第一章 蜂蜜の匂いがする森
柏木透の人生は、埃と古紙の匂いに満ちていた。神保町の古書店の片隅、背の高い書架に囲まれた薄暗い指定席で、彼は過去という名の迷宮から抜け出せずにいた。五年前に亡くした妹、美咲。彼女の笑顔、声、共に過ごした時間の断片が、彼の心に重く積もり、未来へ踏み出す足を絡め取っていた。
その日も、透は客のいない書庫の奥で、未整理の古書を仕分けるという単調な作業に没頭していた。革装丁の本、和綴じの巻物、黄ばんだペーパーバック。その中に、一冊だけ異質な本があった。表紙には何の文字もなく、ただ黒曜石のように滑らかな素材でできている。まるで夜の湖面を切り取ったような、吸い込まれそうな黒。好奇心に抗えず、透はそのページをそっと開いた。
瞬間、本から溢れ出したのは文字ではなく、目の眩むような純白の光だった。古紙の匂いが消え、代わりにむせ返るほど甘い、蜂蜜と夜咲きの花を混ぜたような香りが鼻腔を突いた。意識が急速に遠のいていく。書架がぐにゃりと歪み、床が抜けるような浮遊感に襲われ、彼はなすすべもなく光の奔流に飲み込まれていった。
次に目を開けた時、透は湿った苔の上に横たわっていた。見上げれば、空には乳白色の月と、それよりも小さな瑠璃色の月が寄り添うように浮かんでいる。周囲は見たこともない植物群で、巨大なキノコはじんわりと燐光を放ち、足元のシダ植物は触れると微かな音色を奏でた。空気はひんやりと肌を撫で、あの甘い香りが満ちている。
ここはどこだ。夢か? しかし、頬を伝う冷たい汗の感触はあまりに生々しかった。混乱と不安が胸を締め付ける。その時、腹の底から突き上げてくるような、強烈な飢餓感に襲われた。胃が焼け付くように痛み、立っているのもままならない。だが、周りには食べられそうな果実も、水の流れる音もなかった。
絶望が彼を支配しかねない、その刹那。頭の中に直接、声が響いた。それは男でも女でもなく、風の音や木の葉の擦れる音を束ねたような、自然そのものの声だった。
『生きよ。生きるためには、糧が必要だ』
「糧…? 食べ物なんてどこにもないじゃないか」透はかすれた声で呟いた。
『汝の内にこそ、糧はある。記憶を差し出せ。最も些細な記憶から。それがこの世界、レムノスでの理だ』
記憶を、糧に? 荒唐無稽な言葉に、透は一瞬思考を停止させた。だが、耐え難い空腹が彼を追い詰める。藁にもすがる思いで、彼は意識を集中させた。昨日の昼食。確か、コンビニで買った鮭弁当だった。その味気ない白米の味、パサパサした鮭の食感、添えられた漬物の酸っぱさ。その情景を、脳内で強く思い描いた。
すると、頭の中から何かがふっと引き抜かれるような奇妙な感覚と共に、灼けつくような空腹が嘘のように和らいでいったのだ。満腹感とは違う、ただ欠乏が満たされたという静かな充足感。しかし、代償は大きかった。彼はもう、昨日の昼食に何を食べたのか、思い出せなくなっていた。記憶の地図から、その一点だけが綺麗にくり抜かれてしまったかのように。
透は愕然とした。この世界で生きることは、自分自身を少しずつ消していくことと同義だった。そして、彼の脳裏に浮かんだのは、決して失うことのできない妹・美咲との思い出の数々だった。あれだけは、何があっても手放すわけにはいかない。彼は固く、固く誓った。この理不尽な世界で、自分自身を失わずに生き延びる方法を、必ず見つけ出してやると。
第二章 失われた名前の少女
記憶を消費しながら森を彷徨い、数日が経った。透は慎重に、失っても惜しくない記憶を選んで糧にしていた。小学生の頃に覚えた県庁所在地、一度しか会ったことのない遠い親戚の顔、内容を忘れてしまった映画のタイトル。彼の内なる世界は、虫食いの古書のように、少しずつ欠落を増やしていった。
そんなある日、彼は巨大な水晶が林立する開けた場所で、一人の少女と出会った。透けるような白い髪を風になびかせ、古びたワンピースを纏った彼女は、水晶に映る自分の姿をぼんやりと眺めていた。
「君も…『漂流者』か?」
透が声をかけると、少女はびくりと肩を震わせ、怯えたような瞳で彼を見た。その瞳は、何か大切なものを探し求めるように、心許なく揺れていた。
「…わからない。私が、なんなのかも」
少女は自分の名前さえ覚えていなかった。彼女もまた、この世界で生きるために記憶を消費し続けた結果、自分自身の輪郭すら失いかけているのだ。透は彼女に「リリア」という仮の名前を与えた。水晶の森で見つけた、百合に似た白い花の名だ。
リリアは透よりも長くこの世界にいるらしく、記憶を消費するコツをいくつか知っていた。感情を伴わない知識や情報から先に使うこと。強い感情と結びついた記憶は、一度に多くの飢えを満たすが、その分、魂の摩耗も激しいこと。そして、この世界のどこかにあるという「忘却の泉」の伝説。泉に最も大切な記憶を捧げれば、元の世界へ還れるという、不確かで残酷な希望。
二人は共に旅を始めた。一人でいるよりも、孤独と恐怖はいくらか和らいだ。透はリリアに、自分が失った記憶の断片を語って聞かせた。それは、彼がまだ持っている他の記憶との繋がりを確かめ、自己を保つための必死の抵抗だった。リリアは静かに耳を傾け、時折、羨むような、あるいは悲しむような、複雑な表情を浮かべた。
透の心の支えは、依然として妹・美咲の記憶だった。病室の窓から見えた桜並木、下手くそな手料理を「美味しい」と笑ってくれた顔、最後に交わした「また明日ね」という約束。これらの記憶は、彼の存在証明そのものだった。これを失えば、柏木透という人間は、空っぽの器になってしまう。だからこそ、彼はどんなに飢えても、その聖域にだけは決して手を付けなかった。
旅を続けるうち、透はリリアの些細な仕草に、既視感を覚えることがあった。本のページを指でなぞる癖、困った時に少しだけ眉をひそめる表情。そのたびに胸の奥が微かに痛んだが、その正体は分からなかった。記憶を少しずつ失っていく中で、感覚だけが、何かを訴えかけているようだった。
第三章 兄妹のレクイエム
旅は過酷を極めた。記憶の消費は避けられず、透の世界からは彩りが失われていった。好きだった音楽はただの音の羅列になり、感動した小説の物語は筋書きを思い出せなくなった。彼の内面は、がらんどうの廃墟に近づきつつあった。
そして、ついにその時が来た。嵐が吹き荒れる夜、二人は洞窟で寒さに震えていた。飢えが限界に達し、透の意識は朦朧とし始めていた。消費できるような、どうでもいい記憶はもう残っていない。残っているのは、両親との記憶、数少ない友人との記憶、そして…美咲との記憶だけだった。
隣でリリアが苦しげに息をしている。このままでは、二人とも消えてしまう。透は葛藤の末、震える手で聖域の扉に触れた。美咲との思い出の中から、最も些細で、最もたわいない記憶を一つだけ。
『夏の日、二人で食べたソーダ味のアイスキャンディー。当たりくじが出て、もう一本もらった。妹のはしゃいだ笑顔。空には、入道雲がそびえていた』
その記憶を、糧として差し出した。
瞬間、激しい痛みが透の魂を貫いた。それは単なる喪失ではなかった。心の一部が抉り取られ、冷たい風が吹き込むような感覚。そして、信じられないことが起きた。
洞窟の壁に、幻が映し出されたのだ。夏の強烈な日差し、蝉時雨、そしてソーダ味のアイスを頬張る、幼い兄妹の姿。透が消費した記憶が、この世界の風景として、一時的に再生されたのだ。
幻影に見入っていた透の隣で、リリアが息を呑む音がした。彼女は幻の中の少女を、そして透の顔を、信じられないという目で見比べている。彼女の虚ろだった瞳に、初めて確かな光が灯った。
「…あ…の、アイス…おいしかった…ね」
リリアの唇から、か細い声が漏れた。それは問いかけではなく、遠い過去を懐かしむような、確信に満ちた呟きだった。
「…お兄ちゃん?」
その一言は、雷鳴となって透の頭蓋を揺さぶった。リリア。白い髪の少女。本のページをなぞる癖。困った時の眉のひそめ方。全てのピースが、一つの残酷な絵を完成させた。
この世界は、漂流者たちが失った記憶の集合体だったのだ。誰かが記憶を消費するたび、その断片が世界のどこかに現出する。透が捧げた「妹との記憶」は、リリアの中に眠っていた同じ記憶の鍵をこじ開けたのだ。
彼女こそ、透が忘れていた存在。透より先にこの世界に迷い込み、記憶のほとんどを失ってしまった、最愛の妹。柏木美咲、その人だった。
透は絶叫した。守り抜こうとした記憶。その記憶のせいで、彼は目の前にいる妹に気づくことさえできなかった。記憶に固執することが、彼女を孤独の中に置き去りにしていた。彼が大切に抱きしめていた思い出は、美しい過去の標本であると同時に、二人を隔てる冷たいガラスケースでもあったのだ。価値観が、世界が、足元から崩れ落ちていく。嗚咽が止まらなかった。
第四章 温かい喪失
「ごめん…ごめんな、美咲」
涙に濡れた声で、透は妹の名前を呼んだ。美咲は、まだ全てを思い出せないのか、混乱した表情で首を振る。だが、彼女の瞳は確かに透を「兄」として捉えていた。
もう迷いはなかった。忘却の泉へ向かう目的が変わった。元の世界へ還るためではない。妹に、彼女自身の記憶を、人生を取り戻させるために。透は、残された自身の記憶の全てを、妹に捧げることを決意した。
それからの旅は、まるで自らの葬列のようだった。透は一つ、また一つと、美咲との思い出を糧に変えていった。誕生日にもらった手編みのマフラーの記憶を消費すると、二人の足元に一瞬だけ、色とりどりの毛糸玉が転がった。二人で星を見た夜の記憶を捧げると、空には天の川の幻が架かった。
記憶を失うたびに、透の中から「柏木透」という人間が消えていく。だが、不思議と恐怖はなかった。代わりに、空っぽになっていく心が、妹の存在で満たされていくような、温かい感覚があった。
そして、彼らはついに忘却の泉に辿り着いた。月の光を浴びて乳白色に輝く、静かな泉。透は美咲の手を固く握り、泉の前に立った。
彼に残された、最後の、そして最も大切な記憶。それは、美咲が亡くなる前日、病院のベッドで彼に微笑みかけた、最後の笑顔の記憶だった。
「美咲。これでお前は、お前に戻れる。俺のことは忘れてもいい。でも、お前自身のことだけは、絶対に忘れるな」
透は祈りを込めて、その最後の記憶を泉に捧げた。
世界が、白光に包まれた。泉から溢れ出した光の奔流が、失われた記憶の全てとなって美咲の体に注ぎ込まれていく。彼女の白い髪が、元の艶やかな黒髪へと変わっていく。
「お兄ちゃん…! 思い出した、全部…! 忘れたくなかった…ありがとう…!」
光の中で、美咲の泣き声が聞こえた。透は、その声を聞きながら、安らかな気持ちで意識を手放した。過去に囚われていた男は、その過去を全て手放すことで、初めて誰かの未来を救うことができたのだ。
次に気がついた時、透は古書店の書庫に立っていた。手に持っていたはずの黒い本は、元の書架に収まっている。窓からは西日が差し込み、埃がキラキラと舞っていた。
何もかもが元通りだった。だが、彼の内面だけは決定的に違っていた。
胸に、ぽっかりと穴が空いている。何か、とてつもなく大切なものを失ったという、確かな喪失感。しかし、その喪失は冷たくなく、不思議と温かかった。具体的なことは何も思い出せない。妹がいたような気もするが、その顔も名前も、どんな思い出があったのかも、全てが霞の向こう側だ。
ただ、胸の奥底に、誰かを救ったという感触と、言葉にならない愛しさだけが、残り火のように燻っている。
透は本棚に背を向け、書庫の扉を開けた。差し込む光が、以前よりも少しだけ優しく感じられた。失った記憶の代わりに、彼は前に進むための、名もなき勇気を得ていた。この温かい喪失感を抱えて、明日を生きていこう。彼の新しい物語は、全てを忘れたこの場所から、静かに始まろうとしていた。