第一章 完全なるノイズ
防音室の完全な静寂。
その均衡を破るように、僕の指先だけが忙しなく動いていた。
三つのモニター、波形編集ソフト、そして配信開始のカウントダウン。
画面の向こうには、Live2Dの皮を被った少女、VTuber「ルナ」がいる。
「あ、あの、零(レイ)さん……マイク、入ってる?」
「入ってるよ」
僕はルナが言葉を発するのと同時に、同じ言葉を口パクでなぞっていた。
タイミング、抑揚、息継ぎの位置まで、コンマ一秒のズレもなく。
ルナがデスクの上の水に手を伸ばす。
僕は画面も見ずに、左手でマイクケーブルをサッと手繰り寄せた。
ガタン。
ルナの肘がコップを倒す。
だが、水滴が機材にかかることはない。僕が事前にケーブルを避けていたからだ。
「あっ! ご、ごめんなさい!」
「大丈夫。拭けばいい」
僕はため息一つこぼさず、足元に用意していた雑巾を投げた。
これが四十七回目だからだ。
彼女がコップを倒すのも、この後最初の一曲目で歌詞を間違えるのも、全て記憶済みだ。
僕のポケットには、冷たい金属の塊――死んだ天才歌手、アリアの遺品である音楽プレイヤーが入っている。
これが僕の命綱。
ルナが炎上し、心を病み、あるいは物理的に死ぬたび、僕は自らの頸動脈を切り、このプレイヤーと共に時間を遡行してきた。
「いくよ、ルナ。いつも通りでいい」
「うん……信じる。零さんがついてるなら」
『待機所』の同接、五万人。
悪意と好奇心の津波が押し寄せる。
「――こんルナ! 初めまして、月詠ルナです!」
快活な挨拶。
完璧な滑り出し。
だが、僕はフェーダーに置いた指を離さない。
来る。
開始から三分二十秒。
予定調和の「崩壊」が。
『ザザッ……』
ヘッドフォンを切り裂く鋭利なノイズ。
ルナのアバターが痙攣し、その愛らしい口から、低い、退廃的な声が漏れ出す。
『……聞こえてるんでしょ? 偽善者』
背筋が粟立つ。
アリアだ。
死んだはずの歌姫の声が、ルナの声帯をジャックしている。
コメント欄の滝が止まる。
そして、爆発する。
『え、今の声なに?』
『放送事故?』
『なんか聞いたことある声だな』
心拍数が跳ね上がる。
脇の下を冷たい汗が伝う。
失敗だ。
今回も、アリアの亡霊が邪魔をする。
僕は反射的に、デスクの引き出しに手を伸ばした。
そこには、時間を巻き戻すためのカッターナイフが入っている。
今すぐリセットすれば、まだ傷は浅い――。
「零さん! 音、切らないで!」
ルナの叫び声が、僕の思考を殴りつけた。
モニターの中、ルナはガタガタと震えながら、それでもマイクを握りしめている。
「私、歌う。知らない歌だけど……このメロディが、頭から離れないの」
彼女は、僕の指示を無視してアカペラで歌い出した。
セットリストにはない、未完成のバラード。
それは、アリアが死ぬ直前に遺した「名前のない歌」だった。
画面の隅、オーディオスペクトラムが異常な波形を描き出す。
そこには、あり得ないユーザー名が表示されていた。
『User: A_R_I_A』
コメントは一言だけ。
『まだ、逃げるつもり?』
第二章 幽霊たちの周波数
スタジオの非常灯だけが赤く明滅している。
僕はミキサー卓に突っ伏し、過呼吸を抑え込んでいた。
指先の震えが止まらない。
「零さん」
スピーカー越しに、ルナの声がする。
いつもなら泣きじゃくっているはずの彼女が、今は妙に落ち着いていた。
「私、夢を見るの。何度も死んで、何度も生き返る夢」
心臓を鷲掴みにされた気がした。
記憶のリーク。
繰り返す時間遡行の副作用で、ルナの中に「消したはずの過去」が沈殿している。
「炎の中で、零さんが私を見捨てて逃げる夢も見た。……あれは、夢じゃないんでしょ?」
「……すまない」
喉が焼けるように熱い。
弁解の余地などない。僕は「完璧な結末」を作るために、数えきれないほどの「失敗したルナ」を見捨ててきたのだから。
『ブブブッ……』
ポケットの中、壊れたはずのプレイヤーが狂ったように振動した。
液晶画面が割れ、ノイズ混じりの音声が漏れる。
『明日の二十時。終わらせてあげる』
直後、僕のスマホに通知が届く。
大手ゴシップサイトのリーク記事。
【新人ルナの前世は犯罪者? プロデューサー神崎零による隠蔽工作】
捏造だ。
アリアを殺した時と同じ手口。
業界最大手「スターライト・エージェンシー」が、僕の再起を潰しにかかっている。
「終わりだ……」
僕はカッターナイフを手に取る。
刃先を出し、手首に当てる。
二ヶ月前に戻れば、この記事が出る前にサーバーを攻撃できるかもしれない。
もっと完璧なルートを。
もっと安全な道を。
『ガガッ!』
ハウリング音が鼓膜を突き刺す。
顔を上げると、モニターの中のルナが、鬼のような形相で僕を睨んでいた。
いや、右目だけが金色に輝いている。
アリアだ。
「いい加減にしなさいよ!」
ルナの口から、アリアの怒号が飛ぶ。
そして、次の瞬間、表情がふっと緩み、ルナ自身の泣き顔に戻った。
「零さん、死なないで! 逃げないでよ!」
二人の魂が、一つの肉体の中でせめぎ合っている。
ルナが画面越しに手を伸ばすような仕草をした。
「アリアちゃんが言ってる。『証拠はある』って。このプレイヤーの中に、あいつらの汚い声が全部入ってるって!」
僕はカッターを取り落とした。
床に落ちた刃物の音が、やけに響く。
震える手で、ポケットのプレイヤーを取り出す。
そうだ。
僕はエンジニアだ。
時間を操る魔法使いじゃない。
音を紡ぐ職人だ。
「……ノイズだらけだぞ。まともには再生できない」
「直してよ」
ルナが涙を拭い、ニカっと笑った。
その笑顔は、どこかアリアに似ていて、でも間違いなくルナのものだった。
「零さんは、世界一の音響屋(PA)なんでしょ?」
第三章 バグだらけのカーテンコール
翌日、二十時。
緊急会見。
同接数は二十万を超えた。
コメント欄は罵倒の嵐。文字の凶器が、高速で流れていく。
『犯罪者』『消えろ』『詐欺師』
僕はブースに座り、ミキサーの前にいた。
手汗でフェーダーが滑らないよう、何度もタオルで指を拭う。
「マイクチェック。……ワン、ツー」
ルナの声。
震えている。
でも、逃げていない。
「みなさん、聞いてください。これが真実です」
ルナの合図で、僕はプレイヤーをライン入力に繋いだ。
再生ボタンを押す。
『ザザザッ――……』
酷いノイズ。
嵐のような雑音が配信に乗る。
コメント欄が嘲笑で埋まる。
『何これ』『耳壊れる』『言い訳?』
違う。
ここからが、僕の仕事だ。
「イコライザー、起動」
僕は目を閉じ、ノイズの海に潜る。
必要なのは「声」だ。
雑音という名の瓦礫の下に埋もれた、真実の周波数。
右手が高速でツマミを回す。
低域のハムノイズをカット。
高域のヒスノイズをコンプレッサーで潰す。
特定の周波数帯域だけを、外科手術のように鋭利にブーストする。
「来い……ッ!」
波形が整う。
ノイズがリズムに変わる。
そのビートに乗って、死者の声が鮮明に浮かび上がった。
『――ねえ、スターライトの社長さん。この捏造記事の件、録音してるから』
アリアの声だ。
そして、聞き覚えのある男の嘲笑う声。
『ハッ、死人が口を聞くなよ。お前はただ消費されて消えればいいんだ』
コメント欄が凍りつく。
嘲笑が、驚愕へ変わる。
だが、それだけじゃない。
この告発音声は、ただの証拠じゃない。
「ルナ!」
僕は叫びながら、リバーブの深さを最大にした。
「うん!」
ルナが、その告発のビートに合わせて歌い出す。
アリアの遺した「名前のない歌」。
不完全で、荒削りで、ノイズ混じりのトラック。
けれど、二人の声が重なった瞬間、それは世界で最も痛切なアンセムになった。
「過去なんていらない! 私が欲しいのは『今』だけだ!」
ルナのシャウトが、メーターのレッドゾーンを振り切る。
画面上、ルナのアバターに半透明のアリアが重なり、二人の歌姫が背中合わせで絶唱する。
僕は泣きながらフェーダーを叩き続けた。
完璧じゃなくていい。
傷だらけでいい。
この歪んだ音こそが、僕たちの生きた証だ。
曲がクライマックスを迎える。
高まりすぎた電圧に耐え切れず、プレイヤーから黒煙が上がった。
バチッ、という音と共に、入力信号が途絶える。
「さよなら、零」
ヘッドフォンの奥、アリアの囁きが聞こえた気がした。
エピローグ 傷跡という名の勲章
静寂が戻ったスタジオ。
機材の焦げる匂いが充満している。
「終わった……の?」
ルナがその場にへたり込む。
SNSは、捏造の暴露と、伝説的なライブの話題でサーバーダウン寸前だった。
もはや、スターライト・エージェンシーに勝ち目はない。
僕は、黒く焦げたプレイヤーを手に取った。
もう、電源は入らない。
時間を巻き戻す魔法は、完全に消滅した。
「怖くない?」
ルナが上目遣いで僕を見る。
これからは、一度の失敗が命取りになる。
リセットボタンのない、残酷で一度きりの人生。
僕の足は、まだ震えていた。
指先は痺れ、心臓は早鐘を打っている。
明日、何が起こるか分からない恐怖。
「ああ、怖いよ。死ぬほどね」
僕は正直に答えた。
そして、ルナの汗ばんだ頭をくしゃくしゃに撫でた。
「でも、今の歌は完璧だった」
ルナが、涙でぐしゃぐしゃの顔で、満開の花のように笑う。
「じゃあ、明日も明後日も、もっとすごい歌、作らなきゃね! プロデューサー!」
もう、やり直しはいらない。
僕たちは、傷だらけのまま、不確定な未来へと歩き出す。
その一歩こそが、どんな完璧な過去よりも尊いのだから。