第一章 灰色の雨と夢の欠片
街はいつも、灰色の雨に濡れていた。空から降り注ぐのは単なる水滴ではない。誰かが忘れ、捨て去った記憶の奔流だ。人々はフードを目深に被り、硬質な防水布のコートの襟を立てて、足早に路地を駆け抜けていく。記憶の雨に触れれば、見知らぬ誰かの過去が、焼印のように精神を苛むのだ。喜びも、悲しみも、すべては心を乱す毒だった。
そんな街角に、カイは一人、傘もささずに佇んでいた。銀色の髪から滴る雫が、彼の白い頬を伝う。雨粒が肌に触れるたび、脳裏にかすかなイメージが点滅した。幼い少女が初めて握った赤い風船の感触。老婆が編み物をする窓辺の陽だまりの匂い。それは彼の記憶ではなかったが、カイにとっては昨夜見た夢の続き、あるいは断片に過ぎなかった。現実と夢の境界は、彼の中でとうの昔に溶け落ちていた。
「……行かなくては」
誰に言うでもなく、カイは呟いた。昨晩の夢で見た光景が、瞼の裏に焼き付いている。空に逆さに流れ落ちる滝。その飛沫が虹を描く場所。そこが『世界の終点』だと、夢の中の自分が告げていた。首から下げた小さな砂時計を、そっと指でなぞる。ガラスの中で眠る砂は、まだ色を持たず、静かに時を待っていた。
第二章 歌う森の出会い
世界の法則が軋みを上げ始めたのは、いつからだったか。誰も見たことのない奇妙な地形が、突如として世界各地に出現し始めた。人々はそれを恐れながらも、「世界が新たな物語を求めている兆候だ」と囁き合った。
カイが街を出て数日後、森の入り口で足を止めた。夢で見た通りの光景がそこにあった。地面から生える木々は水晶でできており、風が吹くたびに共鳴し、澄んだ歌のような音色を奏でている。現実のはずなのに、どこまでも夢の続きのようだった。
その歌う森の奥で、カイは一人の女性と出会った。彼女はリナと名乗った。防護服に身を包み、手にした端末で結晶の成分を分析している。彼女はカイが無防備に雨に打たれているのを見て、驚きに目を見開いた。
「あなた、正気なの? 記憶の雨よ。精神が汚染されるわ」
「大丈夫。これは、僕の夢の匂いがするから」
カイの言葉を、リナは理解できなかった。しかし、彼女はこの世界の異変の源流を探す研究者だった。常識外れの現象の中心には、常識外れの人間がいるのかもしれない。リナは、カイが口にした『世界の終点』という言葉に強く引かれた。
「私も連れて行って。その場所が、すべての答えを知っている気がする」
リナの真剣な眼差しに、カイは静かに頷いた。彼にとって、誰かと旅をすることもまた、夢の筋書きの一部に過ぎなかった。
第三章 砂時計の囁き
二人の旅は奇妙なものだった。カイが見た夢は、まるで道標のように彼らの行く先に現実として立ち現れた。色が刻一刻と変わる広大な砂漠。重力に逆らって天に昇る川。リナはそれらを驚きと共に記録したが、カイはただ懐かしい風景を眺めるように、静かに歩くだけだった。
「昨日の夢でね、空を泳ぐ鯨を見たんだ」
ある朝、カイがそう言うと、その日の昼過ぎ、彼らの頭上を巨大な雲の鯨が悠々と横切っていった。
リナは次第に、カイに対して畏怖にも似た感情を抱き始めていた。彼の言葉は予言ではない。まるで、彼が望んだ世界が形作られているかのようだ。そして彼女は、カイが大切にしている『虹色の砂時計』の変化にも気づいていた。記憶の雨に濡れるたび、あるいは人々が忘れた記憶が吹き溜まる場所を通り過ぎるたび、砂時計の中の砂が微かな光を帯び、一粒、また一粒と虹色に輝きながら落ちていく。その光景は美しく、同時にどこか恐ろしかった。
第四章 崩れる境界
その谷は、忘れられた記憶の淀みだった。世界中から集まったかのような濃密な記憶の雨が、滝のように降り注いでいる。リナは防護服のフードを固く締め直したが、カイはいつもと同じように、その身を雨に晒した。
だが、今回は違った。あまりに膨大な記憶の濁流が、カイの曖昧な精神の堤を打ち破った。
「あ……ぁ……!」
無数の声、無数の感情が彼の内側で叫びを上げる。愛した人の温もり、裏切られた絶望、戦火の熱、死の冷たさ。他人の記憶の洪水に、カイの自我が溺れ、砕け散っていく。彼は膝から崩れ落ち、苦悶に顔を歪めた。
その瞬間だった。
カイの胸で、『虹色の砂時計』が閃光と呼べるほどのまばゆい光を放った。ガラスの中で輝いていた砂が、滝のように一気に流れ落ちる。
世界が、鳴った。
リナの目の前で、降りしきる雨の谷がぐにゃりと歪み、景色が水彩画のように滲んでいく。そして次の瞬間、そこには静寂を湛えた底なしの湖が広がっていた。カイの夢の中にだけ存在したはずの、星空を映す湖が。
リナは息を呑んだ。目の前で起きた現実の書き換え。世界の異変の正体。
「君が……」彼女の声は震えていた。「君が、この世界を創っているの……?」
苦痛から解放されたカイは、おぼろげな瞳でリナを見上げ、穏やかに微笑んだ。
「夢の続きだよ。……もうすぐ、終点に着く」
第五章 世界の終点
『世界の終点』は、巨大な水晶のドームに覆われた静謐な場所だった。ドームの外では荒れ狂っていた記憶の雨も、ここでは嘘のように止んでいる。そしてドームの中央には、息を呑むほどに精巧な世界のジオラマが鎮座していた。
そこには、争いも、悲しみも、忘れられる記憶さえもない、完璧な世界が広がっていた。穏やかな街並み、豊かに実る大地、そして微笑み合う人々。カイが混沌とした他人の記憶の中から拾い集め、紡ぎ上げた理想の世界の設計図。
「……ここだ。僕がずっと見てきた夢の場所」
カイは吸い寄せられるようにジオラマに歩み寄る。彼の顔には、長い旅を終えた安堵と、これから始まる最後の役割を待つ覚悟が浮かんでいた。
リナはすべてを悟った。カイは、忘れられた記憶という混沌をその身に受け止め、そこから新たな物語、新たな世界を夢で紡ぎ出すための存在だったのだ。そして、この理想の世界が現実のものとなる時、紡ぎ手であるカイの存在は……。
「だめよ、カイ!」
リナは叫んだ。そんな結末はあまりにも残酷すぎる。
第六章 語り部のレクイエム
カイの持つ『虹色の砂時計』は、最後の一粒を残すのみとなっていた。その一粒は、これまでに集めたすべての記憶の光を凝縮したかのように、強く、儚く輝いている。
カイは振り返り、初めてはっきりとした意志を宿した瞳でリナを見た。それは夢の住人ではなく、一人の青年としての眼差しだった。
「ありがとう、リナ。君がいたから、僕は迷わずにここまで来られた」
それは、彼が初めて現実の存在としてリナに語りかけた、最初で最後の言葉だった。
カイはジオラマの中心にそっと手を触れる。その瞬間、輝く最後の一粒が、静かに落ちた。ガラスの砂時計に微かな亀裂が走り、砕け散る。溢れ出した虹色の光は奔流となってドームを突き抜け、世界中へと広がっていった。
カイの身体が、足元から光の粒子となってゆっくりと透けていく。彼は、これから始まる新しい世界の「最初の物語」そのものになり、世界という書物に溶け込んでいくのだ。
「僕の夢は、ここで終わる。でも、世界はここから始まるんだ」
その声は、風の音に溶けて消えた。
リナは彼の名を叫んだが、その声が届くより先に、カイの姿は光の中に完全に溶け、消え失せていた。
第七章 忘れられた雨上がり
世界は、新しい物語で満たされた。人々を苦しめていた記憶の雨は止み、代わりに生命を育む穏やかな雨が大地を潤すようになった。かつて奇妙な現象と呼ばれた地形は、世界を彩る美しい景観として人々に愛された。世界は、確かに救われたのだ。
けれど、カイという銀髪の青年がいたことを覚えている者は、もうどこにもいなかった。
リナでさえ、彼の名前を呼ぼうとすると、言葉が喉の奥で霧のように消えてしまう。彼の顔を思い出そうとしても、陽炎のように揺らめくだけで、はっきりとした輪郭を結ばない。ただ、胸の奥に灯る、温かくも締め付けられるような切ない痛みだけが、確かに何かが在ったことを告げていた。
彼女の掌には、砕けた砂時計の小さなガラス片が一つだけ残されていた。
リナはそれを強く握りしめ、新しい世界で降り始めた優しい雨を浴びながら、空を見上げた。灰色だった空には、うっすらと、けれど確かに、七色の虹がかかっていた。