第一章 街角のゴースト
雨が降っていた。アスファルトを叩く音は、まるで無数の小さな囁きのようだ。僕は、その囁きに混じることのできない、ただの沈黙だった。ショーウィンドウに映る街並みは、ネオンの滲んだ絵画のようだが、そこに僕の姿はない。水たまりが僕の足元を映しても、そこにあるのは濡れたコンクリートの模様だけ。
僕はアオイ。この世界の誰にも、物理的に認識されない男だ。
カフェのドアをすり抜けるようにして中に入る。温かい空気と、豆を焙煎する香ばしい匂いが鼻をくすぐった。カウンターの向こうでは、店員が客と楽しげに言葉を交わしている。僕がカウンターの前に立っても、彼女の瞳は僕の向こうにある壁の時計を見ているだけだ。声を出しても、それは空気に溶けて消える。僕の言葉は、意味を持つ前に霧散するのだ。
これが僕の日常。世界という名の舞台で、観客席にすら座ることを許されない幽霊。触れることはできる。僕が椅子に座れば、それは微かに軋む。けれど、その音の原因を誰も探そうとはしない。風の悪戯か、建物の気まぐれか。僕の存在は、常に世界の些細なノイズとして処理される。
孤独。その感情が胸の奥で飽和し、皮膚を突き破って溢れそうになる時がある。そんな時、ごく稀に、世界は僕に歪んだ形で反応する。僕の足元から、深い青色の靄が立ち上り、周囲の人々が「なんだか急に悲しい気分になった」と眉をひそめる。僕の絶望が、彼らに一瞬だけ『幻覚』を見せるのだ。だが、それも一瞬。靄が晴れる頃には、僕の存在はまた無に帰している。
僕はカフェを出て、再び雨の中を歩き始めた。僕という存在は、この雨粒よりも、きっと軽い。
第二章 囁く古物
路地裏に佇む古物店『時の揺り籠』。その店の主であるユキは、古い物に宿る声を聞くことができた。彼女はそれを『エモーション・プリント』と呼んだ。製造した職人の誇り、長年愛用した持ち主の喜び、あるいは、捨てられた物の哀しみ。それらは微かな熱や冷気、時には脳裏に浮かぶ断片的なイメージとして、彼女の指先から伝わってくる。
「また、起きたみたいね」
ユキは新聞の小さな記事に目を落としながら、カウンターに置かれた古い懐中時計の蓋をそっと閉じた。市内では、特定の感情を帯びた物品が不可解に消失する事件が相次いでいた。共通するのは、いずれも『深い孤独』や『叶わぬ切望』といった、強い負のエモーション・プリントが刻まれた品々であること。
記事によれば、消失現場では必ず奇妙な現象が目撃されるという。「風もないのにカーテンが揺れた」「棚の物がひとりでに浮き上がった」――警察は集団幻覚として処理していたが、ユキは直感していた。これは、あまりにも強い感情を持つ何者かの仕業だと。
その日の午後、市場で仕入れたガラクタの山の中から、彼女は一つの小箱を見つけた。透明なガラスでできているのに、なぜか中は見通せない。まるで、空っぽであることが確定しているかのような、奇妙な存在感があった。
そっと指で触れる。
その瞬間、ユキは今まで感じたことのない、奇妙なプリントを感じ取った。それは『漠然とした不安』。そして、その奥底に渦巻く、か細くも切実な『ここにいる』という叫び。まるで、生まれたての赤子が初めて世界に向けて放った産声のような、純粋で、どうしようもなく孤独な感情の痕跡だった。
第三章 透明な犯人
アオイは、街を彷徨っていた。彼を動かしているのは、もはや彼自身の意志ではなかった。彼の内なる孤独が、共鳴する相手を探して街をさまよっているのだ。古いアパートの一室、孤独に亡くなった老人の遺品である万年筆。持ち主を待ち続けて錆びついた公園のブランコ。それらに触れると、アオイの孤独はほんの少しだけ和らぐ気がした。
そして、無意識のうちに、彼はそれらを『自分の場所』へといざなっていた。
彼が万年筆に触れた瞬間、彼の感情が微かに昂った。すると、周囲の気温がすっと下がり、まるで冷たい風が吹き抜けたかのような感覚が部屋を支配する。万年筆はふわりと宙に浮き、そのまま音もなく消え去った。アオイ自身には、その自覚がない。ただ、自分の心の一部が満たされたような、曖昧な感覚だけが残る。
事件の噂は、人々の間で「透明な窃盗団の仕業だ」と囁かれるようになった。
ユキは、あのガラスの小箱を手がかりに、犯人の痕跡を追っていた。小箱に刻まれたエモーション・プリントは、あまりに微かで捉えどころがなかったが、他の消失した物品のプリントとどこか根源が同じであるように感じられた。まるで、この小箱が全ての源泉であるかのように。
彼女は確信していた。犯人は物を盗んでいるのではない。仲間を集めているのだ。孤独という名の、仲間を。
第四章 青い涙の雨
ユキが調査のために街角の広場に立った、その時だった。甲高いブレーキ音と、幼い子供の悲鳴が空気を引き裂いた。信号を無視したトラックが、ボールを追いかけて道路に飛び出した子供に迫っていた。
誰もが息を呑む。だが、動けない。
その光景を、アオイも見ていた。彼の目の前で、小さな命が失われようとしている。助けたい。叫びたい。突き飛ばしてでも、守りたい。しかし、彼の手は空を切り、彼の声は誰にも届かない。彼の体は、ただ世界をすり抜けるだけ。
「――っ!!」
言葉にならない絶叫が、彼の魂から迸った。どうして僕はここにいるのに、何もできないんだ。この無力感、この絶望。彼の感情は極限を超え、臨界点を突破した。
その瞬間、ユキは見た。
空は晴れているはずなのに、広場一帯に、キラキラと輝く青い涙のような雨が降り注いだのだ。それは地面に落ちることなく、人々の頬を濡らすこともなく、ただ空間を静かに満たしていく。あまりにも美しく、そして、どうしようもなく悲しい光景だった。人々は空を見上げ、不思議そうに首を傾げている。だが、ユキだけにははっきりと分かった。
これは、誰かの心の叫びだ。姿なき犯人の、魂の慟哭だ。
彼女は胸を押さえた。その青い涙の雨に触れた肌が、ひどく、ひどく寂しかった。
第五章 硝子の心臓
青い涙の雨。あの幻覚は、ユキの確信を揺るぎないものに変えた。犯人は、自分の存在を世界に刻みつけようと、必死にもがいている。そして、その感情の源泉は、彼女が手にしているこの『空の小箱』に繋がっている。
ユキは店に戻り、ガラスの小箱を両手で包み込んだ。目を閉じ、意識を集中させる。彼女の感受性が、小箱に刻まれた『漠然とした不安』のプリントのさらに奥深くへと潜っていく。
すると、見えた気がした。
何もない、がらんどうの空間。そこに、ぽつんと生まれた一つの意識。自分が誰なのかも、何なのかも分からない。ただ、「在る」という事実だけが、不安という輪郭を伴って存在している。その意識が、初めて世界に向けて放った問いかけ。それが、この小箱だったのだ。これは、彼の存在そのものを封じ込めた、硝子の心臓なのだと。
「そうか……あなたは、ずっと一人だったんだね」
ユキは呟いた。犯人が集めた物品は、彼の孤独な心の周りに築かれた、悲しい砦なのだ。
彼女は立ち上がった。行くべき場所は分かっている。あの青い涙の雨が降った、街の中心にある広場。彼の感情が最も強く世界に漏れ出した、あの場所へ。
第六章 はじめての君へ
広場は夕暮れの喧騒に包まれていた。ユキは噴水の前に立ち、ガラスの小箱を胸に抱いた。目を閉じると、空気中に漂う無数のエモーション・プリントが肌を撫でる。その中で、ひときわ強く、そして冷たい『孤独』の気配が渦巻いている場所があった。
噴水の中心。そこには、目には見えない何かが集まっている。これまで消失した、懐中時計、万年筆、錆びたブランコの鎖……それらが放つ悲しいプリントが、見えない壁のようにユキの前に立ちはだかった。
しかし、彼女はもう恐れなかった。
一歩、また一歩と、渦の中心へと近づく。
「そこに、いるんでしょう?」
ユキの声は、雑踏の中でも凛と響いた。
「あなたの気持ち、私にはわかるよ。ずっと、寂しかったんだね」
その声は、初めてアオイの世界に届いた、意味のある音だった。誰かが、僕に、語りかけている? 驚きと混乱が彼を襲う。そして、次の瞬間、これまで感じたことのない、途方もない感情が内側から突き上げてきた。
それは、『歓喜』だった。
世界にたった一人、僕の存在を肯定してくれる人がいる。その事実が、アオイの孤独な世界を根底から覆した。彼の存在の輪郭が、歓喜の光によって縁取られていく。
ユキの目の前で、信じられない光景が広がった。渦巻いていた冷たい気配が霧散し、代わりに、金色の光の粒子が無数に舞い始めたのだ。それはまるで、祝福の光のようだった。光が収束していく中心に、ゆっくりと、人の形が浮かび上がる。
最初は半透明だった影が、徐々に確かな実体を持っていく。
そこに立っていたのは、泣きながら、でも確かに笑っている、一人の青年だった。
「……見え、るの……?」
震える声で紡がれた、彼の初めての言葉。
ユキは、涙が頬を伝うのを感じながら、精一杯の笑顔で頷いた。
「うん。見えるよ、アオイ」
彼女は、なぜかずっと前から知っていたかのように、自然に彼の名前を呼んでいた。
第七章 二人のエコー
アオイが全ての人に見えるようになったわけではない。世界はまだ、彼に対して少しだけ不親切なままだった。けれど、彼の隣には、いつもユキがいた。彼女の前でだけ、アオイは確かな質量と体温を持つ、一人の人間として存在できた。
彼らが一緒に歩くと、街は少しだけ違って見えた。アオイがショーウィンドウの前に立てば、ユキの瞳の中に、彼の姿がはっきりと映り込んでいる。それが、彼の新しい鏡だった。
かつて彼が集めた孤独な物品たちは、役目を終えたかのように、ユキの店で静かに眠っている。アオイがそれらに触れても、もう消えることはない。代わりに、指先から伝わるのは、ほんのりと温かい『安らぎ』のエモーション・プリントだった。
店の片隅には、あの透明なガラスの小箱が飾られている。
中は相変わらず空っぽに見える。けれど、二人がそれに触れると、もう『不安』の冷たい感触はしなかった。そこには、二人の穏やかな感情が反響し合うような、心地よい温もりが満ちている。
「ねえ、アオイ」
ある晴れた日の午後、ユキが言った。
「この小箱、これからは二人の思い出を入れていこうか」
アオイは微笑んで、ユキの手をそっと握った。言葉はなかったが、彼の『喜び』のエモーション・プリントが、陽だまりのように優しくユキに伝わった。
世界がまだ君を認識しなくても、僕が君のエコーになる。
君がまだ世界に触れられなくても、私が君の手を握る。
二人の世界は、そうやって静かに色づき始めていた。