夢喰いと最後の色
第一章 灰色の街と最後の赤
世界から、色が失われつつあった。
人々が何かを忘れるたび、それに紐づいた存在の色が薄れていく。アスファルトの重い黒も、空のどこまでも続く青も、今ではすべてが曖昧な灰色の濃淡に成り果てていた。俺、レンの目だけが、その法則から僅かに逸脱している。消えゆく物体にかろうじて残る『残存色』を視認し、それを摂取できるのだ。
錆びた鉄の匂いがする公園に、俺は立っていた。かつては子供たちの歓声で満ちていたであろうその場所も、今では忘却の果てに沈み、音のないモノクロームの絵画のようだった。その中で、俺の目は一点に吸い寄せられる。ブランコの鎖にこびりついた、血の雫のような小さな赤。それは、誰かがここで擦りむいた膝の記憶だろうか。
俺は指先でそっとその『赤』を掬い取り、躊躇なく舌に乗せた。
途端に、世界が反転する。
夏の強い日差し。肌を焼く熱。甲高い蝉の声。そして、目の前でブランコから落ちて泣きじゃくる少女の姿が見えた。『痛いよ』という感情が、まるで自分のもののように胸を抉る。駆け寄ってきた母親の温かい手が、優しく頭を撫でる。大丈夫、大丈夫よ、という声。その記憶は甘く、そしてひどく切なかった。
数秒後、俺は灰色の公園に戻っていた。追体験の代償として、自分の昨日の夕食が何だったか、思い出せなくなっている。他人の記憶は、俺自身の記憶を少しずつ侵食していく。それでも、俺はこの行為をやめられない。全ての色が消え去る前に、この世界が崩れ落ちていく理由を、その核心を、この身で味わい尽くさなければならない気がしたからだ。
第二章 虹色の砂時計
街のはずれにある、忘れられた大図書館。そこにあるという『虹色の砂時計』の噂を追って、俺は分厚い樫の扉を押し開けた。黴と古い紙の匂いが、かろうじてこの場所が図書館であったことを示している。書架に並ぶ本は、そのほとんどが表紙の色を失い、ただの白い塊と化していた。ページに刻まれた物語も、それを記憶する者がいなくなれば、意味をなさなくなる。
俺は足音を忍ばせ、最奥の禁書庫へと向かった。そこだけが、奇妙な静けさと微かな光を湛えていた。月光が天窓から差し込み、部屋の中央に置かれた黒曜石の台座を照らしている。そして、その上に『それ』はあった。
『虹色の砂時計』。
くびれたガラスの容器の中で、無数の色の粒子が煌めきながら、決して止まることなく流れ落ちている。赤、青、黄、緑…あらゆる色彩が混じり合い、小さな銀河のように渦を巻いていた。下部の受け皿には、役目を終えたかのように、完全に透明になった粒子が静かに堆積している。まるで、この世界から失われた色の墓場のようだった。
俺は吸い寄せられるようにガラスに触れた。その瞬間、脳内に鋭い痛みが走ると同時に、いくつものイメージが閃光のように瞬いた。
満天の星。
丘の上の大きな木。
小さな手を握る、温かい感触。
そして、「忘れないで」と囁く、少女の声。
第三章 褪せた約束の色
砂時計が見せた断片的なビジョンを頼りに、俺は街を見下ろす丘へとたどり着いた。風がひゅう、と寂しい音を立てて吹き抜けていく。丘の上には、記憶の通り、空に向かって枝を広げる一本の大きな木が立っていたが、その幹も葉も生気を失い、まるで石膏像のように白茶けていた。
だが、俺の目は見逃さない。幹の節くれだった部分に、風に揺れる細い影。それは、かつて結ばれていたであろうリボンの名残だった。近寄って目を凝らすと、そこには夜空の深さを思わせる、か細い『青』が残存していた。誰かがここで交わした、星空への祈りか、あるいは永遠の約束か。
これを摂取すれば、また俺の記憶が一つ欠け落ちる。だが、あの声の主を知りたいという渇望が、恐怖を上回った。俺は覚悟を決め、その褪せた青を指でなぞり、口に含んだ。
視界が暗転し、星々の光が降り注ぐ。
隣にいる小さな少女が、俺の袖をきゅっと掴んでいた。彼女は空を指さし、満面の笑みで言った。
「ねえ、あの星、一番きれい。大きくなっても、今日のことを一緒に見ようね。絶対に、絶対に忘れないで」
強い感情の波が押し寄せる。愛おしさと、守りたいという強い意志。そして、その約束を守れなかったという、深く、底なしの罪悪感。自分の心臓が、まるで他人のもののように激しく痛んだ。記憶の混濁が、これまでになく俺の自我を揺さぶる。俺は誰だ? この記憶は、本当に他人のものなのか?
第四章 世界の反転
激しい頭痛と眩暈に襲われ、俺は膝から崩れ落ちた。その拍子に、手の中にあった『虹色の砂時計』が滑り落ち、ごつん、と鈍い音を立てて地面を転がる。そして、上下が逆さまになって静止した。
その瞬間だった。
世界が、息を吹き返した。
足元の枯れ草が鮮やかな緑を取り戻し、石膏像のようだった大木が生命力あふれる茶色に染まる。見上げた空には、吸い込まれそうなほどの深い青が広がった。まるで、世界が生まれたての姿に戻ったかのようだった。
しかし、その奇跡はほんの一瞬で終わる。鮮烈な色彩は陽炎のように揺らめくと、以前よりもさらに色褪せ、世界はより一層、深い灰色へと沈んでいった。
俺は、はっと息をのむ。理解してしまった。
砂時計を逆さにすることは、失われた色を取り戻す魔法などではない。未来に存在するはずだった色を、世界の寿命を、無理やり前借りする禁断の行為なのだ。この世界が急速に色を失い始めたのは、誰かが、何度も、何度も、この砂時計をひっくり返してきたからだ。一体誰が、何を忘れたくなくて、世界の終わりを早めてまで、過去に縋り付いているんだ?
その時、脳裏に雷が落ちた。
あの星空の記憶。少女の顔。それは、俺がずっと追い求めてきた、俺自身の失われた記憶の断片だった。俺は他人の記憶を追体験していたのではなかった。俺自身の、忘れかけていた記憶の欠片を、拾い集めていただけだったのだ。
第五章 夢主の涙
全ての点が、線で結ばれた。
俺が追い求めていた答えは、始まりの場所にある。
俺は走り出した。記憶の混濁で軋む頭を抱え、何度も転びながら、あの灰色の公園へと戻った。
公園は、もはや灰色の濃淡すら失い、ほとんどが透明な輪郭だけの存在と化していた。その中心、今はもう水も枯れた噴水の底に、たった一つだけ、最後の光が揺らめいていた。それは、夕陽の光を閉じ込めたような、温かい『金色』の残存色。
思い出した。これは、幼い俺が彼女──リナに贈った、小さなロケットペンダントの色だ。
これが、この世界の最後の色。これを摂取すれば、全ての真実がわかるだろう。だがその代償は、きっと俺という存在そのものだ。
俺は震える手で、その金色の光を掬い上げる。それは涙のように温かかった。
「ごめんな、リナ。思い出すのが、遅すぎた」
俺は、その光を飲み込んだ。
世界がガラスのように砕け散る。
意識は無限に広がり、俺は理解する。この世界は、俺の夢だった。
幼い頃、病でリナを失った俺が、彼女を忘れたくない一心で、思い出の中だけに創り上げた、二人だけの箱庭。しかし、残酷な現実は夢の中にまで侵食し、俺の記憶から少しずつ彼女の存在を消し去っていった。忘却が、俺の世界の色を奪っていたのだ。
『虹色の砂時計』を何度も逆さにしていたのは、夢から覚めたくない、リナを忘れたくないと叫ぶ、俺自身の無意識の抵抗だった。
第六章 夜明けの色を選ぶ
俺の意識は二つに引き裂かれる。
一つは、崩壊していく夢の世界に佇む『レン』としての俺。
もう一つは、現実世界で、薄暗い自室のベッドに横たわる『僕』としての俺。すぐそばの机には、色褪せた写真立て。そこには、はにかんで笑うリナが写っている。
選択の時が来たのだと、直感でわかった。
このまま覚醒し、夢を終わらせるか。リナの死を受け入れ、悲しみを抱えたまま、現実の朝を迎えるか。
それとも、覚醒を拒絶し、再び夢の主となって、リナとの記憶を繰り返し紡ぎ続けるか。永遠に終わらない、孤独で美しい夢の世界で。
俺は、色が消え果てた夢の世界を見渡した。そこにはもう何もない。だが、確かにそこには温かい記憶の残光があった。リナの笑い声、手の温もり、交わした約束。彼女は、俺が過去という夢の中に閉じこもることを望むだろうか。きっと、望まない。
「ありがとう、リナ。もう、大丈夫だよ」
俺は、選ぶ。
夢を終わらせる、夜明けの色を。
世界が、真っ白な光に包まれていく。それは消滅の色ではない。全てを洗い流し、新たな始まりを告げる、再生の色だった。
現実の僕が、ゆっくりと目を開ける。
窓の隙間から、一条の朝陽が差し込んでいた。頬を、冷たい涙が伝う感覚があった。机の上に置かれた『虹色の砂時計』は、今やただの美しいガラスの置物となり、中の砂は全てが透明に変わっていた。
だが、そのガラスに朝陽が当たると、部屋の壁に、小さく、けれど確かな虹が架かっていた。