第一章 透ける男と白い街
僕、相沢 海(あいざわ かい)には、世界が少し違って見えている。人の形を縁取るオーラが、その存在の確かさを色で教えてくれるのだ。どっしりと大地に根を張るような老人は深緋色に、未来への希望に満ちた子供は芽吹く若草色に輝いている。彼らは「実在」している。
それに比べて、僕自身はどうだ。ショーウィンドウに映る自分の輪郭は、常に淡い水色で揺らめいている。誰かの視線を感じるたびに、指先がすうっと透け、背景の煉瓦が滲んで見える。まるで、世界に僕というインクがうまく定着しないみたいに。観測されるほど、僕の存在は希薄になる。これは僕だけの呪いだ。
その日、僕はいつものように人混みを避け、裏路地を歩いていた。古びたジャズ喫茶から漏れる、豆を焙煎する香ばしい匂い。湿ったアスファルトを踏む革靴の音。だが、角を曲がった瞬間、それら全ての感覚がぷつりと途切れた。
目の前の景色が、音も、匂いも、色さえも失い、ただ真っ白な「無」に変わっていた。数分前まで確かにそこにあったはずの古書店も、小さな花屋も、そこにいた人々も、全てが巨大な消しゴムで消し去られたかのように、存在の痕跡ごと消え失せている。
人々がその異常に気づき、遠巻きにざわめき始める。その無数の視線が僕に突き刺さった瞬間、激しい眩暈に襲われた。左腕が陽炎のように揺らぎ、完全に透明になる。僕の不安定さと、この世界の空白は、まるで共鳴しているかのようだった。
「あなたも、見えているんですか? この『白』が」
振り返ると、そこに一人の女性が立っていた。図書館の司書だと名札が示している。彼女のオーラは、雨上がりの空のような、澄んだ瑠璃色をしていた。その真っ直ぐな瞳が僕を捉えたとき、不思議と、透けていた腕に確かな実感が戻ってきた。
第二章 無音の砂時計
彼女、水瀬 アカリは、この現象を「白い過去帳」と呼んでいた。街の図書館で古文書を調べるうち、彼女はこの奇妙な存在の消失が、歴史上、散発的に起きていたことを突き止めたのだという。
「まるで、その場所の歴史が根こそぎ抜き取られたみたいなんです。誰も覚えていない。記録にも残らない。でも、ごく稀に、その『喪失』だけを覚えている人がいる」
彼女は僕を、薄暗い禁書庫へと導いた。黴と古い紙の匂いが鼻をつく。彼女が指し示したのは、黒曜石の台座に置かれた、手のひらサイズのガラス細工だった。
砂時計だ。
だが、その中を満たしているのは砂ではなかった。光の加減で微かにきらめく、塵のような無数の粒子。それは決して音を立てず、しかし確実に、上から下へと流れ落ちていた。
「『無音の砂時計』。失われた過去の記憶が、ここに集まると言われています」
アカリがそう言った。僕は誘われるように、その冷たいガラスに指先で触れた。
瞬間。
脳内に、存在しないはずの光景が流れ込んできた。消えたはずの花屋の店先。老婆の笑い声。ラベンダーの香り。子供が落とした赤い風船。それらは一瞬の幻灯のように明滅し、すぐに消えた。しかし、確かな温もりと、そして耐え難いほどの喪失感が胸に残った。
「今、何か……」
「見えたんですね」
アカリの瑠璃色の瞳が、僕の揺らぐ魂の芯を射抜くようだった。「あなたなら、この謎を解けるかもしれない」
第三章 観測者の影
「白い過去帳」の出現は、日を追うごとに頻度を増していった。テレビのニュースはそれを原因不明の集団記憶障害だと報じたが、僕には分かっていた。世界から、少しずつ過去が削り取られているのだ。そして、その現象が起こるたびに、僕の身体は世界との繋がりを失っていく。人とすれ違うだけで半透明になり、時には数秒間、未来の風景と現在の風景が二重写しになることもあった。
アカリの存在だけが、僕をこの現在に繋ぎ止める錨だった。彼女と話しているときだけ、僕のオーラは安定した。彼女の強い「認識」が、僕の希薄な実在を補強してくれているようだった。
ある雨の夜、図書館からの帰り道、僕は明らかに誰かにつけられていることに気づいた。それは人の気配ではなかった。もっと濃密で、時間の流れそのものが淀むような異質な感覚。
路地裏に追い詰められた僕の前に現れたのは、深くフードを被った人影だった。その姿は奇妙だった。輪郭が常にブレており、まるで複数の時間軸に同時に存在しているかのようだ。その人物が放つオーラは、色を持たなかった。光を吸収する、完全な「無」。
「お前が相沢海か」静かだが、空間そのものを震わせるような声が響いた。「世界の歪みの中心。お前という特異点が、この崩壊を加速させている」
「誰だ、お前は」
「私は『調律者』。この狂った歴史を、あるべき姿に戻す者だ」
調律者がゆっくりと手を上げた。その指先が、僕が立っている空間そのものを掴み、捻じ曲げようとする。僕の身体が、ガラスのように軋みを上げた。
第四章 調律者の真実
絶体絶絶命かと思われたその時、僕のポケットに入れていた『無音の砂時計』が淡い光を放った。調律者の動きが一瞬、止まる。
「なぜお前がそれを……」
その隙を逃さなかった。僕は砂時計を強く握りしめ、調律者に向かって駆け出した。触れなければ。この男の正体を知らなければ。
僕の指先が、男の纏うローブの端に触れた。
再び、幻視が僕を襲う。だが、それは過去の断片ではなかった。燃え盛る都市。絶望に泣き叫ぶ人々。灰色の空。それは、これから訪れるかもしれない、人類の終末の光景だった。そして、その瓦礫の中に佇む一人の男。絶望に打ちひしがれ、涙を流している。
その顔は――僕と、同じだった。
幻視から覚めると、調律者は僕から距離を取っていた。フードの奥で、息を呑む気配がする。
「……見たか」
声には、抑えきれない苦悩が滲んでいた。「あれが、我々が辿り着く未来だ。幾度繰り返しても、人類は同じ過ちを犯し、自滅する。私は、その未来から来た」
彼はローブの懐から、もう一つの『無音の砂時計』を取り出した。僕が持っているものと寸分違わぬそれが、彼の右手に握られている。
「私は、破滅の引き金となる過去の『分岐点』を消去している。小さな犠牲で、全てを救うために。君の実在が揺らぐのは、過去の君に繋がる歴史が消えつつあるからだ。さあ、それをよこせ。私と一つになれば、君も私も安定し、この大業を成し遂げられる」
フードがゆっくりと持ち上げられる。その下から現れたのは、やはり僕自身の顔だった。だが、その瞳には深い絶望と、幾星霜を重ねたかのような疲労が刻み込まれていた。未来の僕。過去を消し続ける、孤独な神。
第五章 選択の天秤
「君には分からないだろう。愛する者すべてを失い、文明が塵に帰す光景を、幾万回となく見せつけられた私の絶望が」
未来の僕は、静かに語り始めた。その声は、長い旅路の果てに感情すら擦り切れてしまったかのように、ひどく乾いていた。彼は、人類を救いたかった。ただ、その一心で、痛みを伴う『手術』を世界に施し続けてきたのだ。消し去られた花屋の老婆も、赤い風船の子供も、彼にとっては未来を救うための、やむを得ないコストでしかなかった。
彼の言葉は、理路整然としていた。彼の見せる未来のビジョンは、あまりにも絶望的で、説得力があった。僕の存在の不安定さも、彼と一つになれば解消されるのかもしれない。揺らぐ心を、アカリの顔がよぎった。彼女の、澄んだ瑠璃色の瞳。
「消された人々の想いは、どうなるんだ」僕は尋ねた。「彼らの生きた証は? 喜びも、悲しみも、全てが無かったことになるのか?」
「大義のためだ。感傷に浸っている余裕はない」
違う。そうじゃない。僕は、消された花屋の幻影に温もりを感じた。ラベンダーの香りを確かに嗅いだ。それは「無」ではなかった。誰かの大切な、かけがえのない時間だったはずだ。それを無かったことにして手に入れた未来に、一体何の意味がある?
第六章 新たな歴史の第一筆
「僕は、君とは違う道を選ぶ」
僕は、未来の僕に背を向けた。背後から、彼の焦りの混じった気配が伝わってくる。
「愚かな! 私と同じ過ちを繰り返す気か!」
「過ちは繰り返さない。忘れないからだ」
僕は図書館へ走った。アカリがそこにいた。彼女の瞳に不安がよぎる。僕は彼女の前に立ち、自分の能力について、そして未来の自分のことを全て話した。彼女は黙って聞いていたが、その瑠璃色のオーラは少しも揺らがなかった。
「海くんは、どうしたいの?」
「過去を消すんじゃない。過ちを認め、それでも未来を信じたい。その想いを、僕たちが『観測』することで、新しい歴史としてこの世界に定着させたいんだ」
それは、途方もない賭けだった。だが、僕には確信があった。僕の実在を揺らがせるのも、繋ぎ止めるのも、人の「観測」なのだから。
アカリは、僕の手を強く握った。温かい。彼女の強い意志が、僕の希薄な輪郭をくっきりとさせていく。
「手伝うわ。私たちが、この世界の、最初の観測者になりましょう」
僕たちは、人々が集まる広場へ向かった。未来の僕が、新たな「白い過去帳」を生み出そうとしている。僕は、集まった人々の前に立ち、叫んだ。失われた街のこと、そこに生きていた人々のことを。僕の言葉は拙かったかもしれない。だが、アカリが隣で頷いてくれた。僕の必死の想いは、人々の心に届き始めた。疑いの目を向けていた人々の中から、ぽつり、ぽつりと、僕の言葉を信じようとするオーラが立ち上り始めた。それは小さな光だったが、無数に集まり、世界を固定する巨大な力へと変わろうとしていた。
第七章 夜明けのオーラ
広場に満ちる人々の想い――それは、失われた過去への追悼と、未来への祈り。その無数の「観測」の光を浴びて、僕のオーラは、かつてないほど強く、そして鮮やかな黄金色に輝き始めた。
空間の歪みの向こうで、未来の僕が苦悶の表情を浮かべていた。人々が「過去を忘れず、未来を紡ぐ」という新しい共通認識を形成し始めたことで、彼の「過去を消す」という行為の正当性が、その存在意義そのものが失われていく。
「なぜだ……これが、最善の道だったはずなのに……」
彼の輪郭が、砂の城のように崩れ始める。僕は彼に向かって手を伸ばした。
「君の絶望も、僕が背負う。それも、僕たちが忘れてはいけない歴史の一部だから」
未来の僕は、最期に微かに笑ったように見えた。そして、光の粒子となって霧散し、僕の中に静かに吸収されていった。彼の長い孤独な戦いが、ようやく終わったのだ。
世界から「白い過去帳」は消えなかった。ぽっかりと穴が空いたままの街並みは、喪失の記念碑のようにそこにあり続けるだろう。しかし、もう空白が広がることはない。
僕の隣で、アカリが空を見上げていた。夜が明け、新しい一日が始まろうとしている。その光を浴びて、彼女の瑠璃色のオーラが優しくきらめいた。
僕の指先は、もう透けることはない。人々の視線は、もはや僕を揺らがせはしなかった。彼らの「観測」は、今や僕をこの世界に繋ぎ止める、温かい希望そのものだった。
僕たちは、まだ傷だらけの世界で、それでも確かな一歩を踏み出す。失われた過去を心に刻み、まだ誰も知らない未来の物語を、この手で紡いでいくために。