第一章 英雄の解像度
腐った卵と、安っぽい香水の臭い。
都市の吐瀉物のような空気が、肺を焼く。
路地裏の闇。
俺、レオン・エヴァンスは、濡れたレンガ壁に背中を預け、呼吸を整えていた。
「……ッ、ぐ、う……」
心臓の鼓動が、肋骨を内側から殴りつけるハンマーのように響く。
ただ生きているだけで、身体がきしむ。
大通りの広場からは、地鳴りのような歓声が聞こえてきた。
『決まったァアアア! 聖騎士団長グレンの《聖竜断(ドラゴン・バスター)》だァ!!』
魔導スピーカーの絶叫。
爆発音。
熱狂する群衆。
くだらない。
すべては「演出(プロパティ)」だ。
グレンが斬っているのは魔物じゃない。
地下で薬漬けにされ、牙を抜かれた老いた竜だ。
派手な爆発も、サクラの悲鳴も、すべては奴らの《信仰値(エンゲージメント)》を稼ぐための茶番劇。
俺は胸元のペンダントを握りしめた。
濁った乳白色の石――《真実を刻む魔石(オフレコ・クリスタル)》。
かつて聖女と呼ばれた、母の遺骨だ。
指先から、記憶が流れ込んでくる。
日向の匂い。
煮込みスープの湯気。
「レオン、あなたは自由に生きなさい」と囁いた、温かい手の感触。
その温もりが、クリスタルを使うたびに削れていく。
俺は母の魂を消費して、復讐の炎を焚べている。
吐き気がした。
だが、止まるわけにはいかない。
「……始めるぞ、母さん」
右手を虚空にかざす。
『固有能力、展開』
視界がノイズにまみれ、網膜に真紅の文字列が走る。
【配信準備完了(スタンバイ)】
【HP:1/1】
【防御力:0】
「……《真実の鏡界(ライブ・ストリーミング)》、開始」
世界が反転した。
その瞬間、俺の肉体から「強さ」という概念が剥奪される。
皮膚は濡れた半紙のように脆くなり、筋肉は腐ったゴム紐になる。
路地裏を吹き抜ける微風が、カミソリのように俺の頬を裂いた。
「つ、ぁ……!」
痛い。
服が擦れるだけで、やすりをかけられているようだ。
呼吸をするたび、大気中の塵が肺胞を突き刺す。
これが代償。
全世界の鏡と、眠る人々の夢に強制接続(ハッキング)し、真実を垂れ流す対価。
俺は、世界で最も脆弱な存在へと成り下がった。
俺は路地裏を蹴った。
足の裏の皮がめくれ、石畳に血の足跡がつく。
「なっ!? なんだ貴様は!」
広場の中心。
剣を掲げてポーズを取っていた金髪の騎士、グレンが振り返る。
その瞬間、全世界の鏡に「真実(生データ)」が映し出された。
CGのような魔法のエフェクトが剥がれ落ちる。
グレンの足元で、鎖に繋がれたまま失禁している老竜の姿が露わになる。
『え? なにこれ』
『グレン様の剣、刃引いてない?』
『ドラゴン、怯えてるじゃん』
『なんか可哀想……』
視界の端に、視聴者からのコメント(思念波)が滝のように流れ落ちる。
「き、貴様……! 追放された『盾』か! 配信を切れ!」
グレンが顔を歪め、俺に殺気を向けた。
ヒュッ。
その殺気だけで、俺の腕の皮膚が裂け、血が噴き出す。
痛い痛い痛い痛い。
だが、俺はカメラ(右目)を見開いたまま、血反吐を吐いて笑った。
「見ろよ、グレン。お前の《信仰値(数字)》を」
俺が指差した先。
グレンの頭上に浮かんでいた黄金のオーラが、急速にドブ色へ変わっていく。
『うわ、幻滅』
『やらせ確定』
『聖騎士団、終わってんな』
「あ、あ……力が……俺のスポンサー契約が!」
「民衆はお前を見てない。お前の『数字』を見てただけだ」
俺は一歩踏み出す。
小石を踏み抜き、激痛が脳髄を焼く。
「さあ、笑えよ英雄。カメラは回ってるぞ」
グレンはその場にへたり込み、剣を取り落とした。
その無様な姿が、全世界に拡散されていく。
俺は血まみれの顔で、画面の向こうの「お前たち」に向かって、ニヤリと笑ってみせた。
第二章 ログ・ホライズン
配信を切った瞬間、俺は汚泥の中に崩れ落ちた。
「が、はっ……ごほッ!」
内臓が位置ズレを起こしたような不快感。
全身の毛細血管が悲鳴を上げている。
逃げなければ。
すぐに教会の始末屋(モデレーター)が来る。
俺は這うようにしてマンホールの蓋をずらし、地下水道へと滑り込んだ。
腐敗臭と湿気。
ネズミの這い回る音。
ここが俺のスタジオだ。
安全な場所まで辿り着くと、俺は泥だらけの壁に背中を預けた。
震える手で、空中にウィンドウを展開する。
さっきの配信のアーカイブ。
そして、そこに寄せられたコメントの山。
『ざまあwww』
『レオン死ねよ、裏切り者が』
『お前もどうせ注目浴びたいだけだろ』
『でもドラゴンは救われたな』
罵詈雑言。殺害予告。
数万の悪意の中に、わずかな称賛が混じる。
そのすべてが、俺の精神を削り取っていく。
「……ッ」
不意に、視界の端でエラーログが点滅した。
【警告:世界構造(ワールド・データ)に不整合を検知】
【対象:魔王】
俺は痛む頭を押さえ、能力の深度を上げた。
《真実の鏡界》は、単に映像を届けるだけじゃない。
この世界の「ソースコード」を覗き見る力だ。
俺は、教会のサーバー奥深く、最重要機密領域(ルート・ディレクトリ)へと意識を潜らせた。
ノイズが走る。
脳が焼き切れそうだ。
だが、見えた。
『魔王討伐記録:該当データなし』
『魔王出現記録:該当データなし』
『魔王城:レンダリング用ホログラム投影装置』
「……は?」
乾いた笑いが漏れる。
魔王なんて、最初からいなかった。
ここ百年の戦いは、すべてマッチポンプ。
教会がホログラムを作り、勇者が倒すふりをする。
その興奮が信仰値(エネルギー)となり、都市のインフラを回していたのだ。
じゃあ、母さんは?
「魔王の呪いを鎮めるための生贄」として連れ去られた母さんは?
俺は震える指で、検索クエリを打ち込む。
『検索対象:聖女マリア・エヴァンス』
ヒットした。
だが、そのファイル名は、俺の想像を絶するものだった。
『廃棄ログ:シーズン45_最終回イベント用素材』
『ステータス:消費済み』
「素材……?」
脳裏に、母の笑顔がフラッシュバックする。
あの温もりが。
あの匂いが。
あの優しさが。
奴らにとっては、番組を盛り上げるための「小道具」だったというのか。
視聴率を稼ぐための、ただの消耗品。
「ふざけるな……ふざけるなッ!!」
俺の絶叫が、地下水道に反響する。
涙で視界が歪む。
だが、その涙さえも、今の俺には致死毒だ。
脱水症状で意識が遠のく。
その時、ログの深層から、もう一つのデータが浮かび上がった。
『統括プロデューサー:教皇』
『現在地:上空3000メートル_浮遊要塞(スタジオ)』
俺は顔を上げた。
血の涙を拭う。
「……泣いてる場合じゃねえ」
母さんの骨が、胸元で熱く脈打った。
まだ残っている。
最後の賭けに出る分くらいの命(リソース)は。
俺は虚空を睨みつけた。
「シナリオは書き換えさせてもらうぞ。三流作家ども」
第三章 コンテンツの奴隷たち
魔王城は、空に浮いていた。
いや、それは「城」ではない。
巨大な放送機材と、魔力サーバーの塊だ。
俺は《存在希釈(ステルス)》のコードを書き換え、警備の目を欺いて最奥の「玉座の間」へ侵入した。
重厚な扉を開ける。
そこには、無数のモニターに囲まれた一人の男がいた。
豪奢な法衣を纏っているが、その背中は丸まり、酷く老け込んで見える。
教皇だ。
「……来たか、レオン・エヴァンス」
教皇は振り返りもせず、モニターを見つめたまま言った。
画面には、俺の告発によって暴動寸前になっている民衆の姿が映っている。
「素晴らしい数字だ。君のおかげで、今期の信仰値(アクティブ・ユーザー)は過去最高を記録している」
声に覇気がない。
まるで、納期に追われる疲弊した現場監督のような口調だ。
「これが世界の正体か。魔王も、勇者も、全部嘘で塗り固めた」
「『嘘』ではない。『夢』だ」
教皇がゆっくりと椅子を回し、こちらを向いた。
その目は、死んだ魚のように濁っている。
「民衆は退屈を憎む。平和など三日で飽きる。彼らが求めているのは、ドラマだ。悲劇だ。そして、それを打ち砕くカタルシスだ!」
教皇が立ち上がる。
その瞬間、部屋中の重力が歪んだ。
ドォッ!!
「ぐ、ぅ……!?」
俺はその場に膝をついた。
攻撃魔法ですらない。
教皇が纏う膨大な魔力の「余波」。
それだけで、俺の鼓膜が破れ、肋骨にヒビが入る。
防御力ゼロ。
心臓の音が、破滅のカウントダウンのように響く。
「君の母親も、素晴らしい役者だったよ。彼女の死に様は、全土を涙の海に沈めた。そのエネルギーで、この国は十年栄えたのだ」
「黙れ……」
「君も同じだ。ここで私という『悪』を倒し、新たな英雄になる。それが君に用意された台本(スクリプト)だ」
教皇が指を鳴らす。
背後の巨大モニターに、ホログラムの魔王――いや、禍々しい「ラスボス形態の教皇」のアバターが表示された。
「さあ、カメラは回っているぞ! 演じろ、レオン!」
殺気が物理的な質量を持って俺を叩く。
皮膚が裂け、血飛沫が舞う。
俺は、意識を失いかける頭を振った。
(母さん……力を貸してくれ)
胸元のクリスタルを噛み砕く。
ジャリッという音と共に、母の最後の欠片が体内へ溶けていく。
温かいスープの味がした。
そして、焼け付くような悲しみが全身を駆け巡る。
「……《真実の鏡界》、フルアクセスッ!!」
カッ!!!
視界が拡張する。
鏡だけじゃない。
水たまり、ガラス窓、そして世界中の人々の「網膜」そのものに、俺の視界を強制同期させる。
『うわっ、なんだ!?』
『目の前に映像が……!』
『これ、教皇の間?』
俺は叫ぶ。
血反吐を撒き散らしながら。
「見ろよお前ら! これがラスボス戦だ!」
俺はよろめきながら、教皇へと歩み寄る。
教皇が放つ重力波が、俺の肉体をミキサーのようにかき回す。
指の骨が折れ、筋肉が断裂する音が、マイクを通して全世界に響く。
「このジジイを見ろ! 世界征服を企む魔王? 違うね!」
俺の右目(カメラ)が、教皇の顔面をクローズアップする。
その瞳にあるのは、狂気ではない。
ただの「疲労」と「諦観」だ。
「こいつはただの、お前らの『退屈』に怯える下請け業者だ!」
「や、やめろ……! イメージが崩れる!」
教皇が顔を覆う。
だが、もう遅い。
「お前らが『もっと面白いものを見せろ』って強請るから! こいつは嘘をつき続けた! 母さんを殺し! ドラゴンを虐待し! 世界を地獄に変えた!」
俺は教皇の胸ぐらを掴んだ。
俺の手の肉が崩れ落ち、骨が見えている。
「こいつを作ったのは……画面の向こうで鼻ほじりながら見てる、お前らだッ!!」
『……は? 俺らのせい?』
『なんか冷めたわ』
『教皇弱すぎ』
『チャンネル変えよ』
コメント欄に流れる、無慈悲な反応。
怒りですらない。
ただの「飽き」。
その瞬間、教皇の身体から光が消えた。
信仰値の供給停止(アカウント凍結)。
彼を支えていた膨大な魔力が霧散し、ただの老衰した老人がそこに残った。
「あ、あぁ……数字が……私の世界が……」
教皇は灰のように崩れ落ち、風にさらわれて消えた。
勝った。
俺は勝ったのか?
静寂が訪れる。
だが、視界の隅には、まだコメントが流れている。
『で、次は?』
『レオンが新しい王様?』
『魔法使えなくなると困るんだけど』
『早くなんとかしてよ』
寒気がした。
吐き気が止まらない。
こいつらは、何も変わっていない。
新しいオモチャを求めているだけだ。
俺は、血まみれの顔で、何もない空間を見つめた。
第四章 サーバー・ダウン
玉座の裏手。
そこに、世界の魔力供給を管理するマスターコンソールがあった。
中央には、禍々しい赤色のレバー。
『システム・シャットダウン』。
全魔力供給の停止。
これを引けば、世界中の魔法文明は崩壊する。
俺はそのレバーに手をかけた。
『おい、やめろ』
『生活どうすんだよ』
『ふざけんな! 恩知らず!』
『殺してやる!』
コメントの流れが加速する。
さっきまで俺を応援していた連中が、一瞬で敵に回る。
その膨大な悪意が、皮肉にも俺の瀕死の心臓を動かしていた。
俺はカメラ(視界)越しに、世界中の人々を見つめた。
「なあ、聞こえるか」
俺の声は、震えていた。
痛みからじゃない。
とてつもない虚無感からだ。
「お前らは、綺麗な嘘の中で生きたいか? それとも、泥だらけの現実を生きるか?」
『嘘でいい! 夢を見せろ!』
『現実なんて見たくない!』
『責任取れよ!』
圧倒的多数が、現状維持を望んでいる。
知っていたさ。
人間なんて、そんなもんだ。
俺は画面の向こう――そう、今これを読んでいる、安全圏から高みの見物をしている「あなた」と目を合わせた。
「いい加減、目を覚ませ。画面の向こうにいるのは、キャラクターじゃない。痛みを感じる、生身の人間なんだよ」
俺の指が、レバーにかかる。
防御力ゼロの指先が、レバーの冷たさに触れただけで凍傷のように焼ける。
『引くなあああああ!』
『やめろォオオオオオ!』
罵声が世界を埋め尽くす。
それでも、俺は笑った。
英雄としてではなく。
一人の、ただの人間として。
「じゃあな。チャンネル登録は、しなくていいぜ」
俺はレバーを引き下ろした。
ブツン。
世界から、音が消えた。
輝かしい魔法の光が、空飛ぶ城の浮力が、勇者の剣の輝きが、すべて機能を停止する。
足場が崩れ、俺の身体は重力に従って虚空へと投げ出された。
風が気持ちいい。
不思議と、痛みはもう感じなかった。
母さんのスープの匂いが、微かに鼻腔をくすぐった気がした。
視界(はいしん)が暗転していく中で、俺は最後に見た。
魔法の光が消え、夜の闇に包まれた地上。
そこで、スマホや鏡がただの「板」に戻り、自分自身の顔が映り込んでいるのを呆然と見つめる人々の姿を。
ざまあみろ。
これからは、自分の足で歩くんだな。
俺の意識は、静寂の中に溶けていった。