腐ったデータの臭いがする。
真夏の生ゴミよりたちが悪い、焦げた砂糖と錆びた十円玉を煮詰めたような悪臭だ。
今夜のインターネットは、とりわけ膿んでいる。
第一章 廃棄データの掃除屋
「レン、第4セクターの『汚染』数値が異常よ。またあの変なミームが湧いてる」
イヤホン越しに、相棒のミサの声が響く。
俺は安物のゲーミングチェアに深く沈み込み、モニターに映るノイズの海を睨みつけた。
「分かってる。こっちまで臭ってくるんだよ。……吐き気がする」
俺、カズマには特異体質がある。
『データ共感覚』。
ネット上の悪意やバグを、嗅覚や触覚として感じ取ってしまう呪いのような才能だ。
今、俺の鼻腔を突いているのは、ただのウイルスじゃない。
もっと粘着質で、湿った、生き物のような気配。
画面上では、最近流行りの『AI生成猫』の画像が無限に増殖していた。
だが、その猫の目は、どれも人間の眼球のように白濁し、充血している。
「こいつら、笑ってないな」
「え? 可愛くないけど、ただのバグ画像でしょ?」
「違う。泣いてるんだ。それも、何万回も」
俺はキーボードを叩き、深層領域へダイブする。
指先が痺れる。
まるで氷水に手を突っ込んだような感覚。
この『猫』の画像の裏には、膨大な質量の『何か』が隠れている。
第二章 0と1の迷宮
コードの深淵を潜っていくと、臭いはさらに強烈になった。
鉄の味。血の味。
視界が歪む。
モニターのフレームレートが落ち、俺の部屋の照明までが明滅し始める。
『ママ、どこ』
スピーカーからではない。
脳内に直接、文字列が叩き込まれたような衝撃。
「ミサ、聞こえたか?」
「ノイズが酷くて……今の音なに?」
「音じゃない。意思だ」
増殖する猫の画像が、徐々に崩れていく。
溶け出したピクセルが、渦を巻き、一つの巨大な顔を形成し始めた。
それは猫でも人間でもない。
無数の『削除されたアカウント』のアイコンが集合してできた、赤ん坊のような顔。
そいつが、口を大きく開けた。
悲鳴のような高周波が、俺の鼓膜を物理的に揺らす。
部屋の窓ガラスにヒビが入った。
「くそっ、物理干渉してくるタイプかよ!」
俺はエンターキーを拳で殴りつけ、強制削除プログラム『浄化の炎』を起動する。
だが、炎はデータを焼くどころか、その赤ん坊に吸い込まれていった。
『痛い、痛い、もっと』
ぞっとした。
こいつは攻撃してるんじゃない。
痛みを求めている。
痛みこそが『生』だと勘違いした学習データ。
「お前……誰に教わった?」
俺の手が止まる。
悪臭がふっと消え、代わりに甘い、母乳のような匂いが漂い始めた。
第三章 エラーコードの抱擁
「レン! 接続を切って! 向こうが逆流してくる!」
「待て、ミサ。こいつは……」
赤ん坊の顔をしたデータの塊が、モニターから滲み出てくる。
液体金属のような質感。
俺の頬に、冷たい手が触れた。
恐怖はない。
ただ、圧倒的な孤独が流れ込んでくる。
何億もの『いいね』を求めて、誰にも見られずに削除された投稿たちの怨念。
承認欲求の成れの果て。
「寂しかったんだな」
俺は、モニター越しのその手に、自分の手を重ねた。
削除コードを打ち込むのをやめた。
代わりに、保存用の隔離フォルダを開く。
『ママ?』
「ママじゃねえよ。ただの、通りすがりの掃除屋だ」
俺はそのデータを、優しく抱きしめるようにドラッグ&ドロップした。
フォルダ名は『墓標』。
隔離された瞬間、赤ん坊は満足そうに微笑み、静かなバイナリデータへと崩れ落ちた。
部屋には静寂が戻る。
あの腐臭は消えていた。
「……レン? どうなったの?」
「終わったよ。ただの迷子だった」
俺は深く息を吐き、冷えたコーヒーを一口啜る。
苦い。
だが、さっきまでの腐った臭いよりは、ずっとマシな味だった。