ラスト・インク

ラスト・インク

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都会の裏路地で、神崎亮は時間の墓守をしていた。彼が営む古物店『刻の忘れ物』には、持ち主を失くした品々が静かに眠っている。亮には秘密があった。物に触れると、そこに宿った人間の強い記憶や感情が、奔流のように流れ込んでくるのだ。そのせいで、彼は生身の人間と深く関わることを避けて生きてきた。

ある雨の午後、店のドアベルが澄んだ音を立てた。現れたのは、雨粒を髪に光らせた女性、早川美咲だった。彼女は少し緊張した面持ちで、桐の箱をカウンターに置いた。
「祖父の遺品なのですが、価値が知りたくて」
箱の中には、黒檀の軸を持つ一本の古い万年筆が鎮座していた。亮が恐る恐る指先でそれに触れた瞬間――視界が白く染まった。

桜吹雪。走り去る列車の警笛。インクの匂い。そして、声を殺して泣く若い女性の姿と、胸を締め付けるような深い後悔の念。

「うっ…」
思わず手を引いた亮に、美咲が訝しげな視線を向ける。
「どうかしましたか?」
「いえ…。この万年筆、何か特別な思い入れがありませんでしたか? あなたのお祖父さんにとって」
亮の言葉に、美咲は目を見開いた。
「どうしてそれを…? 祖父は晩年、ずっとこの万年筆を眺めては溜息をついていました」
「この万年筆は、何かを伝えたがっています。書かれるはずだった、とても大切な手紙の内容を」

それが、亮と美咲の奇妙な探索の始まりだった。美咲は祖父の遺した日記を、亮は自身の能力を頼りに、万年筆に秘められた謎を追い始めた。
最初はぎこちなかった二人だが、調査を進めるうちに、互いの素顔に触れていった。亮は、他人の感情に振り回される苦悩を、美咲は、厳格だった祖父の本当の姿を知りたいという切実な願いを語った。

日記と、亮が万年筆から断続的に読み取るビジョンを照らし合わせるうち、衝撃的な事実が浮かび上がる。美咲の祖父・雄介は、五十年前、恋人だった千代という女性と駆け落ちする約束をしていたのだ。しかし、駅で待つ雄介のもとに千代は現れなかった。雄介は裏切られたと思い込み、故郷を捨てた。万年筆は、その時、千代に渡すはずだった別れの手紙を書くために買ったものだった。だが、結局その手紙は書かれなかった。万年筆には、雄介の千代への未練と、伝えられなかった想いがインクのように染み付いていたのだ。

「でも、どうして彼女は来なかったんだろう…」美咲が呟く。
亮は再び万年筆を握り、意識を集中させた。ビジョンが鮮明になる。駅の伝言板、『チヨ、父キトク、スグカエレ』という殴り書きの文字。それを見て、血の気の引いた顔で走り去る千代の姿が見えた。
「すれ違いだ…。彼女は来なかったんじゃない。来られなかったんだ」
亮の言葉に、美咲は息を呑んだ。

最後のピースは、意外な場所で見つかった。祖父の古い住所録の隅に、走り書きされた『白百合園』という施設の名前。そこは、市内で最も歴史のある介護施設だった。

施設の面会室で、車椅子に座る上品な老婦人が二人を迎えた。名札には『小野寺千代』とある。美咲が震える手で桐の箱を開け、万年筆を差し出した。
千代はそれを見た瞬間、少女のように瞳を潤ませた。
「雄介さんの…」
美咲が、すれ違いの真実を語ると、千代の頬を静かに涙が伝った。
「そうでしたか…。私はずっと、彼に捨てられたのだと思っていました。あの伝言を見て駅を離れたほんの数分の間に、私たちの人生は分かれてしまったのですね」
千代は万年筆を優しく握りしめた。「ありがとう。五十年ぶりに、彼に会えた気がします」

帰り道、雨はすっかり上がっていた。夕日が照らす街を歩きながら、美咲が亮に微笑みかける。
「神崎さん、ありがとうございました。あなたのおかげで、祖父の最後のインクは、やっとあるべき場所に届きました」
「俺の方こそ」亮は、これまで呪わしいとさえ思っていた自分の力を、初めて誇らしく感じていた。「物に宿るのは、忘れられた記憶だけじゃない。誰かを想う、温かい心でもあるんですね」

『刻の忘れ物』に戻った亮は、店の看板をそっと撫でた。もう、人と関わることは怖くない。流れ込んでくる感情が温かいものであることを、彼は知ってしまったのだから。
ドアベルが、再び軽やかな音を立てる。亮は、これまで見せたことのない柔らかな笑みを浮かべて、客人を迎えた。彼の新しい時間が、今、静かに動き始めていた。

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