星屑の文箱

星屑の文箱

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***第一章 埃をかぶった書斎***

父が死んだ、と母から電話があったのは、締切間近の企画書と格闘している最中だった。受話器の向こうで聞こえる母の淡々とした声は、まるで天気予報でも告げるかのように平坦で、俺、水野涼介の心を少しも揺さぶらなかった。享年六十八。癌だったらしい。十年以上、まともに顔も見ていない男の死に、涙など一滴も流れなかった。

週末、重い身体を引きずって、群青色の瓦屋根が古びた実家に戻った。通夜も葬儀も、まるで他人事のように過ぎていく。読経の声も、親戚たちの囁きも、薄いガラス一枚を隔てた向こう側の出来事のようだった。俺の中にあったのは、感傷ではなく、むしろ解放感に近い、空虚な安堵だった。

父、水野健一は、俺にとって「不在」そのものだった。家にいても、いつも書斎に籠もり、小さな製本工場を経営する仕事に没頭していた。会話らしい会話の記憶はない。たまに交わす言葉は、決まって俺の成績や将来への叱責ばかり。あの男は、家族よりも、分厚い本の背表紙やインクの匂いを愛していたのだ。そう、ずっと思っていた。

「涼介、悪いけど、お父さんの書斎、片付けてくれないかしら」
初七日を終えた夜、母にそう頼まれた。あの部屋は、父という人間のすべてが凝縮された、俺にとって最も忌むべき場所だった。だが、断る理由も見つからない。頷くと、母は「鍵よ」と、小さな銀色の鍵を俺の掌に載せた。ひんやりとした金属の感触が、妙に生々しかった。

書斎のドアを開けると、カビと古い紙の匂いが鼻をついた。壁一面を埋め尽くす本棚。中央に鎮座する、傷だらけの大きなマホガニーの机。父がいつも座っていた革張りの椅子は、主を失い、静かに佇んでいる。俺はため息をつき、無感情に作業を始めた。本を紐で縛り、書類をゴミ袋に詰めていく。父の痕跡を、この家から一つずつ消していく作業。それは、俺の心に巣食う、父へのわだかまりを清算する儀式のようでもあった。

その時だった。机の引き出しの奥に、硬いものが当たるのを感じた。引き出してみると、それは星空の絵が描かれた古いブリキの文箱だった。蓋を開ける。中には、クリーム色の封筒が、隙間なくぎっしりと詰め込まれていた。束にして百通は超えるだろうか。

すべての封筒の宛名には、震えるような、それでいて懸命に整えようとした筆跡で、『水野涼介様』と書かれていた。差出人の名はない。手に取った一通を裏返すと、封はされていなかった。中から便箋を抜き出す。万年筆で書かれたインクの文字が目に飛び込んできた。

『涼介へ。今日、君が初めて「パパ」と呼んでくれた。正確には「パァ」だったけどな。一生分の宝物をもらった日だ。』

――なんだ、これは。
心臓が嫌な音を立てて跳ねた。それは紛れもなく、俺が憎んでいた父の筆跡だった。

***第二章 届かなかった言葉たち***

俺は書斎の床に座り込み、貪るように手紙を読み始めた。日付は、俺が生まれた直後から始まっていた。そこには、俺の知らない父の姿が、鮮やかに息づいていた。

『涼介へ。お前が熱を出した。小さな身体で必死に呼吸する姿を見て、何もできない自分がもどかしくて、情けなくて、神様に祈った。俺の寿命をくれてやるから、この子を助けてくれ、と。柄にもないな。』

『涼介へ。初めての運動会、お前の走る姿をファインダー越しに追いかけるのに必死で、結局まともな写真が撮れなかった。母さんには呆れられたが、俺の目には、誰より速く走るお前の姿が焼き付いている。一番星みたいに、キラキラと。』

ページをめくるたびに、戸惑いは深まった。俺の記憶の中の父は、運動会に来たことすらなかったはずだ。いつも仕事にかまけて、俺のことなど見ていない男だったはずだ。なのに、この手紙に綴られているのは、不器用な愛情表現の裏側で、息子の成長の一瞬一瞬を、宝物のように慈しむ父親の姿だった。

手紙は、俺の成長と共に続いていく。

『涼介へ。中学生になった君は、めっきり口数が減った。俺と似てきたな、と母さんが笑う。本当は、もっと話がしたい。好きな子のこと、部活のこと。でも、俺はきっと、うまく言葉にできないだろう。だから、こうして手紙を書く。』

手紙の中の父は、俺が好きなバンドを知っていて、俺が隠れて読んでいたSF小説の感想まで書いていた。俺が父を拒絶すればするほど、父は手紙の中で、俺に語りかけ続けていたのだ。なぜ、これを渡さなかったんだ。なぜ、生きてるうちに、一言でも……。怒りに似た感情が込み上げてくる。しかし、それと同時に、胸の奥底で硬く凍っていた何かが、少しずつ溶けていくのを感じていた。

だが、読み進めるうちに、奇妙な違和感が頭をもたげ始めた。手紙の内容は、時折、現実の記憶と微妙に食い違っている。例えば、父は星の話など一度もしたことがなかったのに、手紙にはやけに星座や宇宙の話が出てくるのだ。

『いつか、一緒に土星の輪を見に行こう。約束だぞ、涼介。』

そんな約束、した覚えはない。それに、筆跡だ。大半は父の無骨な字なのだが、時折、まるで別の人間が書いたかのような、流麗で、どこか楽しげな筆跡が混じっていることに気づいた。まるで、二人の人間が一つの人格を演じているような、不気味なちぐはぐさ。

――父さんは、一体誰だったんだ?
俺が知っている父と、手紙の中の父。どちらが本当の姿なんだ? 謎は深まるばかりだった。

***第三章 双つの星の秘密***

文箱の底に、手紙とは違う、硬い感触のものがあった。古びた8ミリビデオのテープと、一枚の色褪せた写真。写真には、瓜二つの顔をした二人の青年が、肩を組んで笑っていた。一人は、間違いなく若き日の父、健一だ。そしてもう一人は…? 見覚えのある顔だった。そうだ、父の仏壇の隣に飾られていた、小さな遺影の男。俺が幼い頃に病気で死んだと聞かされていた、父の双子の弟――叔父の、水野純平だ。

嫌な予感が背筋を走った。俺は書斎の隅で埃をかぶっていた古い映写機を見つけ出し、祈るような気持ちでテープをセットした。壁に、ノイズ混じりの映像が投影される。

『りょーすけ!こっちこっち!』

そこに映っていたのは、幼い俺と、屈託のない笑顔を向ける若い男だった。父ではない。写真で見た、叔父の純平だった。彼は俺を肩車し、公園を駆け回り、夜にはベランダで一緒に天体望遠鏡を覗き込んでいる。

「いいか、涼介。あれがオリオン座だ。そして、あのひときわ明るいのがシリウス。星はな、何万年も前の光を俺たちに届けてくれてるんだ。すげぇだろ?」

その声、その口調。それは、手紙の中で星を語っていた、あの楽しげな筆跡の主の声だった。

愕然とした。心臓が凍りつく。俺は震える手で、再び手紙の束を手に取った。日付を追う。そして、ある一点で、あの流麗な筆跡がぷっつりと途絶えていることに気づいた。俺が六歳になった年の夏。叔父が、死んだとされる年だ。

それ以降の手紙は、すべて父の、あの無骨な筆跡で書かれていた。

『涼介へ。純平がいなくなって、世界から色が消えたみたいだ。あいつは、お前のことを自分の子供みたいに可愛がっていた。だから、俺が代わりに、この手紙を続ける。あいつがお前に伝えたかった言葉を、想いを、俺が終わらせるわけにはいかないからだ。』

真実が、落雷のように俺の全身を貫いた。
手紙は、もともと叔父の純平が始めたものだったのだ。病に侵され、長くは生きられないと悟った叔父が、甥である俺の未来に向けて、遺言のように書き溜めていた言葉の数々。そして父は、双子の片割れの死後、その遺志を継いだ。叔父になりきり、弟の想いを守るために、俺が大人になるまで、来る日も来る日も、手紙を書き続けていたのだ。

俺が「冷たい」「無関心だ」と断罪していた父の沈黙は、沈黙ではなかった。それは、最愛の弟を失った深い喪失感と、弟が遺した愛情をどう扱っていいか分からない、途方もない不器用さの表れだったのだ。父は、弟の面影を色濃く宿す俺を見るのが、辛かったのかもしれない。だから俺を遠ざけ、手紙という形でしか、愛情を伝えられなかったのだ。父は、一人で二つの魂を生きていた。父・水野健一として、そして、叔父・水野純平として。

涙が、堰を切ったように溢れ出した。父さん、ごめんなさい。叔父さん、ありがとう。声にならない嗚咽が、埃っぽい書斎に響き渡った。

***第四章 空の便箋に***

机の上には、父が最後まで使っていた万年筆と、空っぽになったインクボトルが置かれていた。まるで、すべての言葉を吐き出し、役目を終えたかのように。俺はその万年筆を、そっと手に取った。ずしりと重い。それは、父と叔父、二人の人生の重みそのものだった。

俺は文箱から、一枚だけ残っていた真新しい便箋を取り出した。そして、新しいインクを万年筆に満たす。冷え切っていたはずの実家の空気が、窓から差し込む夕陽に照らされて、どこか温かく感じられた。壁に飾られた本の一冊一冊が、父の沈黙の裏にあった愛情の証人に見える。

俺は、生まれて初めて、自分の意志で、父に、そしてまだ見ぬ叔父に、手紙を書こうと決めた。何から書けばいいだろう。伝えたいことは、星の数ほどある。謝罪も、感謝も、後悔も。

ゆっくりと、ペン先を紙に落とす。

カリ、と小さな音が、静寂な部屋に響いた。それは、凍てついていた家族の時間が、再び動き出す音のようだった。

『父さんと、純平叔父さんへ。』

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