、そうおっしゃっていた」
息子のための、最後の贈り物。その言葉が、翔太の胸に棘のように突き刺さる。翔太は幼い頃、両親を交通事故で亡くし、遠い親戚の家に引き取られた。事故の記憶は曖昧で、靄がかかったように思い出せない。特に、母親の顔や声は、記憶から完全に抜け落ちていた。
「その女性は、このメロディを指定されました」と佐伯は続けた。「ご自身で作曲された、子守唄だと。世界に一つだけの、息子さんのための曲だと」
子守唄。翔太の脳裏に、悪夢の中で聞こえるあの旋律が蘇る。あれは、恐怖の音ではなかったのか。母親が自分に歌ってくれた、愛の歌だったというのか。
混乱したまま東京に戻った翔太は、自分を育ててくれた叔母の家を訪ねた。叔母は、翔太の突然の来訪と、過去についての質問に戸惑いを見せたが、押し入れの奥から古いアルバムを引っ張り出してくれた。色褪せた写真の一枚一枚を、指でなぞっていく。そこに、見つけてしまった。
幼い自分と、微笑む母親。そして、その隣に立つ、見知らぬ男。父親のはずだが、翔太がおぼろげに記憶している父の顔とは違う。写真の裏には、母の丸い文字でこう記されていた。
『悠人と、パパと。幸せな日』
悠人。それは、自分の知らない名前だった。血の気が引いていく。震える手で、叔母に写真を突きつけた。「これは、誰なんですか。悠人って、誰なんですか」
叔母は観念したように深くため息をつき、重い口を開いた。「翔太……いいえ。あなたの本当の名前は、悠人なのよ」
***第三章 真実の不協和音***
叔母の告白は、翔太が築き上げてきた三十年間の人生を、根底から覆すものだった。
「あなたのお母さん……私の姉さんは、夫の酷い暴力に苦しんでいました。何度も逃げようとしたけれど、その度に見つけ出されて……」
三十年前のあの日。母はついに、幼い悠人(翔太)を連れて家を飛び出した。しかし、執拗な夫は二人を追い詰め、山道で捕まってしまう。揉み合いになる中で、母は我が子を守る一心で、抵抗した。その結果、夫は崖から転落して命を落とした。
「事故じゃないわ。あれは……姉さんが、あなたを守るためにやったことなの」
それは、正当防衛ではなく、殺人だった。絶望した母は、しかし息子の未来だけは守ろうと決意した。彼女は警察に自首する前に、全ての計画を立てた。事故死に見せかける偽装工作。そして、唯一の親友であった叔母に、息子を託したのだ。
「姉さんは私に言ったわ。『あの子から父親を奪い、母親は殺人犯になる。せめて、あの子には何も知らないまま、普通の人生を歩んでほしい』と。だから、名前を変え、過去を全て封印して、私の息子として育てることにしたの」
叔母は、親戚ではなかった。母の、たった一人の親友だったのだ。翔太の足元が、ガラガラと音を立てて崩れていく。交通事故で両親を亡くした哀れな少年。そんな自分史は、全てが嘘で塗り固められた偽りの物語だった。
「じゃあ、あのオルゴールは……」
「ええ。私が送ったのよ」叔母は涙を浮かべて言った。「ごめんなさい、悠人。私、もう長くないの。医者から、あと半年の命だって言われてね。姉さんとの約束を、死ぬ前に果たさなければと思ったの。『この子が、真実を知っても揺らがない強さを持った時、このオルゴールを渡してほしい。この音が、あの子を守る最後の光になるように』って」
差出人不明の荷物。忘れた音。全てのピースがはまり、残酷な一枚の絵が完成した。あの旋律は、母の愛の証であると同時に、罪の記憶そのものだったのだ。無気力に生きてきた自分は、本当は、母が命懸けで守ってくれた未来を、ただ浪費していただけだった。
翔太は、自分の内側から、今まで感じたことのない激しい感情が突き上げてくるのを感じた。それは、怒りでも悲しみでもなかった。自分の人生を取り戻さなければならないという、燃えるような渇望だった。
***第四章 夜明けのフーガ***
古書店に戻った翔太は、一晩中眠れなかった。オルゴールを何度も巻き、その旋律を聴き続けた。かつては恐怖の音だったメロディが、今は子を守ろうとする母の必死の祈りのように聞こえる。その音は、もはや過去の呪縛ではなく、未来へ踏み出すための序曲だった。
翌日、彼は再び叔母を訪ねた。痩せてしまった叔母の手を、翔太は力強く握った。「ありがとう、母さん。俺を育ててくれて」叔母、ではない。自分を三十年間、偽りの息子として、しかし本物の愛で育ててくれた、もう一人の母親だ。
叔母は泣きながら、一枚のメモを翔太に渡した。「あなたのお母さん……姉さんは、刑期を終えて、今は海辺の小さな町で、一人で静かに暮らしているわ」
翔太は迷わなかった。自分の人生は、偽りの追憶から始まった。ならば、真実の再会で、本当の物語を始めなければならない。
電車を乗り継ぎ、たどり着いたのは、潮の香りが満ちる小さな港町だった。メモの住所を頼りに歩くと、海の見える小高い丘の上に、質素な一軒家が建っていた。心臓が早鐘を打つ。ドアの前で、何度も深呼吸を繰り返す。そして、意を決して、古びたドアをノックした。
しばらくして、ゆっくりとドアが開く。そこに立っていたのは、深く皺が刻まれ、白髪の目立つ、小柄な女性だった。記憶の中の母よりずっと年老いていたが、その優しい眼差しに、面影は確かに残っていた。彼女は、目の前の青年が誰なのかわからず、怪訝な顔をしている。
翔太は、込み上げる感情を必死にこらえ、震える声で言った。
「ただいま……母さん」
その言葉を聞いた瞬間、女性の時間が、三十年ぶりに動き出したようだった。驚きに見開かれた目から、大粒の涙がとめどなく溢れ出す。言葉にならない嗚咽が漏れ、彼女はただ、静かに微笑んだ。
翔太は、何も言わずに一歩踏み出し、その小さな体をそっと抱きしめた。温かい。ずっと求めていた温もりだった。遠くで、カモメの鳴き声が聞こえる。潮風が、長すぎた断絶の時間を埋めるように、二人を優しく包み込んでいた。
罪が消えることはない。失われた時間も戻らない。けれど、ここから、二人のための新しいフーガが始まるのだ。夜明けの光が、二人の再会を静かに照らしていた。
忘却のフーガ
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