月面の匂いを知っているか?
火薬と、焦げた鉄と、そして古い血の匂いだ。
俺は今日も、この真空の墓場で、星屑(ゴミ)を拾って生きている。
第一章 灰色の砂、黄金の墓標
ヘルメットのバイザー越しに見る地球は、いつだって不愉快なほど青い。
「カイト、酸素残量を確認しろ。お前、また警告音(アラート)を切ってるだろ」
耳元のスピーカーから、現場監督のドスの効いた声が響く。
ノイズ混じりのその声は、鼓膜をやすりで擦られているようで癇に障る。
「うるさいな。聞こえてるよ、おっさん」
俺は舌打ちし、HUD(ヘッドアップディスプレイ)の隅で点滅する赤い数値を睨んだ。
残量12パーセント。
致死圏内だ。
だが、まだ帰れない。
目の前には、旧世紀の遺物である通信衛星の残骸が漂っている。
俺の仕事は、こういう「宇宙ゴミ(スペースデブリ)」を回収し、民間月面基地『アルテミス・ナイン』へ持ち帰ること。
借金返済まで、あと三万トン。
気の遠くなるような数字だが、俺には特別な武器がある。
俺は、右手のマニピュレーターを慎重に伸ばした。
デブリの表面、塗装が剥げ落ちた金属の肌に触れる。
――キィン、と高い音が脳内に響く。
これは幻聴じゃない。
『構造共感覚』。
物質の歪みや応力が、俺には「音」として聞こえる。
ガキの頃からの、呪いのような特技だ。
「……そこか」
俺は、デブリの継ぎ目、もっとも脆弱な一点にプラズマカッターを突き立てた。
本来なら数時間かかる解体作業が、わずか数秒で終わる。
巨大な金属塊が、悲鳴のような音を立てて二つに割れた。
その断面から、きらりと光るものがこぼれ落ちる。
「なんだ、これ?」
それは、ただのスクラップじゃなかった。
純金でコーティングされた、掌サイズのブラックボックス。
『極秘(TOP SECRET)』
そう刻印されたそれを拾い上げた瞬間、俺の脳内に、今まで聞いたこともないような美しい旋律が流れた。
それは、構造の歪み音ではない。
まるで、誰かが助けを求めて歌っているような、哀切なアリアだった。
「おいカイト! 心拍数が上がってるぞ。何を見つけた?」
「……ただのゴミだよ。金目のものじゃなさそうだ」
俺は嘘をついた。
直感が告げている。
これは、拾ってはいけないゴミだ。
だが、この旋律は、俺がここ(月)へ来る理由になった、ある「声」に酷似していた。
第二章 ノイズの向こう側
エアロックの減圧音が止むと、重苦しい「匂い」が満ちてくる。
レゴリス(月の砂)特有の、あの火薬のような匂いだ。
安っぽい宿舎に戻り、俺は拾ったブラックボックスを端末に接続した。
民間企業が運営するこの月面基地は、表向きは「人類のフロンティア」だが、実態は借金まみれの労働者をこき使う強制収容所に近い。
『アクセス承認。ユーザー:管理官α』
セキュリティがザルだ。
いや、俺の共感覚が、電子的な障壁の「脆い部分」さえも音として捉えていたからこそ、突破できた。
画面に表示されたのは、地図データだった。
『セクターZ・静かの海・地下保管庫』
そこは、放射線レベルが高すぎて立ち入り禁止になっているエリアだ。
だが、データには奇妙な記述がある。
『生体ユニット稼働率:98%』
『冷却システム:正常』
生体ユニット?
無人の保管庫のはずだ。
その時、ドアが激しく叩かれた。
「カイト! 開けろ! 保安局だ!」
心臓が早鐘を打つ。
早すぎる。
俺がこれを持ち帰ったことが、もうバレているのか。
俺はとっさにブラックボックスを宇宙服の生命維持装置の裏側に隠した。
ドアが開く。
入ってきたのは、警棒を持った屈強な男たちと、スーツ姿の女だった。
「……何の用だ?」
女が冷ややかな視線を向ける。
月面開発公社、エリザ・ノヴァク。
この基地の実質的な支配者だ。
「貴様、回収したデブリの中に『未申告物』があったな?」
「何のことだか」
「シラを切るな。あれには発信機がついている」
エリザが一歩踏み出す。
香水の甘い香りが、部屋の黴臭さと混じって吐き気を催させる。
「カイト・スズキ。元航空宇宙軍パイロット。構造共感覚という特異体質により除隊。その後、妹の治療費のために莫大な借金を背負い、ここへ来た」
彼女は俺の過去を諳んじた。
「妹さんは残念だったわね。地球の病院で亡くなったと聞いたけれど」
「……黙れ」
「取引をしましょう。その箱を返せば、借金を帳消しにして地球へ帰してあげる」
悪魔の囁きだ。
だが、俺の耳には、彼女の言葉が不協和音として響いていた。
嘘をついている時の音だ。
「断る」
俺はテーブルの上のスタン・グレネード(作業用の閃光弾)を掴み、地面に叩きつけた。
轟音と閃光。
「うわあああっ!」
視界が奪われている隙に、俺は部屋を飛び出した。
向かう先は一つ。
セクターZ。
あのブラックボックスが奏でていた旋律。
あれは、死んだはずの妹がよく口ずさんでいた歌だったのだ。
第三章 一億ドルの棺桶
盗んだ月面バギーが、クレーターの縁を跳ねるように疾走する。
背後からは、警備用ドローンが赤いレーザー照準を向けて追いかけてきていた。
「警告。立ち入り禁止区域です。直ちに停止しなさい」
無機質な合成音声。
俺はアクセルを限界まで踏み込む。
「うるせえ! ここはお前らの遊び場じゃねえんだよ!」
バギーを急旋回させ、未完成の坑道へと滑り込ませる。
岩盤が崩れ、入り口が塞がれた。
暗闇の中、バギーのヘッドライトだけが頼りだ。
坑道の奥へ進むにつれ、あの「歌」が強くなっていく。
頭が割れそうだ。
突き当たりに、巨大なエアロックがあった。
俺はバギーを降り、ハッキングツールを接続する。
『認証:完了』
重厚な扉が開く。
そこにあったのは、想像を絶する光景だった。
「……なんだよ、これ」
無限に続くかのような、ガラスの筒。
その一本一本の中に、液体に満たされた「人間」が浮いていた。
老人、子供、若者。
彼らは皆、管に繋がれ、ピクリとも動かない。
だが、モニターには数値が走っている。
『演算処理中……』
『記憶データ抽出中……』
ここは保管庫じゃない。
サーバーだ。
「ようこそ、月面最大の『クラウド』へ」
背後から声がした。
エリザだ。
崩れたはずの坑道からではなく、隠しエレベーターから降りてきたらしい。
「彼らはね、地球の富裕層よ。肉体を捨て、意識をデジタル化して永遠の命を得ようとした」
エリザは恍惚とした表情で、ガラス筒の一つを撫でた。
「でも、今のAI技術じゃ、人間の意識という膨大なデータを処理しきれない。サーバーが熱暴走を起こしてしまうの。だから……」
「だから、人間の脳を使ったのか」
俺は吐き捨てるように言った。
「そう。人間の脳こそが、最高のCPUであり、冷却システムなの。でも、適合する脳は少ない。だから、貧民街から『適合者』を買い漁った」
エリザが指差した先。
そこにある一本の筒。
中には、髪の長い少女が浮かんでいた。
「……ミナ」
妹だ。
死んだと聞かされていた妹が、ここにいる。
管だらけになって。
「彼女は優秀よ。このセクターの制御を一手に引き受けている。彼女の『歌』が、システムを安定させているの」
俺の中で、何かが切れる音がした。
それは、今まで聞いたどの構造崩壊音よりも大きく、鋭かった。
「ふざけるな……!」
「カイト、あなたも適合者よ。その共感覚脳は、素晴らしいプロセッサになる」
エリザが銃を向ける。
だが、俺は笑った。
「あんた、俺の特技を忘れたか?」
俺は右手のマニピュレーターを、床の配管に向けた。
そこは、この巨大な施設の「急所」。
冷却液の循環ポンプだ。
さっきから、悲鳴のような負荷音が聞こえていた場所。
「そこを撃てば、あなたも死ぬわよ!」
「知ってるよ。でも、静寂の値段を知らないあんたたちには、高すぎる授業料だ」
俺は引き金を引いた。
プラズマカッターが、配管を両断する。
噴き出す超低温の冷却液。
警報音が鳴り響く。
『警告。炉心溶融の危険性』
「ミナ、起きろ!」
俺は妹の入った筒を叩き割る。
液体と共に、妹の体が崩れ落ちてくる。
俺は彼女を抱きとめた。
微かに、心臓が動いている。
最終章 星を堕とす
爆発音が連鎖する。
施設全体が震え、崩壊が始まった。
富裕層たちの「永遠の命」が、ただのデータごみになって消えていく。
俺はミナを抱え、隠しエレベーターへと走った。
エリザは、噴き出した冷却液に足を凍らされ、悲鳴を上げている。
「待って! 助けて! 金なら出す! いくら欲しい!?」
「ツケにしといてくれ」
エレベーターの扉が閉まる。
上昇するゴンドラの中で、ミナが薄く目を開けた。
「……お兄、ちゃん?」
「ああ。迎えに来たぞ」
「……うるさい音が、消えた」
彼女はそう呟いて、また眠りに落ちた。
地上に出ると、そこは夜明けだった。
水平線から昇る地球が、太陽の光を受けて輝いている。
基地の方角からは、巨大な火柱が上がっていた。
あれで俺の借金も、雇い主も、すべて灰になったはずだ。
俺たちはバギーに乗り込んだ。
酸素残量は残り5パーセント。
救助信号は出した。拾ってくれるのが警察か、それとも別のハイエナかはわからない。
だが、ヘルメット越しに見る宇宙は、今までで一番静かだった。
「……いい景色だな」
俺は誰にともなく呟き、アクセルを踏んだ。
タイヤが巻き上げる月の砂が、まるでダイヤモンドダストのように、黒い空へ舞い上がっていった。