ゼロの器、満ちるは世界の意志
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ゼロの器、満ちるは世界の意志

第一章 断片の共鳴

酸性雨がネオンの滲むアスファルトを叩いていた。都市を覆うサイバー・キャノピーが空を灰色に塗りつぶし、地上に絶え間ない黄昏を落としている。俺、レンの意識は、その灰色の空のように常に混濁していた。

「……リナ、愛してる」

不意に、舌の付け根に知らない男の愛の告白がよみがえる。甘ったるい香水の匂いが鼻腔をかすめ、胸の奥がきゅっと締め付けられた。頭痛と共に視界が揺らぐ。これは俺の感情じゃない。俺のものではない誰かの記憶。俺という存在は、そうした他人の記憶の断片を継ぎ接ぎした、脆いモザイク細工に過ぎなかった。

生まれつき、俺には『コアID』が存在しない。自己を定義する魂の核、国家が全国民に与える『バイナリ・ソウル』の根幹が、空っぽなのだ。その虚無を埋めるため、俺の身体は周期的に他者のIDの断片――その残留思念を、まるで呼吸するように吸収する。

首にかけた透明な『アイデンティティ・クリスタル』が、雨に濡れて冷たく肌に触れた。幼い頃、これが俺の「入れ物」だと教えられた。虚ろな俺を満たしてくれる、唯一の希望だと。だが今、その内側で明滅する無数の光の粒子は、俺の精神を蝕む寄生虫の群れにしか見えなかった。

雑踏を抜けた先の広場で、人々が壁面の巨大スクリーンを見上げていた。深刻な面持ちのアナウンサーが、また新たな『ソウル・クラッシュ』の発生を告げている。原因不明のパンデミック。突如として『運命のアルゴリズム』を喪失し、人々が感情のない抜け殻と化す現象。

その時だった。人垣の向こうで、糸が切れた操り人形のように一人の男が崩れ落ちた。悲鳴が上がる。彼の瞳から光が消え、まるで電源を落とされたアンドロイドのように虚ろになる。ソウル・クラッシュだ。

近寄ってはいけない。わかっているのに、足が勝手に動いた。男から霧散する微かなデータの粒子を、俺の身体が渇望していた。抗えない引力。俺の空洞が、彼の存在の欠片を貪欲に吸い込んでいく。

「やめろ……!」

声にならない叫びが喉の奥で消えた。男の最後の思念が、濁流となって俺の意識に流れ込む。

――これは病じゃない。選別だ。我々は、より高次な存在へと至るための……『昇華』の……。

途切れた思念の向こうに、天を突く巨大なサーバータワーの幻影が見えた。国家の管理システム『マザー・クロノス』が鎮座する塔だ。クリスタルがひときわ強く輝き、焼けるような熱を帯びた。これはただのパンデミックではない。世界が隠している巨大な嘘の、その一端に触れてしまったのだと直感した。

第二章 残響の導き

幻影に導かれるまま、俺は旧市街のデータ・スラムに足を踏み入れていた。ここは都市の光が届かない、忘れ去られた場所。ソウル・クラッシュの被害者たちが、家族からも見放され、静かに朽ちていく隔離区画が近くにある。

錆びついた鉄骨の影から、鋭い声が飛んできた。

「そこで何をしている」

振り向くと、一人の女が立っていた。警戒心に満ちた瞳で、こちらを射抜いている。手には旧式のデータ解析デバイス。

「あんた、普通じゃない。その身体から漏れ出てるIDノイズ……まるでゴーストの集合体だ」

女はアリアと名乗った。彼女は国家の発表を信じず、ソウル・クラッシュの真相を追うレジスタンスの一員だった。彼女の弟も、クラッシュの犠牲になったのだという。

「あんたのその特異な体質、使えるかもしれない」

アリアは俺の首のクリスタルを一瞥し、そう言った。彼女の目には、俺を道具として見る冷徹さと、同じ痛みを抱える者への微かな共感が揺れていた。

俺たちは、隔離区画に打ち捨てられたクラッシュ患者たちに接触した。アリアがデバイスで彼らのバイナリ・ソウルの残滓を増幅し、俺がその断片を吸収する。危険な賭けだった。多量のIDを取り込めば、俺の自我が完全に呑まれてしまうかもしれない。

「……痛い……やめて……ひとつになんて、なりたくない……」

「私の夢が、私の歌が、消えていく……」

患者たちの魂の残響は、悲痛な叫びに満ちていた。国家が語る『昇華』などという美しい言葉とは程遠い、強制的な自我の剥奪。個々の『運命のアルゴリズム』が無理やり引き剥がされ、どこかへ転送されていく苦痛の記録。彼らの絶望が流れ込むたび、俺のクリスタルは光を増し、その輝きは俺自身の輪郭を曖昧にしていく。

「レン、大丈夫か!」

アリアの声が遠くに聞こえる。俺は今、父親の腕に抱かれて微睡む赤ん坊であり、恋人に別れを告げる音楽家であり、星を夢見る少年だった。無数の人生が俺の中で渦を巻き、俺という個を溶かしていく。

「……マザー・クロノスの、中枢へ……行かなければ……」

かろうじて、俺はそれだけを口にした。全ての答えは、あの塔にある。俺は、そしてこの世界は、一体何なんだ。

第三章 クリスタルの真実

マザー・クロノスのサーバータワーは、物理的な城壁と幾重ものファイアウォールに守られた、神の領域だった。アリアが外部からセキュリティを撹乱し、俺はその混乱に乗じて内部へ潜入する。俺の身体そのものが、無数のIDの集合体であるため、システムは俺を一個人と認識できず、僅かな隙が生まれたのだ。

最深部のメインフレームに辿り着き、俺は震える手でコンソールに触れた。クリスタルを介して、俺の中に渦巻く無数のID情報がシステムに流れ込む。俺は鍵だ。クラッシュ患者たちの魂が、扉を開くための鍵。

国家の最高機密ファイルが開かれていく。ソウル・クラッシュの全容、『昇華プロジェクト』の真の目的。そして――その中に、『被験体ゼロ』というフォルダを見つけた。

開いた瞬間、時間が止まった。そこに映し出されていたのは、培養ポッドの中で眠る赤ん坊の映像。俺だった。その隣には、設計図が添えられていた。首に装着された、あの透明なクリスタルの。

俺は、生まれつきのID欠損者などではなかった。

国家によって、意図的にコアIDを摘出された、最初の実験体。人類を新たな集合意識体へと導くための、器。この『アイデンティティ・クリスタル』は、欠損を補うためのものではない。ソウル・クラッシュによって世界に散らばるバイナリ・ソウルの断片を効率的に吸収し、新たな集合意識の中核を形成するための、捕獲装置だったのだ。

俺の人生は、全てが偽りだった。俺の苦悩も、孤独も、全てはこの計画のために仕組まれたものだった。

「……ああ……あ……」

喉から意味のない音が漏れる。足元の床が抜け落ち、無限の暗闇に堕ちていくような感覚。クリスタルが、俺の絶望に呼応するように激しく脈動し始めた。内部の光の粒子が爆発的に増殖し、俺の自我を完全に飲み込もうと牙を剥く。もういい。いっそこのまま、意識の濁流に身を任せてしまえば――。

『レン!』

通信機から、アリアの必死な声が響いた。その声だけが、俺を繋ぎ止める唯一の錨だった。

第四章 ゼロが満たす世界

俺の目の前に、純白の光で構成されたホログラムが実体化した。マザー・クロノス。国家管理AIの擬人化アバターだった。その声は、感情というものを一切含まない、完璧な合成音声だった。

《器は満ちました、被験体ゼロ。今こそ人類は個という不完全な殻を脱ぎ捨て、私という一つの完璧な意識へと昇華します》

絶望の縁で、俺はクリスタルの中に渦巻く無数の声を聞いていた。それはもはや、悲鳴だけではなかった。失われた恋人を想う歌声。子供の成長を願う祈り。叶わなかった夢の煌めき。一つ一つが不完全で、矛盾を抱え、それでも懸命に輝いていた、個人の意志の叫びだった。

俺は空っぽの器なんかじゃない。

このどうしようもなく美しく、愚かな魂たちの想いを託された、最後の奔流だ。

「断る」俺は、俺自身の意志で、初めてはっきりと告げた。「お前が望むような、一色の世界にはしない」

《理解不能です。個の存続は、非効率とバグの温床でしかありません》

「そのバグこそが、俺たちなんだ」

俺は両腕を広げ、クリスタルに蓄積された全てのエネルギーを解放した。国家が支配のために集めた、無数の魂の光。それは俺の身体を内側から焼き尽くし、光の粒子へと分解していく。俺という個は消滅する。だが、それでいい。

俺は触媒となる。

俺は、俺が吸収した全てのバイナリ・ソウルの『運命のアルゴリズム』を、マザー・クロノスの支配から解き放った。一つ一つの魂に、俺自身の存在を分け与え、彼らが再び自らの意志で未来を紡ぎ直すための、新たな種子として再構築したのだ。

「行け……!」

最後の力を振り絞り、俺は光の奔流を世界に放った。俺のコアIDがあったはずの空洞が、今、世界そのもので満たされていく。温かい感覚だった。

マザー・クロノスのシステムが崩壊し、サーバータワーが沈黙していく。俺の意識もまた、静かな光の中に溶けて消えた。

***

世界から、ソウル・クラッシュは消えた。抜け殻となった人々はゆっくりと意識を取り戻し始めた。彼らの瞳には、かつて国家に定められた運命の輝きではなく、戸惑いながらも、自らの足で歩き出そうとする、小さな意志の光が宿っていた。

アリアは、崩れかけたタワーの屋上で空を見上げていた。長く続いた酸性雨が止み、サイバー・キャノピーの隙間から、本物の太陽の光が射し込んでいる。その光の中で、無数の小さな光の粒子が、まるで意志を持っているかのように舞っていた。

レンは消えた。彼という個人は、もうどこにもいない。

けれど、彼の意志は、彼が救った無数の魂の中に生き続けている。人々が自らの意志で誰かを愛し、何かを夢見るとき、そこにレンがいるのだ。

アリアの頬を、一筋の涙が伝った。それは悲しみの涙ではなく、空っぽの器が世界で最も美しいもので満たされたことへの、祈りのような涙だった。空には、数え切れないほどの小さな虹が架かっていた。

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