蒼き水脈の守り人

蒼き水脈の守り人

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第一章 深夜のコップと枯れた大地

アオイは、液晶画面の青白い光に照らされた資料の山から、目を離すことすら億劫だった。終電を逃し、タクシーに揺られて辿り着いた薄暗いアパートの部屋は、どこか現実離れした寂しさに満ちている。日付が変わってから数時間。冷蔵庫を開け、ペットボトルの水を手に取った。渇きと疲労が全身を蝕み、胃の腑は空っぽで不快に脈打つ。もはや、食事をとる気力もなかった。

冷たい水が喉を通り過ぎるたびに、体内の熱がわずかに引いていくような錯覚に陥る。ゴクリ、ゴクリ。一気に飲み干す。その瞬間、視界が白く閃き、アオイの意識は無数の泡となって弾けた。

次に目を開けた時、全身を灼くような熱風が吹き付けていた。砂埃が舞い上がり、視界はオレンジ色に染まっている。アパートの天井も、見慣れた壁も、ひび割れたアスファルトの道路も、何一つない。ただ、果てしなく広がる砂と岩石の荒野が、目の前に横たわっていた。空は濃い藍色に、巨大な三日月が浮かび、星々が宝石のように煌めいている。

「……何、これ?」

アオイの声は、砂嵐に吸い込まれて消えた。体は服のままで、水筒もスマホも持っていない。ただ、先ほどまで握っていたペットボトルのキャップが、かろうじて手のひらに食い込んでいる。信じられない光景に、思考が停止する。夢か、幻か、それとも現実か。

その時、乾いた地面から微かに聞こえる水の音に気づいた。目を凝らすと、先ほど自分が立っていた足元から、清らかな水が細く湧き出しているではないか。砂漠のど真ん中で、まるで幻のように、透明な水がゆっくりと流れ出し、小さな水たまりを作っていく。アオイは思わず、その冷たさに指を浸した。肌に触れる水の感覚は、あまりにも現実的だった。

その水たまりを見つめていると、突然、背後から複数の足音が近づいてくる気配がした。振り向くと、全身を布で覆い、まるで砂漠の生物のように細長い影が、無言でこちらを凝視している。彼らの目は、深い飢えと、そして途方もない期待の色を湛えていた。アオイの足元に湧き出る水に、その視線は釘付けになっている。

彼らが何者なのか、どこから来たのか、アオイには理解できなかった。ただ、その沈黙と、水に注がれる狂気にも似た眼差しに、本能的な恐怖を覚えた。彼らの一人が、震える声で呟いた。「…水の、巫女…」

第二章 渇きと希望と偽りの巫女

アオイは「水の巫女」として、砂漠を流浪する「水脈の民」と呼ばれる部族に迎え入れられた。彼らは、わずかな地下水脈を辿り、かろうじて生き延びている人々だった。彼らの世界では、水は命の源であり、神聖な奇跡の象徴。そして、その奇跡を具現化できるアオイは、まさに生ける神として崇められた。

しかし、アオイにとって、それはただの「水飲み」だった。空腹を覚え、乾いた喉を潤そうと水を一気に飲み干す。たったそれだけの行為で、足元から清らかな水が湧き出すのだ。最初は困惑と恐怖しかなかったが、民の飢えと渇きに苦しむ姿を見るにつけ、彼女は水を湧き出すことを躊躇えなくなった。彼らの歓喜と感謝の表情が、アオイの心に重くのしかかる。

「巫女様…あなたが来てくださったおかげで、この村にも希望が灯りました」

カイと名乗る青年が、深々と頭を下げた。彼は水脈の民の若き長であり、この世界で最も賢明な者の一人だった。琥珀色の瞳はいつも真剣で、アオイの能力の謎を解き明かそうと、熱心に問いかけてくる。

「本当に、この水は私が飲んだ時にだけ湧き出るの?」

アオイは尋ねた。カイは頷いた。

「はい。巫女様が水を口にされるたびに、枯れた大地から新たな水脈が拓かれる。信じられないことですが、この目で見ました。我々水脈の民には、そんな力はありません。我らはもう、水を直接飲むことすら、久しくしておりませんから」

カイの言葉に、アオイは驚愕した。「水を飲まない?どうやって生きているの?」

カイは布で覆われた自分の手首を見せた。「我らは、肌から微量の水分を吸収することで生きています。古くからの言い伝えでは、我々の祖先は水を自由に飲んでいたそうですが、長い水枯れの時代を経て、身体が変化してしまったと…」

水枯れの進行は深刻だった。この世界は、かつて豊かな水を湛えた青い星だったという。しかし、何千年も前に起こった大異変により、水脈が枯れ果て、生命が失われつつあった。アオイがいくら水を生み出しても、それは一時的な解決にしかならない。湧き出る水は、すぐに砂に吸い込まれ、蒸発してしまう。水脈の民が生き延びるには、この世界全体に再び水が行き渡る、根本的な解決が必要だった。

カイは、アオイの能力を「水脈の記憶を呼び覚ます力」だと推測していた。

「巫女様が水脈の源に通じているのなら、枯れた大地の奥深くに眠る『生命の根源』を呼び覚ますことができるはず。その場所へたどり着けば、世界は救われるかもしれません」

アオイは、自分が単なる「水飲み」でしかないことを知っている。しかし、目の前の人々の絶望と、そこから生まれた希望の輝きが、彼女に偽りの巫女としての役割を続けさせる。元いた世界での無気力な自分とはまるで違う、誰かに必要とされている感覚が、彼女の心をわずかに温めた。アオイは決意した。この異世界で、自分の「水飲み」の力が、本当に何かを成し遂げられるのか、試してみようと。

第三章 偽りの水脈、歪む真実

アオイとカイ、そして少数の護衛たちは、「生命の根源」を探す旅に出た。灼熱の砂漠を何日も進み、時には地下深くの乾燥した洞窟を潜り抜けた。アオイは度々、喉の渇きと空腹を感じるたびに、周囲に湧き水を呼び出した。その度に、護衛の民は喜びの声を上げ、命を繋いだ。

旅の途中、アオイはカイに尋ねた。「どうして、私が水を飲むと、水が湧くの?私、特別な何かをした覚えはないんだけど…」

カイは立ち止まり、思案顔で答えた。「…我々の言い伝えには、『異なる世界から訪れる者が、生命の根源を揺り動かす』というものがあります。巫女様は、まさにその預言に合致している。恐らく、巫女様が口にする水が、この世界の水脈に共鳴し、休眠状態にある源を刺激しているのでしょう」

しかし、カイの言葉には、どこか納得できないものをアオイは感じていた。自分の能力は、あまりにも日常的で、あまりにも「普通」だった。世界を救うような大層な力には思えなかった。

ある日、彼らは廃墟となった古代の都市の遺跡にたどり着いた。そこには、かつて壮大な水路が巡らされていた痕跡があり、壁画には、人々が水と共に生き、水に感謝する姿が描かれていた。そして、その中央には、人々が聖なる泉の水を「飲む」姿が鮮やかに描かれていた。

その絵を見たカイの顔に、深い苦悩の色が浮かんだ。「彼らは…本当に水を飲んでいたのか…」

アオイはその壁画に、ある奇妙な違和感を覚えた。壁画の人物は、確かにコップを口に当てている。しかし、その口元は、まるで水を吸い込むような形ではない。むしろ、何かを押し出すような、あるいは、何かを「受け入れている」ような、奇妙な口の形をしていた。

その日の夜、カイはアオイに、一つの事実を告白した。

「巫女様…実は、水脈の民の古文書には、もう一つの記述があります。我々の身体が、水枯れの時代に適応し、水の直接摂取を『拒む』ように変化してしまった、と。つまり、我々は水を飲もうとすると、身体がそれを異物と認識し、激しい苦痛に襲われるのです」

アオイは息を呑んだ。それは、水を「飲む」ことすらできない身体。いくら水が湧いても、彼らがそれを「飲めない」のなら、この世界は救われない。自分の能力は、彼らにとって一時的な喉の渇きを潤す以上の何物でもないのだ。アオイは愕然とした。彼女は「偽りの巫女」であるだけでなく、その能力自体が、この世界の根本的な問題解決には繋がらないことを悟った。

第四章 水の記憶と代償の真実

アオイは深い絶望に打ちひしがれた。自分がどれだけ水を生み出しても、この世界の民は根本的に渇きを癒すことができない。自分は、彼らの希望を煽り、偽りの期待を抱かせただけだったのか。

しかし、カイはアオイに語りかけた。「巫女様…だからこそ、あなたが必要なのです。我々は水を飲むことを忘れ、身体も拒否するようになってしまった。しかし、あなたの湧き出す水は、我々の身体には害を与えない。そして何より、あなた自身の『水を飲む』という行為が、我々に失われた『水の記憶』を呼び覚まそうとしているのではないでしょうか」

カイはアオイの前に、小さな水晶の球体を置いた。それは、水脈の民に代々伝わる聖具だという。

「この『記憶の水晶』は、古の水の記憶を映し出すとされています。巫女様の『水を飲む』という行為が、何故この世界に水を呼び出すのか…そして、我々が水を再び飲めるようになる方法を、これが見せてくれるかもしれません」

アオイは空腹を感じ、慣れた仕草で水筒の水を一気に飲み干した。その瞬間、水晶が青白い光を放ち、アオイの脳裏に、怒涛の映像が流れ込んできた。

それは、アオイが住んでいた元の世界の風景だった。豊かな水に満ちた青い地球。人々が当たり前のように水を飲み、生活する光景。そして、アオイ自身が、何度も何度も水を飲み干す日常の断片。その映像は、異世界の水脈の民の身体と共鳴し、彼らの奥底に眠る「水の記憶」を呼び覚まそうとしていた。

そして、映像は奇妙な真実を映し出す。「空腹時に水を一気に飲み干す」行為。それは、アオイの精神と肉体のバランスが極限まで崩れた時に、一時的に元の世界と異世界との間に「水門」を開くトリガーだったのだ。彼女の身体そのものが、この二つの世界を繋ぐ「水門」として機能していた。アオイが水を飲むたびに、元の世界の「水の記憶」と、微細な水分子のエネルギーが、彼女の身体を介して異世界に流れ込み、休眠状態の水脈を活性化させていたのだ。

しかし、その映像の最後に、衝撃的な光景が映し出された。

「水門」として機能するアオイの身体は、徐々に異世界の水脈と深く同化し、元の世界への通路は閉ざされていく。何度も水門を開けば開くほど、アオイの肉体は、この世界の「水」そのものへと変容していくのだった。彼女が水を湧かせれば湧かせるほど、彼女は元の世界への道を失っていく。世界の再生と引き換えに、彼女は故郷と、自身の人間としての肉体を失うことになる。

アオイは絶句した。自分の日常的な行為が、こんなにも大きな代償を伴うとは。自分が、この世界に「水」を与えるたびに、自分自身が「水」になっていくというのか。彼女の存在意義は、もはや「水」そのものになることだった。

第五章 水の記憶、生命の輪廻

アオイは選択を迫られた。元の世界への帰還を諦め、この異世界で「水」として生きるか。あるいは、自身の人間性を保ちながら、目の前の人々の渇きを見過ごすか。彼女の心は激しく揺れた。しかし、疲弊した元の世界で、自分の存在意義を見つけられずにいたアオイにとって、この異世界で人々に希望を与える「水の巫女」としての役割は、すでにかけがえのないものとなっていた。

「カイ…私は…この世界に水を与える。私が水になることで、この世界が救われるのなら、それでいい」

アオイの声は、決意に満ちていた。カイの琥珀色の瞳に、涙が滲む。

生命の根源へと続く最深部で、アオイは最後の「水の儀式」に臨んだ。それは、彼女の身体を、この世界の巨大な水脈そのものへと接続する、壮大な儀式だった。

水脈の民が見守る中、アオイは最後の水を、ゆっくりと、しかし確実に飲み干した。ゴクリ、ゴクリ。それは、これまでで最も重く、最も神聖な行為だった。

水が喉を通り、体内に流れ込むたびに、アオイの身体が輝きを放ち始める。肉体が半透明になり、皮膚の下に青い光の脈が走り、やがて、彼女の体は水滴のように揺らめき、崩れていった。しかし、それは消滅ではなかった。彼女の肉体は、水脈の根源へと流れ込み、巨大な青い光の渦となって、大地全体に浸透していく。

同時に、大地が大きく震え、乾ききっていた土中から、轟音と共に清らかな水が噴き出した。それは、アオイがこれまで湧き出させてきた泉とは比べ物にならない、壮大で永遠なる水の奔流だった。世界中に、水の記憶が蘇り、大地は潤い、草木が芽吹き始めた。

水脈の民は、湧き出した水を見つめ、恐る恐る手を伸ばした。そして、その冷たさに触れた瞬間、彼らの脳裏に、遠い祖先の「水を飲む」記憶が鮮やかに蘇った。カイは、震える手で水を掬い、口元へと運んだ。最初は激しい拒絶反応に襲われたが、彼の心は、壁画に描かれた祖先の姿を思い出した。そして、ゆっくりと、しかし確かに、水を飲み込んだ。

ゴクリ。

それは、何千年もの間忘れ去られていた、生命の音が大地に響き渡った瞬間だった。カイは涙を流し、そして、他の民もまた、それぞれの心の奥底に眠る「水の記憶」を呼び覚まし、次々と水を飲み始めた。

世界は再生した。人々は再び水を飲み、生命の輪廻を取り戻した。

アオイの姿はそこにはなかった。しかし、流れる水の一滴一滴に、風に揺れる草花の葉一枚一枚に、彼女の存在が息づいているように感じられた。

カイは、水源となった場所を見つめ、静かに呟いた。

「巫女様…あなたは、私たちが忘れていた『生命の記憶』そのものになったのですね」

アオイは、もはや元の世界に戻ることはない。しかし、彼女は「水を飲む」というごく個人的で、当たり前の行為を通して、世界を救い、そして、自らが世界の一部となることで、究極の存在意義を見出したのだ。空っぽだった胃を満たす水は、彼女に新たな生を与え、そして、永遠の命へと導いた。大地に流れる水は、今も静かに、アオイの物語を語り継いでいる。

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