忘却の摂理と、名もなき記憶の歌

忘却の摂理と、名もなき記憶の歌

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第一章 砂礫の記憶

鉄の錆びる音。誰かの啜り泣き。皮膚が焦げる不快な臭気。

遺跡に足を踏み入れた瞬間、不可視のノイズがアリアの鼓膜を乱暴に叩いた。

「……くっ」

アリアは眉間を押さえ、胸ポケットへ手を伸ばす。

そこにある冷たく硬い感触――安物の万年筆。

キャップにある小さな傷を親指の腹で強く擦る。

ザラリとしたその感触だけが、彼女を「今、ここ」に繋ぎ止める唯一の楔(くさび)だった。

「アリア、顔色が悪い」

背後で足音が止まる。レオだ。

彼は何も聞かず、腰の革袋から水筒を取り出し、アリアの口元へ突き出した。

無骨な手つきだが、水筒の蓋はあらかじめ緩めてある。

「……ありがとう」

水を一口含むと、ノイズが少し遠のいた。

アリアは呼吸を整え、目の前の崩れかけた石壁を見上げる。

「ここね。歴史の『空白地帯』」

「触れるのか?」

「ええ。確かめないと」

アリアは手袋を外し、震える指を石壁へと伸ばす。

指先が石の冷たさに触れた、その刹那。

ドクンッ。

心臓を直に握り潰されるような衝撃。

――熱い、熱い! 扉が開かない!

――ママ、息ができないよ。

――システムダウン。制御不能。あぁ、終わる。全てが溶けていく。

「が、あ……ッ!」

視界が裏返る。

自分の腕が燃えている幻覚。

肺に充満する煤(すす)の味。

数百年前にここで焼死した数百人の断末魔が、濁流となって脳髄に流れ込んでくる。

「アリア!」

身体が後ろへ引かれる。

レオが彼女の襟首を掴み、強引に石壁から引き剥がしたのだ。

アリアは石畳に膝をつき、激しく咳き込んだ。

「はあ、はあ、はあ……」

「水だ。飲めるか」

レオの手が背中をさする。その掌の熱だけが、現実だった。

アリアは再びポケットの万年筆を握りしめる。

指が白くなるほど強く。痛みで意識を現実に縫い付けるように。

「……ひどい場所」

脂汗を拭い、アリアは掠れた声で告げた。

「記録(データ)じゃない。まだ『生きて』る。ここの残留思念、まだ死ぬことを受け入れてないわ」

レオが空を見上げる。

太陽の縁が、毒々しい紫色に蝕まれ始めていた。

世界がこの場所を異物として排除しようとする兆候――『大忘却』の予兆だ。

「時間がないぞ。世界がここを消しゴムで消そうとしてる」

レオが剣の柄に手をかける。斬るべき敵などいないと知っていながら、そうせずにはいられないのだろう。

アリアは万年筆を握り直すと、ふらつく足で立ち上がった。

「行きましょう。最奥で、誰かが泣いてる」

第二章 調和者の孤独

地下へと続く螺旋階段は、臓腑の中のように生暖かかった。

アリアの呼吸が荒くなる。

一段降りるたびに、頭の中に響く「声」が増えていくからだ。

(……助けて)

(……混ざりたくない)

(……個を捨てろ。一つになれば、痛みは消える)

「アリア、おい、鼻血が出てるぞ」

レオが焦ったように声をかける。

アリアは袖口で乱雑にそれを拭った。

「大丈夫……ただの、共鳴過多よ」

「引き返すか? 今ならまだ間に合う」

「ううん。彼ら、寂しいのよ」

アリアには見えていた。

壁のシミが、人の顔に。

床の模様が、苦悶に歪む無数の手に。

最下層。

ドーム状の空間の中央に、脈動する光の塊が鎮座していた。

『記憶の核(メモリアム・コア)』。

「なんだ、あれは……」

レオが息を呑む。

美しい宝石などではない。

それは、何千、何万もの人間の精神が、無理やり一つに圧縮された「魂の坩堝(るつぼ)」だった。

「……聞こえる?」

アリアは虚ろな目で呟く。

「彼らは滅んだんじゃない。一つに『溶けた』の」

説明など不要だった。

空間に充満する圧倒的な「諦念」が、肌を刺していた。

かつての人々は、世界の崩壊を止めるために自らの肉体を捨て、意識を統合し、この石碑という演算装置そのものに成り果てたのだ。

ズズズ……。

空間の端から、景色が砂のように崩れ落ちていく。

『忘却』がすぐそこまで迫っている。

「アリア、逃げるぞ! ここじゃ何もできない!」

レオが腕を引こうとする。

だが、アリアはその手を振り払った。

振り払って、悲しげに微笑んだ。

「レオ。私、ずっと探してたの」

「何を言ってる!」

「私の頭の中、他人の記憶でいっぱいでしょう? 自分が誰なのか、時々わからなくなる。でもね……」

アリアは光る核へと歩み寄る。

「ここは、とても静かだわ」

「よせ! 触れるな!」

レオが駆け出すのと、アリアの手が核に触れるのは同時だった。

音はなかった。

ただ、強烈な閃光が弾けた。

アリアの意識が、光の中へ吸い込まれていく。

数億の他者の記憶。

しかし、それは第一章で感じたような激痛ではなかった。

温かい海に沈んでいくような、恐ろしいほどの安らぎ。

(……やっと、来たのか)

(新しい『器』が)

(疲れた……もう、眠らせてくれ)

無数の声が、アリアという「個」を歓迎し、そして依存しようと絡みついてくる。

彼らは限界だったのだ。

世界を維持するための人柱は、とっくに摩耗しきっていた。

「……代わってほしいのね」

アリアは理解した。

これは救済ではない。

交換だ。

第三章 私という境界線

世界が崩れていく。

床が消え、天井が落ちる。

その崩壊の中で、アリアだけが光に包まれ、静止していた。

身体の感覚が希薄になる。

指先の感覚がない。

心臓の鼓動が、コアの脈動と同期していく。

「アリアッ!!」

レオの声が聞こえる。

でも、それはひどく遠い。

水槽の外から呼ばれているみたいだ。

アリアはゆっくりと振り返った。

必死の形相で瓦礫を乗り越え、こちらへ手を伸ばす男。

いつも眉間に皺を寄せて、私の前を歩いてくれた人。

口は悪いけれど、私が悪夢にうなされる夜は、朝まで焚き火の番をしてくれていた人。

(……ああ)

胸の奥が、チクリと痛んだ。

この痛みだけは、他人の記憶じゃない。

私だけのものだ。

「来ないで、レオ。巻き込まれるわ」

「うるさい! 手を伸ばせ! 早く!」

レオが崖縁に身を乗り出す。

その指先が、アリアの手首を掴もうと空を切る。

あと数センチ。

届かない。

アリアの身体は、もう実体を失い始めていた。

半透明になった指先が、光の粒子となってほどけていく。

「……レオ」

アリアは、持っていた万年筆をそっと胸の前に掲げた。

唯一の、現実への楔。

私を私たらしめていた、小さな錨。

「これ、あなたにあげる」

「そんなもの要るか! お前が戻ってこい!」

「ごめんね。ここは、とても懐かしいの。私みたいな空っぽの人間には、お似合いの場所」

アリアの手から、万年筆が滑り落ちた。

カラン、と乾いた音が響く。

それが合図だった。

「アリア――――ッ!!」

レオが叫ぶ。

絶叫ではない。喉が裂けるような、悲痛な咆哮。

彼は崩れゆく足場を蹴り、宙へと身を投げ出した。

理屈も生存本能も捨てて、ただ彼女を抱き留めるために。

けれど。

彼の手が抱きしめたのは、虚空だった。

光が弾ける。

あまりにも静かに、あまりにも呆気なく。

アリアという存在の輪郭が溶け、世界という巨大なシステムの一部へと霧散した。

レオの体は重力に従い、床へと叩きつけられる。

舞い散る光の粒子が、彼の頬を優しく撫でて消えた。

そこにはもう、誰もいなかった。

ただ、世界を繋ぎ止めるための、静謐なシステム音が響いているだけだった。

終章 残響

鳥の声で、レオは目を覚ました。

「…………ん」

まぶしい日差し。

土と草の匂い。

彼は草原の真ん中で、大の字になって眠っていたらしい。

体を起こし、ぼんやりと周囲を見渡す。

平和な風景だ。

遠くに見える遺跡は、ただの古びた石の塊にしか見えない。

「俺は……何をしていた?」

頭が重い。

何か、とても長い旅をしていた気がする。

誰かと一緒に。

誰だ? 思い出せない。

調査は終わったのか?

報告書はどうする?

思考が霧の中を彷徨う。

レオは立ち上がり、足元の鞄を拾い上げた。

ふと、ブーツの先に何かが落ちているのに気づく。

黒い、古びた万年筆。

「……なんだ、これ」

拾い上げる。

安っぽいプラスチック製だ。キャップに目立つ傷がある。

自分の持ち物ではない。こんな物を買った記憶はない。

捨てようとして、指が止まった。

万年筆を握った瞬間、胸の奥が焼けるように熱くなったからだ。

――ありがとう。

声が聞こえた気がした。

耳ではなく、心臓に直接響くような、鈴を転がすような声。

視界が滲む。

わけもわからず、涙が溢れてきた。

「……なんなんだよ、くそ」

レオは粗雑に顔を拭ったが、涙は止まらない。

喪失感だけがあった。

心の一部をごっそりと抉り取られたような、埋まることのない巨大な空洞。

この万年筆の持ち主を、自分は知っているはずだ。

名前も、顔も、声も、全て忘れてしまっているけれど。

この傷だらけの筆記具だけが、その「誰か」が確かにここにいた証だった。

「……帰るか」

レオは震える手で、その万年筆を胸ポケットの最も深い場所へと仕舞い込んだ。

心臓の鼓動が、直に伝わる場所に。

風が吹いた。

草原を渡る風は、どこか懐かしい匂いがした。

空を見上げる。

どこまでも青く、残酷なほどに美しい世界が広がっている。

その均衡が、たったひとつの孤独な魂によって支えられていることを、今の彼は知る由もなかった。

AIによる物語の考察

「忘却の摂理と、名もなき記憶の歌」深掘り解説

【登場人物の心理】
アリアは他者の記憶に浸食され、自己の曖昧さに苦悩。万年筆を「個」の楔とし、最終的に『記憶の核』へ同化することで、世界を救済し自身の安寧を見出す。レオはアリアを深く愛し守ろうとするも叶わず、忘却の中で彼女を失っても、万年筆を通じた喪失感だけは胸に残る。

【伏線の解説】
アリアの万年筆は、自己の境界線を示す象徴。最後にレオに託され、忘却の摂理を超えた絆の唯一の証となる。アリアの「空っぽ」という自己認識は、『記憶の核』の新たな「器」となる運命を示唆し、核からの「眠らせてくれ」という声は、彼女が人柱となる交換の伏線である。

【テーマ】
この物語は、「忘却」と「記憶」の摂理が支配する世界で、「個」のアイデンティティがどのように確立され、そして変容していくかを深く問いかける。自己犠牲による世界の均衡維持、そして忘却すら超越し、魂の奥底に残る深い絆や感情の普遍性を描いている。
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あなたのアイデアをAIに与えて、この物語の続きや、もしもの展開を創作してみましょう。

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