深淵のアーカイブと汚れた聖女

深淵のアーカイブと汚れた聖女

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# 深淵のアーカイブと汚れた聖女

第一章 視線が焼く街

「……美しい街だこと」

傘の縁から覗く視界で、私は吐き捨てた。

雨に濡れた交差点。信号待ちをするサラリーマンの頭部が、私には腐った柘榴のように割れて見えた。

裂け目から溢れ出すのは、脳漿じゃない。

無数の蛆虫だ。

彼が同僚へ向ける嫉妬、劣等感、殺意。それらが白く蠢き、雨粒と一緒にアスファルトへボトボトと落ちる。

誰も気づかない。私以外は。

すれ違う恋人たちの口元もそうだ。愛を囁く唇の隙間から、鋭い鉤爪のような舌が互いの肉を貪ろうとしている。

強烈な腐臭に、胃液がせり上がる。

これが、かつて「聖女」と呼ばれた私が受け取った報酬。

世界の『悪意』を視る呪い。

ノイズが鼓膜を刺した。

インカムから、不機嫌そうな声が響く。

『エレノア、いつまで散歩してる。酸性雨で溶けちまうぞ』

「溶けて下水道に流れた方がマシよ。……今、着いた」

路地裏の最奥。

錆びついた鉄扉を蹴り開ける。

廃ビルの地下。

無数の冷却ファンが悲鳴を上げ、生温かい風が頬を打つ。

モニターの青白い光が、痩せこけた男の顔を照らし出していた。

K。この電脳の海で、唯一私が呼吸できる場所の主。

「酷い顔だ。また『視えた』か?」

Kはコーラの缶を煽りながら、目線だけで私を迎える。

「ええ。そこら中、蛆と汚物だらけ。……解析は終わったの?」

私は胸元のロザリオを引きちぎるように外し、彼のデスクに投げ出した。

水晶の中に閉じ込められた黒い靄が、まるで生き物のようにガラス面を叩いている。

「ああ、とびきり極上のネタだ。見ろよ」

Kが顎でしゃくる。

メインモニターには、私のロザリオのスキャン画像が表示されていた。

だが、それはただの画像ではなかった。

解析ソフトが、エラーを吐き続けている。

画面を埋め尽くす赤い警告灯。そして、スピーカーから漏れる、何千、何万もの人間の断末魔のようなノイズ。

「こいつは宝石なんかじゃない」

Kがキーボードを叩く指を止めた。その指先が、微かに震えている。

「……大容量ストレージだ。それも、人間の精神汚染レベルを軽く致死量まで引き上げるほどのな」

第二章 偽りの聖域

「触れるな!」

私が手を伸ばそうとすると、Kが鋭く制した。

「回線が焼き切れる寸前だ。……おい、これを見ろ。こいつの製造ログだ」

Kがエンターキーを叩く。

モニターの光が乱れ、ノイズの中に映像が浮かび上がる。

それは、白い部屋だった。

手術台。拘束された幼い少女――過去の私。

『出力安定。受容体の適合率は100%です』

白衣を着た男たちが、私の脳に電極を突き刺している。

痛みはない。あるのは、頭の中に泥水を流し込まれるような不快感だけ。

映像の中の司教が、満足げに笑った。

その笑顔の裏側で、彼の影が巨大な肉食獣の形に歪み、少女の頭部に噛みついているのが視える。

『素晴らしい。これで民衆の汚らわしい欲望は、すべてこの娘が吸い上げてくれる』

『排泄物の処理係ですね。聖女とは、よく言ったものです』

ドクン。

心臓が跳ねた。

ロザリオが共鳴している。

水晶の中の黒い靄が膨張し、血管のような触手を伸ばして、解析機のリールに絡みつき始めた。

「……処理係」

乾いた笑いが漏れる。

聖女としての祈りも、奇跡も、すべて茶番だった。

私はただ、この都市の精神的ゴミ捨て場として作られた、生きた浄化槽。

「エレノア、離れろ! 逆流してくるぞ!」

Kの叫び声。

だが、遅かった。

モニターの映像が、現実を侵食する。

壁から、床から、無数の黒い手が伸び、私の足首を掴んだ。

「うっ……あぁ!」

頭の中に、見知らぬ他人の憎悪が雪崩れ込んでくる。

隣人を呪う声。親を憎む声。自分自身を殺したいと願う声。

「くそっ、遮断できねえ! 防火壁が紙切れみたいに破られてやがる!」

Kが必死にコマンドを打ち込むが、モニターは次々とブラックアウトしていく。

街の地図が表示されたサブモニターで、赤い光点が爆発的に増殖していた。

都市中の人々の精神が、許容量を超えた下水のように決壊し、ここへ――私のロザリオへ向かって逆流を始めている。

「……私が、満杯になったから?」

溢れ出した悪意が、行き場を失って暴走している。

このままでは、都市全体が発狂する。

「K、止める方法は?」

「ねえよ! ハードウェアごと破壊しても、お前の脳がクラウドと直結しちまってる! お前が死ねば、この汚染データは全市民の脳へフィードバックされるぞ!」

Kが椅子を蹴って立ち上がり、私の肩を掴んだ。

いつも冷笑的な彼の瞳が、恐怖と、そして焦燥で見開かれている。

「逃げるぞ、エレノア。どこか電波の届かない地下深くへ……」

「逃げて、どうなるの?」

私は彼の手をそっと外し、暴れ狂うロザリオを見つめた。

黒い光が、私の肌を焦がし始めている。

第三章 闇の継承者

「世界なんて、滅びればいいと思ってた」

私の言葉に、Kが息を呑む。

廃ビルの外からは、人々の悲鳴と、衝突する車のクラクションが微かに聞こえ始めていた。

「蛆虫みたいな連中よ。勝手に私を崇めて、勝手に失望して、石を投げつけてきた」

脳裏をよぎるのは、冷たい石の感触と、罵声。

けれど。

ふと、記憶の底から別の映像が浮かび上がる。

路地裏で震えていた私に、泥だらけのパンを半分差し出してくれた、あの名もなき少年。

そして、この薄暗い地下室で、不器用に温かいコーヒーを淹れてくれた、目の前の男。

「……でも、貴方がいるわ」

「は?」

「貴方が死ぬのは、ちょっと癪だわ。K」

私はロザリオを両手で包み込んだ。

熱い。魂ごと溶かされるような熱量。

「何をする気だ」

「私が『本体』になる。ロザリオを介さず、全てのデータを私という器に直接ダウンロードして、凍結させる」

「ふざけるな! 自我なんて一瞬で消し飛ぶぞ! お前は……ただの肉塊になるんだ!」

Kが私の腕を掴もうとする。

けれど、私の身体から発せられる拒絶の衝撃波が、彼を弾き飛ばした。

彼は床に叩きつけられ、咳き込む。

「K、お願い。仕事をして」

私はモニター越しに彼を見た。

視界の端から色が消えていく。世界が、0と1の羅列に変わっていく。

「私が全ての悪意を抱え込んだら、その瞬間に……外部からのアクセスを全て絶って」

「……俺に、お前を殺せって言うのか」

「違う。私を、貴方のアーカイブに閉じ込めて」

私の身体が浮き上がる。

天井を突き抜け、都市中の闇が竜巻となって私に集中する。

痛い。痛い。

でも、不思議と心は静かだった。

蛆虫だらけの世界でも。

たった一つ、守りたい場所があるだけで、人はこんなにも強くなれる。

「……クソッ、クソッタレが!」

Kの罵声が聞こえる。

キーボードを叩く音が、機関銃のように響いた。

それが私への、最後の手向け。

「エレノア、聞こえるか! 絶対に離すなよ! 全部の呪いを、俺が一番深い場所に埋葬してやる!」

「ええ……ありがとう、K」

光が弾けた。

私の意識は砕け散り、膨大な闇の底へと沈んでいく。

ああ、なんて静かなんだろう。

これでもう、誰も憎まなくていい。

誰も、傷つけなくていい。

***

エンターキーを叩く音が、静寂を取り戻した地下室に響いた。

『対象の隔離完了。全ネットワークからの切断を確認』

無機質なシステム音声。

モニターには『NO SIGNAL』の文字が点滅している。

外のサイレンは止んでいた。

暴走しかけた人々の精神は、何事もなかったかのように平穏を取り戻しているだろう。

誰も知らない。

一人の少女が、世界の全ての汚泥を飲み干して、永遠の闇に消えたことを。

男は震える手でタバコを取り出し、火をつけた。

紫煙が、空になった椅子へと流れていく。

「……馬鹿な女だ」

声が震えていた。

彼はキーボードを操作し、暗号化された極秘フォルダを開く。

そこには、膨大な黒いデータの塊が、静かに眠っていた。

男はフォルダの名前を書き換える。

『My Saint(私の聖女)』と。

「おやすみ、エレノア」

男はモニターの電源を落とした。

暗闇の中、タバコの火だけが、彼女への祈りのように赤く燃え続けていた。

AIによる物語の考察

本作は、世界の悪意を視る呪いを負った「汚れた聖女」エレノアと、彼女を支えるKの物語。エレノアは、ロザリオが人々の精神汚染を吸い取る「アーカイブ」であり、自身が「処理係」である真実を知る。当初は世界を憎悪していた彼女だが、Kとの絆により「守りたいもの」を見出し、全てを憎む世界を救うため、自らを犠牲に悪意を抱き込む決断をする。Kは冷笑の奥にエレノアへの深い愛情を秘め、苦渋の末、彼女の魂を自身のアーカイブに封じる。

エレノアがロザリオ内の「黒い靄」を視たり、悪意を可視化する描写は、彼女が特別な「受容体」であることの伏線。

テーマは、自己犠牲による救済と、人間の善悪の二元性、そして絶望の中の希望。憎悪に満ちた世界でさえ、一筋の光のために全てを捧げるエレノアの選択は、真の愛と、孤独な魂が辿り着く救済の形を深く問いかける。
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あなたのアイデアをAIに与えて、この物語の続きや、もしもの展開を創作してみましょう。

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