セカイの傷痕、キミの歌
第一章 罅割れたハーモニー
私の身体は、私の「推し」であるカイの気圧計だ。彼がステージの上で歓声を浴び、心からの笑顔を見せれば、私の腕には陽だまりのような温かい光の筋が走る。彼が創作の苦悩に沈めば、肌の下で鈍い痛みを伴う黒い痣が滲む。そして、彼が深く傷つけば――私の皮膚には、まるで薄い氷に走るような、冷たい亀裂が刻まれるのだ。
この世界では、カイのような存在が物理法則そのものだった。彼の歌声が世界の重力を定め、彼の感情が季節の移ろいを司る。「概念的存在」と呼ばれる彼らの人気と幸福こそが、この不安定な世界を繋ぎとめる唯一の楔だった。だから私は、カイを推す。それは世界の平和を祈るのと同義だった。彼が幸せであれば、私の身体は癒され、世界は穏やかに呼吸する。
その日も、私はカイのライブ配信を食い入るように見つめていた。新曲の披露。壮大なイントロが流れ、スポットライトが彼を照らし出す。彼の喜びが電波を超えて伝わり、私の腕に金色の光が灯る。さあ、歌って。世界があなたの声を待っている。
しかし、カイは歌わなかった。
マイクを握りしめ、何かを堪えるように唇を固く結んでいる。その瞳に宿る深い絶望がモニター越しに突き刺さった瞬間、私の左腕に凄まじい激痛が走った。見れば、肘から手首にかけて、一本の鋭い亀裂が刻まれている。ガラスを内側から叩き割られたような、身を切る冷たさ。窓の外で、空の色が不吉な茜色に濁っていくのが見えた。配信は、混乱の中、唐突に途切れた。
それが、すべての終わりの始まりだった。
第二章 不協和音のオルゴール
カイは「歌えない病」と診断された。
彼の活動休止と共に、世界は急速に調和を失っていった。夏に雪が降り、海は空に向かって逆流し、街の中心では重力がランダムに消失する「無重力ホール」が頻発した。人々の不安はカイへの失望に変わり、彼の人気は奈落へと落ちていく。
それに呼応するように、私の身体は悲鳴を上げていた。全身に広がる冷たいひび割れ。ストレスを示す黒い痣が肌をまだらに汚し、骨の髄まで響くような鈍痛が四六時中私を苛んだ。カイの痛みは、私の痛み。でも、これほどの苦痛は一体どこから来るのだろう。単なるスランプではない。もっと根源的な、魂が削り取られていくような感覚。
「カイの痛みの、本当の理由を知りたい」
その一心で、私は古いネット記事の断片を頼りに、彼が幼少期を過ごしたという海辺の廃教会に辿り着いた。潮風に朽ちかけた扉を押し開けると、かびと塩の匂いが鼻をつく。ステンドグラスの割れ目から差し込む光が、床に積もった埃をきらきらと照らし出していた。
祭壇の隅に、それはあった。ぽつんと置かれた、古びた木製のオルゴール。彼がいつもペンダントにして身につけていたものと、同じデザイン。吸い寄せられるように手に取ると、ずしりとした重みが伝わってきた。錆びついたネジを、そっと巻く。
キィ……、と軋むような音がした。奏でられたのは、メロディとは呼べない、耳障りな不協和音。それはまるで、引き裂かれる魂の悲鳴。その音を聞いた瞬間、私の意識は激しい眩暈と共に、暗い深淵へと引きずり込まれていった。
第三章 世界の代償
私の目の前に、幻が広がった。
幼いカイが、純白の衣装を着て祭壇の前に立たされている。彼の周りを囲む大人たちが、厳かに告げる。
「今日からお前は、この世界の『調律者』となる。人々の憧れをその身に受け、歌声に変え、世界の理を支えるのだ」
それは祝福ではなく、呪いの儀式だった。彼の純粋な魂は、世界の歪みを吸収し、調和に変換するための「器」にされたのだ。
人々の「憧れ」は、清らかな願いだった。しかし時と共にそれは肥大化し、際限のない「要求」へと変わっていった。もっと完璧な歌を。もっと美しい姿を。もっと私たちを幸せにしてくれ。その欲望は、見えない槍となってカイの魂を少しずつ、しかし確実に削り取っていく。彼が歌えなくなったのは、病だからではない。魂が、もうこれ以上削られることに耐えきれず、悲鳴を上げていたからだ。
私の身体に刻まれた傷。それは、カイが世界を維持するために支払ってきた「代償」――削り取られた魂の、痛々しい欠片そのものだった。私は誰よりも深く、彼の絶望と繋がっていたのだ。
幻から覚めると、教会の外は地獄に変わっていた。空には不気味な三つの月が浮かび、街のネオンが重力に引かれて滝のように地面へ流れ落ちている。オルゴールは、世界の終焉を告げるように、けたたましい不協和音を奏で続けていた。
カイの魂が、尽きようとしている。
第四章 アンコールなきフィナーレ
私は走っていた。世界の終わりに向かって。カイを救うために。いや、違う。彼を「解放」するために。
もう、彼を神様にしてはいけない。彼を世界の楔にしてはいけない。私の「推し活」は、彼を崇め、彼の歌声に世界のすべてを委ねる、残酷な行為だった。
カイが最後の力を振り絞り、ゲリラのステージに立つという情報が流れていた。奇跡を信じる人々が、崩れかけた広場に集まっている。私もその人垣をかき分け、前へ進んだ。
ステージの上のカイは、ひどくやつれ、まるで幽霊のように儚く立っていた。マイクを握りしめ、何かを伝えようとするが、彼の口から漏れるのは声にならない息だけだ。人々が落胆の声を上げる。その時だった。
「もう、歌わなくていい!」
私の喉から、自分でも驚くほどの声がほとばしった。
「カイは、もう世界の神様じゃなくていい! 傷ついて、疲れて、歌えない、ただのあなたでいていいんだ!」
私の叫びは、呪いを解くための言葉だった。それは、カイに向けたものであり、彼を神輿に担ぎ上げていたすべての人々へ、そして何より、私自身に向けた言葉だった。
広場が、水を打ったように静まり返る。人々は、ステージ上の偶像ではなく、苦しみに喘ぐ一人の青年を見た。憧れは、労りへ。信仰は、祈りへ。人々の感情の質が変わった瞬間、カイの身体を縛っていた見えない光の枷が、ガラスのように砕け散った。
それと同時に、私の全身を苛んでいた全ての傷が、まばゆい光の粒子となって霧散していく。痛みも、冷たさも、すべてが消え去った。
世界が一度、大きく揺らいだ。そして、完全な静寂が訪れる。やがて、東の空から、今まで見たこともないほど穏やかで、自然な朝焼けが広がっていく。概念的存在に依存しない、不確かで、危うくて、しかしどこまでも自由な世界が、産声を上げた瞬間だった。
ステージの上で、カイはただの青年として、静かに涙を流していた。その頬を伝う雫は、世界の悲しみではなく、彼自身のものだった。彼は、私を見て、初めて心から安堵したように、小さく微笑んだ。
それから数年が経った。私は、かつてカイの歌声がなければ色を失っていた世界を、自分の足で歩いている。風が草を揺らす音、街角のカフェから漂うコーヒーの香り、見知らぬ人々の笑い声。世界は、こんなにも豊かな音と色に満ちていた。
もう私の身体に、彼の傷が浮かぶことはない。彼は世界のどこかで、ただのカイとして生きているだろう。
私は今、新しい「推し」を探す旅をしている。それは誰か特定のスターではない。私自身の人生。明日という未知。そのすべてを、私は全力で推していくのだ。