夢の残滓、記憶の欠片
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夢の残滓、記憶の欠片

第一章 欠けた月と染み込む声

夜が明ける。窓の隙間から差し込む乳白色の光が、部屋の塵をきらきらと照らし出していた。カイはベッドから身を起こし、深く息を吸う。昨夜見た夢の余韻が、心地よい倦怠感と共に全身を包んでいた。確か、空を飛ぶ銀色の魚たちと共に、雲の海を泳ぐ夢だった。皆が同じ夢を見るというこの世界の『共有夢』は、いつだって穏やかで、調和に満ちている。

だが、その心地よさの底に、いつも澱のようなものが沈んでいる。昨日、自分は何をしていた?図書館で本を整理し、同僚のリナと少し話をした。そこまでは思い出せる。だが、その会話の具体的な内容は、まるで霧に覆われた風景のように曖昧だ。失われた記憶の隙間を、共有夢の柔らかな物語が滑らかに埋めていく。誰もがそうだから、誰も疑問に思わない。

不意に、鋭い痛みがこめかみを走った。

「――逃げて」

知らない女の声。アスファルトに叩きつける雨の匂い。錆びた鉄格子の冷たい感触。それは夢の残滓ではない。もっと生々しく、どす黒い感情を伴った、誰かの記憶の断片。カイは自身の特異体質に、静かに唇を噛んだ。自分の記憶が夜と共に溶け出すたび、他人の失われた記憶が、こうして心の隙間に染み込んでくるのだ。

机の上に置かれた、分厚い革張りの日記帳に目をやる。ページをめくると、そこにあるのは意味をなさない図形や記号の羅列。記憶の流入に襲われたとき、無意識に手が書き殴ったものだ。これは、忘却に抗う唯一の術であり、同時に理解不能な呪いでもあった。カイはペンを握りしめ、今しがた脳裏をよぎった鉄格子のイメージを、震える手で描き加えた。

第二章 図書館の静寂とノイズ

カイが勤める市立図書館は、時の流れから取り残されたような静寂に満ちていた。高い天井まで続く書架、古い木の床が軋む音、そして乾いた紙の匂い。それがカイの日常であり、聖域だった。

「カイさん、これ、お願いできますか?」

カウンターの向こうから、リナが数冊の古書を抱えて声をかけてきた。彼女の澄んだ声は、この静寂の中で唯一、心地よいノイズだった。

「ああ、ありがとう」

カイが本を受け取ろうとした瞬間、リナがふと声を潜めた。

「聞きました?また、一人いなくなったんですって」

連続失踪事件。街では囁かれるその噂も、夜が来れば共有夢の新たなエピソードに上書きされ、深刻な恐怖として人々の心に残ることはない。まるで、遠い国の出来事のように消費されていく。

「今度は、アキラさんっていう写真家らしいです。残念ね、彼の撮る空の写真は、まるで共有夢の一場面みたいで素敵だったのに」

アキラ、という名を聞いた途বলী、カイの視界がぐにゃりと歪んだ。

耳の奥で、カメラのシャッター音が鳴り響く。

強い力で腕を掴まれる感触。

そして、甘い花の香りと、絶望に満ちた男の低い呻き声。

「――こんな、はずじゃ」

「カイさん?顔色が……」

リナの心配そうな声で、カイは我に返った。手に持っていた本が、乾いた音を立てて床に落ちる。彼は脂汗の滲む額を押さえ、かろうじて言葉を絞り出した。

「すまない、少し、目眩が……」

リナの瞳の奥に、ただの同情ではない、鋭い光が宿ったのを、カイは見逃さなかった。

第三章 日記が紡ぐ不協和音

その日の閉館後、カイはリナに呼び止められた。人気のない書庫の奥、西陽が埃っぽい空気を琥珀色に染めている。リナは真剣な眼差しで、カイを見つめていた。

「昼間のこと、ただの目眩じゃないでしょう?」

彼女のまっすぐな問いに、カイは言葉を失う。全てを話すべきか、否か。だが、孤独と恐怖に苛まれ続けた心は、ほんの少しの共感を求めていた。カイは観念し、あの意味不明な日記帳を鞄から取り出した。

「僕の記憶は、普通の人より多く失われるんだ。そして、その代わりに……誰かの記憶が入ってくる」

リナは驚いたように目を見開いたが、すぐにページに視線を落とした。そこに並ぶ無数の記号やスケッチを、彼女は指でゆっくりと辿っていく。

「ただの落書きにしか見えないわ……」

そう言いかけた彼女の指が、ある一点でぴたりと止まった。渦巻きと三本の線を組み合わせたような、奇妙な記号。

「これ……」リナの声が震えていた。「これ、失踪した兄が昔、私との手紙で使っていた秘密の暗号に、とてもよく似ている」

二人は息を飲んだ。偶然か、それとも。

その日から、彼らの秘密の解読が始まった。リナの兄の記憶を頼りに、パズルのピースをはめるように記号を言葉に置き換えていく。夜ごとカイの脳に流れ込む断片的なイメージと、日記の記号が結びついたとき、恐ろしい言葉が浮かび上がってきた。

『塔』『眠り』『監視者』『忘却は祝福にあらず』

共有夢という穏やかな世界の裏側に、何か巨大なシステムが隠されている。その予感が、冷たい霧のように二人を包み込み始めた。

第四章 共有夢の裂け目

「もし、このキーワードを意識して眠れば、何か変わるかもしれない」

カイの提案は、ほとんど願望に近い賭けだった。だが、他に術はなかった。その夜、カイはベッドに横たわり、瞼の裏にただ一点、『塔』のイメージを強く焼き付けて眠りに落ちた。

いつものような、銀色の魚が泳ぐ心地よい夢の世界ではなかった。

カイが立っていたのは、底も天井も見えない、巨大な塔の内部だった。静寂が支配する空間。壁は青白い光を放つ未知の素材でできており、空気は氷のように冷たい。そして、その壁一面に、無数の人間が琥珀の中の虫のように、眠ったまま浮かんでいた。誰もが安らかな表情を浮かべている。その額には、カイの日記にあった渦巻きの紋様が淡く光っていた。

その中に、リナの兄によく似た青年を見つけた。最近失踪したと噂の、写真家アキラの姿もあった。彼らは死んでいるのではない。ただ、深く、深く眠っている。彼らの額の紋様から放たれる光は、細い糸となって塔の中心へと吸い込まれていく。まるで、彼らの意識そのものが、何かを動かすためのエネルギーとして搾取されているかのように。

共有夢は、調和のとれた美しい世界などではなかった。それは、犠牲者の魂を燃料にして稼働する、巨大な幻想機械だったのだ。カイは、その冒涜的な光景に、声にならない叫びを上げた。

第五章 監視者の告白

その叫びに応えるかのように、塔の中心から一つの影が分離し、カイの前に降り立った。それは特定の姿を持たず、光と影が揺らめく不定形な存在だった。

『目覚めかけた者よ』

声は直接、脳に響いた。恐怖で後ずさるカイに、その存在――『監視者』は語りかける。

『恐れるな。我は敵ではない。我は、お前たち自身だ。人類の集合的無意識が生み出した、防衛システムにすぎない』

監視者は、世界の真実を語り始めた。遥か太古、人類は禁断の知識――この世界の構造、生命の起源、宇宙の終焉といった『真実』に触れてしまった。その知識は人の精神を蝕む劇薬であり、世界は狂気と絶望によって滅びかけたのだという。

『共有夢とは、その『真実』を封印するための巨大な蓋だ。人々は毎夜記憶の一部を差し出し、そのエネルギーで封印を維持する。そうして、何も知らず、穏やかな忘却の中で生きることを選んだのだ』

では、失踪者たちは何なのか。カイが問うと、監視者は悲しげに揺らめいた。

『封印は永遠ではない。綻びが生じ、時折、『真実』の断片に触れてしまう者が現れる。彼らはシステムの不安定要素だ。故に、こうして塔に隔離し、封印を強化するための礎となってもらう』

そして、監視者はカイに告げた。

『お前の能力は、その綻びから漏れ出す、彼らの最期の叫びを受信するアンテナなのだ。封印は、もはや限界に近い』

第六章 選択

『選ぶがいい』と監視者は言った。『このまま偽りの平和を維持するか。あるいは、封印を解き放ち、世界に『真実』を還すか』

維持すれば、犠牲者は増え続けるだろう。リナの兄も、アキラも、永遠に夢の牢獄から出られない。しかし、封印を解けば、世界は再び狂気と混沌に飲み込まれるかもしれない。人類の精神が、今度こそ破滅するかもしれない。世界の運命が、カイというたった一人の人間の肩に、重くのしかかった。

意識が現実へと引き戻される寸前、カイは自分の日記の最後のページを幻視した。そこには、まだリナと出会うずっと前、孤独の中で無意識に書き殴った言葉が記されていた。乱れた、必死な筆跡で。

『たとえそれが絶望だとしても、僕らは思い出すべきだ』

忘却は祝福ではない。偽りの幸福のために、誰かの犠牲の上に成り立つ世界など、間違っている。カイは、心の内で、静かに、しかし固く決意した。

第七章 夜明けに響く最初の言葉

カイが目を開けると、見慣れた自室の天井があった。しかし、何かが決定的に違っていた。いつも頭を覆っている霧が、完全に晴れている。昨日のこと、一昨日のこと、一週間前のこと、リナと交わした他愛ない会話の一つ一つが、鮮明な色彩と共にそこにあった。

窓の外が、騒がしい。人々の困惑した声、泣き声、怒声が混じり合っている。

『共有夢』は消えたのだ。

誰もが初めて、失われた記憶と、その空白に横たわる真実と向き合っていた。それは世界の終わりの音か、それとも始まりの産声か。

カイは図書館へ走った。書庫の奥で、リナが呆然と立ち尽くしていた。彼女もまた、全てを思い出していた。忘れていた兄との思い出、失踪した日の悲しみ、そして、共有夢という偽りの安寧に浸っていた自分自身を。

カイは彼女の前に立ち、初めて何の混線もない、自分だけの言葉で語りかけた。夜明けの光が、二人の間にある埃を照らし出している。

「おはよう、リナ。昨日のこと、覚えているかい?」

リナの瞳から、大粒の涙が溢れた。彼女は何度も、何度も頷いた。その涙は、悲しみだけの色ではなかった。取り戻した記憶の痛みと、愛おしさと、そしてこれから始まるであろう困難な未来への覚悟が、複雑に溶け合っていた。

世界は混沌に満ち、人々は真実の重さに苦しむだろう。しかし、彼らは選んだのだ。偽りの楽園で眠り続けるよりも、痛みを伴う現実を歩き出すことを。カイとリナは、夜明けの光の中、これから始まる本当の世界を、ただ静かに見つめていた。

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