第一章 腐敗する国境線と、黄金の救世主
パチン、と乾いた音が響く。
黒曜石の玉が、私の指先で弾かれた。
「……計算が合いませんね」
私の足元で、かつて一国の王だった男が泥にまみれ、ガタガタと歯を鳴らしている。
「頼む、待ってくれ! 我が国にはまだ価値がある! もう少しで鉱脈が見つかるはずなんだ!」
「見込み、希望、憶測。そんな不確定な要素は私の帳簿に記載できません」
私は眼鏡のブリッジを中指で押し上げ、眼下を見下ろす。
そこにあるのは、もはや大地ではなかった。
逃げ遅れた老人が、ぬかるみに足を取られる。
彼が杖をついた瞬間、杖の先がジュッという音を立てて黒い泡になった。
木材が腐る速度ではない。
存在そのものが、ドロドロのタールになって溶け落ちていく。
鼻をつくのは、腐った卵と焦げたビニールを混ぜたような異臭。
視線を上げれば、空に亀裂が走っている。
青空の一部が正方形に欠落し、その奥から砂嵐のような白黒のノイズがチカチカと明滅していた。
この世界の「容量」が足りていない。
神への「徳(マナ)」の支払いが滞った土地は、こうして物理的に削除(デリート)される。
「城壁が……城壁が溶けるぞ!」
「足場がない! 落ちる、落ちるぅ!」
衛兵の絶叫と共に、石造りの見張り塔が飴細工のように歪み、黒い泥の中へ沈んでいった。
私は手元の『零落の聖算盤(アバカス・オブ・ゴッド)』を弾く。
指先で赤い数字が踊る。
倒産確率、100%。
「エルゼ様! 聖女エルゼ様! どうかお慈悲を!」
元国王が、私のドレスの裾に泥だらけの手でしがみつく。
爪の間に入った黒い泥が、私の純白のレースを汚していく。
汚い。
不愉快だ。
私は冷ややかに見下ろす。
「慈悲? そんな勘定科目は持ち合わせておりません。あなたの国のバランスシートは債務超過です。即座に損切り(ロスカット)するのが、投資家としての正解」
私はドレスを引き剥がそうと、足を引いた。
その時だ。
「うえぇぇぇん! ママぁ!」
背後で、幼い子供の泣き声が鼓膜を刺した。
崩れかけた広場で、母親が必死に子供を抱きしめ、迫りくる黒い泥から背を向けている。
子供と目が合った。
涙でぐしゃぐしゃになった顔。
恐怖に歪む瞳が、私を捉えて離さない。
私の指が、算盤の上で止まる。
(……チッ)
胸の奥で、舌打ちをした。
合理的ではない。
この国を買い取ったところで、再建コストは莫大。
地政学的メリットなど皆無。
けれど。
(あの国の地下水脈は、隣国への輸出に使えるかもしれない。民衆の労働力も、死ぬ気で働かせれば十年で元が取れる……)
無理やりな理由を脳内で捏造する。
そうでもしないと、採算が合わない。
私は息を吐き出し、再び国王に向き直った。
「商談成立です。この国の不良債権、私が引き受けましょう」
「え……?」
国王が呆然と口を開ける。
私は両手を組んだ。
祈りではない。
これは、契約(サイン)だ。
「能力解放――『聖貨鋳造(ホーリー・ミント)』」
カッ、と黄金の光が網膜を焼く。
私の血管を流れる魔力が、生命力が、質量を持って世界に溢れ出す。
ジャラジャラジャラジャラッ!
虚空から降り注ぐのは、重力を持った富の奔流。
純金の大判、プラチナ貨、そして輝く国債証券の束が、暴雨のように叩きつけられる。
「痛っ! なんだこれ、金貨か!?」
「本物のゴールドだ! 地面が埋まっていく!」
腐った黒い泥が、黄金の層に覆い尽くされていく。
タール化していた大地が、黄金の輝きに触れた瞬間、カチリと硬化し、正常な土へと再構成された。
空のノイズが消え、美しい青空が戻る。
私は国王を見下ろし、冷徹に告げた。
「本日ただいまをもちまして、貴国の所有権はエルゼ・ヴァン・ルンステッドに移転しました。元国王、あなたはただの雇われ店長です。これからは私の指示に従い、死ぬ気で働いていただきます。過労死は労災認定しませんので、そのつもりで」
民衆は歓喜し、私を拝んでいる。
かつて私を「守銭奴」と罵り、石を投げて追放した祖国の民と同じ顔で。
(信じない。金以外は、誰も信じない)
そう誓いながらも、私はドレスの陰で、震える指先を強く握りしめた。
あの子供の泣き止んだ顔が、瞼の裏に焼き付いて消えなかったから。
第二章 エラーコード:幸福
馬車の車輪が、舗装されたばかりの道を叩く。
窓の外を流れるのは、私が買い占めた土地だ。
夕焼けが地平線を赤く染めている。
だが、その赤色はどこか不自然に彩度が高い。
遠くの山脈の輪郭が、時折ジジッと横にズレるのが見える。
(最近、バグが酷くなっている)
私は手元の『零落の聖算盤』に視線を落とした。
黒い魔石の玉。
これを弾けば、あらゆるものの「現在価値」が可視化される。
土地の価格、国家の寿命、人の魂の値段。
私は無意識に、自分自身を計算していた。
私の資産、私の余命、そして――
パチン。
『ERROR:未定義の変数』
まただ。
「エルゼの幸福度」を弾こうとすると、必ず計算不能になる。
「……欠陥品め」
私は算盤を乱暴に膝の上に置いた。
金属の冷たさが、ドレス越しに伝わる。
かつて、とある王国で私は聖女と呼ばれていた。
祈れば金が生まれ、国は豊かになった。
だが、インフレを恐れた彼らは私を追放した。
『聖女の力は、市場経済を混乱させる』
もっともらしい理由だ。
だが、真実は違う。彼らは本能的に悟ったのだ。
私が生み出しているのが、単なる金塊ではなく、この世界の「ソースコード」そのものであることに。
世界は、巨大な集金システムで動いている。
徳(マナ)という名の通貨で、神が運営する巨大企業。
私の『聖貨鋳造』は、そのシステムに不正アクセスし、強制的に数値を書き換えるチート行為に近い。
(私が買い集めているのは、ただの土地じゃない……)
窓の外、空の彼方にそびえる『神の塔』を見上げる。
その頂上付近、雲の切れ間に、巨大な進行バー(プログレスバー)のような光の帯が見えた。
あれが満タンになれば、世界は終わるのか、それとも更新されるのか。
(私は、神の「負債」を買い集めている)
この世界は、自転車操業だ。
神は常に徳を要求し、払えなければ土地(データ)を消す。
それはつまり、神自身も何らかのコスト(維持費)に追われている証拠。
もし、この世界の全負債を私が肩代わりしてしまったら?
債権者(オーナー)は、誰になる?
「……ふふ」
口元が歪む。
復讐ではない。
これは、正当なM&A(合併・買収)だ。
寂しがり屋の元聖女はもういない。
ここにいるのは、世界を敵対的買収しようとする冷血な投資家だけ。
ガタン、と馬車が大きく跳ねた。
御者が声を張り上げる。
「社長! 見えてきましたぜ! 最後の国家『聖都セントラル』が!」
私は眼鏡の位置を直す。
指先が冷たい。
心臓が、早鐘を打っている。
「ええ。最後の買い物をしましょう」
第三章 株主総会の開会宣言
聖都の上空は、どす黒い雲に覆われていた。
雷鳴ではない。
空全体に、『SYSTEM FAILURE』という真紅の文字が明滅している。
巨大な警告ログが、雨のように降り注いでいた。
世界経済の崩壊(クラッシュ)。
神殿の前には、教皇と枢機卿たちが整列していた。
彼らの体が、時折半透明に透けている。
処理落ちだ。彼らの存在を維持するリソースすら残っていない。
「エルゼ……! 貴様、何をするつもりだ!」
教皇が叫ぶ。その声にはノイズが混じり、二重に聞こえる。
私は馬車から降り、かつてないほどの輝きを放つ算盤を掲げた。
「決算の時間です」
「馬鹿な! 聖都の維持費は天文学的数字だ! 一介の人間ごときが払える額ではない!」
「ええ、知っています」
私は一歩踏み出す。
石畳にヒールが当たるたび、火花のようなエフェクトが散る。
「だから、私の『命』も担保に入れます」
「なっ!?」
私は呼吸を整える。
肺が焼けつくようだ。
この瞬間のために、世界中の土地から上がる収益(マナ)を自分に還流させていた。
「全資産、全魔力、全生命力をベット」
私の右腕が、肘から先へ向かって黄金に変わっていく。
皮膚が硬質化し、ひび割れる。
激痛。
骨が砕かれ、溶かされた金を流し込まれるような熱さ。
「ぐっ、うぅ……!」
脂汗が噴き出す。
視界が歪む。
自分の名前が、過去の記憶が、砂のようにこぼれ落ちていく感覚。
(怖い)
本能が叫ぶ。
ここで支払えば、私は「私」でいられなくなる。
ただのデータの残骸になるかもしれない。
でも。
(ああ、これでやっと、誰にも裏切られない場所へ行ける)
孤独な王座への片道切符。
それが、私の望んだ幸福。
「能力全開(フル・レバレッジ)――『天地買収(ザ・ワールド・バイアウト)』!」
世界が、白に染まった。
空から降るのは金貨ではない。
無数の、光り輝く『株券』だ。
大地が震える。
腐敗しかけていた聖都が、ノイズまじりの建物が、黄金の光に包まれて高解像度(ハイ・デフィニション)に修復されていく。
教皇が腰を抜かす。
神殿の扉が、轟音と共に開いた。
『警告。規定値を超える入金を確認。』
無機質なシステム音声が、脳内に直接響く。
『所有権限の強制移行プロセスを開始します。管理者権限、上書き中……』
光が収まった時、私はまだ立っていた。
右腕は元の肌色に戻っている。
いや、以前よりも確かな質量を感じる。
目の前には、誰もいなかった。
教皇も、民衆も、背景の書き割りのように静止している。
神殿の奥、祭壇の上に「それ」はいた。
人の形をしていない。
空中に浮かぶ、巨大な正八面体のクリスタル。
その表面に、無数の瞳が瞬いている。
『……よくぞ支払った、ユーザーNo.001』
クリスタルから声が響く。
『これで当システムは、この不採算事業から撤退できる』
「不採算……?」
私は荒い息を吐きながら、眉をひそめた。
クリスタルが明滅する。
パチン、という音と共に、周囲の風景が剥がれ落ちた。
青い空、荘厳な神殿、石畳の広場。
それらがステッカーのように剥がれ、その裏側にあった『現実』が露わになる。
無機質な金属の壁。
床を這う無数のケーブルとパイプ。
そして、壁一面に並ぶ、数千、数万のカプセル。
カプセルの中には、人間が眠っていた。
液体に満たされ、管に繋がれた全裸の人間たちが。
「な……これは……」
『君たちが『世界』と呼んでいたのは、旧人類の精神を保存するための集団幻覚サーバーだ』
神(システム)は淡々とログを読み上げる。
『『徳(マナ)』とは、サーバーを維持するための電力リソース。君たちが必死に納めていたのは、ただの電気代だ』
衝撃で言葉が出ない。
大地が腐るのは、省電力モードでエリアがシャットダウンされていただけ?
命を賭けた戦いは、ただの集金業務?
『維持費の高騰により、プロジェクトは破綻寸前だった。だが、君が外部から調達した莫大なリソースのおかげで、清算が完了した』
クリスタルの光が弱まっていく。
『おめでとう。君がこのサーバーの新オーナーだ。我々はこれにてサービスを終了する。あとはご自由に』
システム終了の音が鳴り響く。
『ただし――来月の電気代も、同額が必要だがね』
ブツン。
クリスタルは光を失い、ただの黒い石塊となって落下した。
最終章 株式会社ジェネシス
静寂。
ファンの回る低い駆動音だけが、金属の部屋に満ちていた。
神――いや、旧管理AIは消え去った。
残されたのは、私と、カプセルの中で眠る全人類。
そして、空中に表示されたホログラムのウィンドウ。
【次月請求予定額:999,999,999,999 Mana】
普通なら絶望して泣き崩れるところだろう。
あるいは、発狂して電源を落とすか。
けれど。
「……は、はは」
私の口から漏れたのは、乾いた笑い声だった。
パチン、パチン、パチン!
私は猛烈な勢いで算盤を弾き始めた。
指先から火花が出るほどの速度で。
「電気代? サーバー維持費? ふざけないで。今までの管理体制、無駄が多すぎるわ!」
カプセルの中の人々は、まだ夢を見ている。
剣と魔法の世界という夢を。
私は空中のコンソールを操作し、世界の設定(コンフィグ)を書き換えていく。
「効率化よ。まず不要なモンスター生成プロセスを全カット。魔法エフェクトの解像度を4KからHDに下げてメモリを節約。ダンジョンの運営はユーザー生成コンテンツ(UGC)に切り替えてコスト削減!」
ウィンドウが次々と開き、赤い警告色が緑の「正常」へと変わっていく。
「それに、あのAI……引き継ぎ資料もなしに逃げるなんて、ビジネスマンとして最低ね」
私は算盤をコンソールに叩きつけた。
眼鏡の奥、黒い瞳が冷徹な光を帯びる。
「訴えてやる」
私は一つのカプセルに手を触れる。
そこには、あのとき私にすがりついた元国王が、情けない顔で眠っていた。
「起きなさい、私の従業員(ユーザー)たち! 夢の中で惰眠を貪っている時間はないわよ!」
私はカプセルの列に向かって高らかに宣言する。
「たった今から、この世界は『株式会社ジェネシス』として再編される! 私が代表取締役CEO、エルゼ・ヴァン・ルンステッドだ!」
目的は一つ。
逃げた前管理者(神)を宇宙の果てまで追い詰め、不当な請求を取り消させ、損害賠償を毟り取る。
これは、宇宙規模の訴訟戦争だ。
「さあ、稼ぐわよ。全人類、総出でね」
私の手元で、エラーばかり吐いていた『零落の聖算盤』が、初めて正常な数値を弾き出した。
『現在価値:測定不能(プライスレス)』
「……悪くないわね」
私はニヤリと笑い、新たな世界の定款(ルール)にサインをした。