第一章 フレーム単位の賭け事
安酒の酸っぱい臭気と、男たちの体臭が混ざり合う。
場末の酒場は、いつだって処理落ち寸前のPCみたいに重苦しい。
「おい聖女様よぉ。まさかビビってんじゃねぇだろうな?」
テーブルの向かいで、大男がニタニタと笑う。
彼の手にはサイコロと壺。
この酒場で流行っている『丁半』だ。単純だが、それゆえにイカサマが横行する。
私は、痩せこけた指先でテーブルの傷をなぞった。
聖女の座を追われ、着の身着のまま放り出されて三ヶ月。
今の私は、ただの飢えた小娘に過ぎない。
「……ビビる? まさか」
私は乾いた唇を舐めた。
視界の端、大男の腕の動きを凝視する。
(肘の角度30度。手首のスナップ、予備動作なし)
この世界の住人には見えないが、私には見えている。
男のモーションは、たったの3パターンしかない。
Aパターンは『偶数』。Bパターンは『奇数』。そしてCパターンは――『イカサマ』。
男が壺を振り下ろす。
その瞬間、世界がスローモーションになった。
(――来た。Cパターンの乱数テーブル)
通常なら、これは絶対に勝てないイベント戦だ。
壺の中のサイコロは、着地した瞬間に『男が勝つ目』に書き換わるプログラムが組まれている。
だから、まともに勝負してはいけない。
「せあっ!」
私は壺がテーブルに叩きつけられる0.1秒前、あえて自分のコップを倒した。
水がこぼれる。
「うわっ! 何しやがる!」
男の意識が、一瞬だけ水たまりに逸れた。
『注意喚起』のエモートが発生し、男のAI処理にラグが生じる。
その隙だ。
処理落ちで物理演算が甘くなった瞬間、私はテーブルの下から、足でテーブルの脚を蹴り上げた。
ドンッ。
衝撃で壺がわずかに浮く。
中のサイコロが、本来の判定位置から1ミリずれる。
その1ミリが、プログラムされた『必勝の目』を『エラー』へ誘う。
「さあ、開けて」
男が舌打ちしながら壺を開ける。
そこにあったのは、サイコロですらなかった。
二つのサイコロが重なり合い、垂直に立っている。
「は、はぁ!? なんだこりゃ! 立った!?」
「ルールブックには、『立ったら親の総取り』なんて書いてないわよね。ノーゲーム、あるいは――」
男は狼狽し、周囲の客が面白がって野次を飛ばす。
その混乱に乗じ、私は男が賭けていた銀貨の山をさっと懐に入れた。
「『予測不能』は、賭けの不成立(バグ)。元金は返してもらうわよ」
「てめぇ、何をした!?」
「何も。ただ、理(ことわり)の隙間を突いただけ」
怒号を背に、私は酒場を飛び出した。
心臓が早鐘を打っている。
魔法も権威もない。
あるのは、この未完成な世界を誰よりもやり込んだ『知識』だけ。
私は路地裏で銀貨を握りしめ、ニヤリと笑った。
空腹ゲージは赤点滅。
けれど、攻略の糸口は見えた。
第二章 壁抜けの少女
街外れの廃教会。そこが今の私の拠点(セーブポイント)だ。
「おねえちゃん、おなか、すいた」
崩れかけた壁のそばで、孤児の少年がうずくまっている。
ティム。私がここに来てから、ずっと同じ場所にいる子だ。
私は酒場で稼いだ銀貨で買った、赤いリンゴを彼に差し出した。
「ほら、お食べ」
「ありがとう……ありがとう……」
ティムはリンゴを受け取ろうと手を伸ばす。
けれど、その指はリンゴを掴めない。
するりと、赤い果実が彼の手をすり抜けて地面に落ちた。
「……っ」
私は奥歯を噛み締める。
当たり判定の消失。
この世界のリソース不足は深刻だ。
重要度の低いNPCであるティムには、食事をするための『接触判定』すら割り当てられていない。
彼は永遠に空腹を訴え、永遠に満たされない。
そんな残酷なバグが、この世界の日常だ。
「ごめんね。すぐに直してあげるから」
私はティムの頭を撫でようとして、手が空を切る感触に胸を痛めた。
神殿の連中は言う。「試練だ」と。
ふざけるな。これはただの手抜き工事だ。
その時、教会の外から地響きが轟いた。
「グルルルルッ……!」
窓の外、巨大な影が差す。
ワイバーンだ。本来なら、もっと高レベル帯のエリアに生息しているはずのモンスター。
座標設定のミスで、この初期エリアに迷い込んできたのだろう。
「ティム、隠れてて」
私は錆びた鉄剣――耐久値残り3のガラクタを拾い上げた。
正面から戦えば、一撃で即死だ。
私のHPは、ワイバーンの攻撃力の十分の一もない。
だが、勝機はある。
ワイバーンが大きく口を開け、炎のブレスを吐こうとする。
その予備動作は長い。約4秒。
私は逃げない。
逆に、ワイバーンの懐――右足の付け根に向かって走った。
「ギャオオッ!」
炎が私の背後の壁を焦がす。
私はその熱風を感じながら、ワイバーンの右足と、教会の柱の『隙間』に体を滑り込ませた。
そこは、ポリゴンの継ぎ目。
マップ制作のミスで生まれた、絶対安全圏(アンチ)。
ワイバーンは私を認識しているのに、攻撃が届かない。
AIが『回転攻撃』を選択するが、柱に引っかかってモーションがキャンセルされる。
『回転』→『キャンセル』→『回転』→『キャンセル』。
敵は無限ループに陥った。
「ハメ技成立」
私は無防備になった脇腹に、錆びた剣を突き立てる。
ダメージは1。
相手のHPは5000。
「5000回叩けば、沈む」
気が遠くなる作業だ。
腕が痺れ、汗が目に入る。
それでも、私は剣を振るうのを止めない。
ティムのような『切り捨てられた存在』が生き残るには、こうやって泥臭く、システムを出し抜くしかないのだから。
数時間後。
ワイバーンは断末魔と共にポリゴンの欠片となって消滅した。
ドロップアイテムが、キラリと光る。
私は荒い息を吐きながら、空を見上げた。
雲のテクスチャが、粗く引き伸ばされている。
この世界の『神』とやら。
あんたが作ったこのクソゲー、私がクリアしてやる。
第三章 レンダリングの果て
ワイバーンの素材を売り払い、装備を整えた私は、世界の中心にある『始原の塔』を目指していた。
そこはこの世界の管理サーバーであり、全てのバグの発生源だ。
だが、道はない。
塔へ続く橋は崩落しており、正規ルートでは『飛行魔法』が必要になる。
魔力を持たない私には不可能だ。
……普通にプレイするなら、の話だが。
「角度よし。助走距離、確保」
私は断崖絶壁の前に立っていた。
目の前には、空中に浮かぶ小さな岩の破片。
背景の一部として配置された、乗ることのできないオブジェクトだ。
けれど、私は知っている。
この岩の角、わずか数ドットだけ『当たり判定』が残っていることを。
「いっ……けぇっ!」
私は崖に向かって全力疾走し、虚空へと飛び出した。
重力が体を掴む。
落下死まであと数秒。
その瞬間、私は空中で体をねじり、岩の角を爪先で蹴った。
ガッ。
硬い感触。
『二段ジャンプ』の要領で、物理法則を無視した慣性が生まれる。
そのまま私は、本来行けるはずのない対岸の崖――その裏側へと着地した。
そこは、世界の外側だった。
地面はない。あるのは灰色の虚無と、ワイヤーフレームだけの山々。
裏世界(アウト・オブ・バウンズ)。
正規ルートをすっ飛ばし、私は塔の最上階へ直結するデータの隙間を走る。
「警告。不正な侵入者を検知」
頭の中に、無機質な声が響く。
塔の防衛システムだ。
目の前の空間が歪み、光の巨人が姿を現した。
ラスボス、『調律者』。
本来なら、レベル99の勇者パーティが死闘を繰り広げる相手だ。
「排除します」
巨人が手を振り上げる。
その一撃は、地形ごと私を消し去る威力がある。
しかし、私は止まらない。
剣も抜かない。
「排除? できるわけないでしょ」
私は巨人の足元へスライディングした。
そこは――イベント発生のトリガーライン。
「ようこそ、聖女よ。ここまで辿り着くとは――」
巨人の動きがピタリと止まり、口上(セリフ)を語り始めた。
ボス戦前の強制イベントだ。
この会話が終わるまで、ボスは無敵だが、攻撃もしてこない。
私はその『会話中』の硬直した巨人の横を、悠々と通り過ぎた。
「なっ……!?」
巨人の声にノイズが混じる。
イベントスキップ不可の拘束を受けているのは、私ではなく、お前の方だ。
お前が長ったらしいセリフを喋っている間に、私はゴールさせてもらう。
「話はあとで聞いてやるわよ。世界が平和になったらね!」
私は固まった巨人を置き去りにして、塔の中枢である『コア』の間へと飛び込んだ。
最終章 エンディングのその先へ
部屋の中央、巨大な水晶が脈打っている。
あれがこの世界の心臓部。
すべての理を記述したソースコードの塊。
私は水晶に触れた。
指先から、膨大な情報が流れ込んでくる。
ティムがリンゴを掴めない理由。
ワイバーンが街を襲う理由。
すべては『リソース節約』という名の怠慢だった。
「ふざけないでよ……!」
私は懐から、あのイカサマサイコロを取り出した。
そして、水晶の表面に叩きつける。
物理的な衝撃ではない。
私が叩き込んだのは、『予測不能』という名のウイルスだ。
計算通りにしか動かないこの世界に、私が酒場で、路地裏で、魔獣との戦いで培った『イレギュラー』なデータを流し込む。
1ミリのズレ。
1フレームの遅延。
それが連鎖し、世界の演算処理を飽和(オーバーフロー)させる。
《警告。システムエラー。論理崩壊を確認》
《強制リセットを実行しま――》
「させない!」
私は叫んだ。
リセットボタンなんて押させない。
このバグだらけで、理不尽で、未完成な世界を、私は愛してしまったのだから。
ティムが笑える世界を、あの酒場の親父が悔しがる明日を、私は見たい。
「バグがあるなら、仕様に変えればいい! 未完成なら、私たちが遊び尽くして完成させる!」
水晶に亀裂が走る。
光が溢れ、私の視界を白く染め上げていく。
HPバーが消える。
レベル表記が溶ける。
視界に映る『数値』や『判定』が、すべて消え失せていく。
恐怖はない。
だって、これが『攻略完了』の合図だから。
***
風が、頬を撫でる感覚で目が覚めた。
目を開けると、そこはいつもの廃教会だった。
けれど、何かが違う。
空の青さが、深い。
雲が、風に乗って複雑な形を変えながら流れている。
テクスチャの継ぎ目は、もうどこにもない。
「おねえちゃん!」
ティムが駆け寄ってきた。
その手には、半分かじった赤いリンゴが握られている。
「……うん。おいしそうだね」
私は涙をこらえて微笑んだ。
もう、彼の心拍数は見えない。
彼が次に何を言うかも、予測できない。
これからは、攻略サイトのない本当の冒険が始まる。
怪我をするかもしれない。
死ぬかもしれない。
理不尽な不幸が襲うかもしれない。
けれど。
「さあ、続きを始めましょうか」
私は泥だらけのブーツの紐をきつく結び直した。
この最高に難易度の高い、クソゲー(現実)を楽しみ尽くすために。