アニマ・ヒストリカ
第一章 錆びつく肺
古書店の静寂は、埃とインクの匂いで満ちていた。廻(カイ)は、指先で羊皮紙の地図をそっとなぞる。客の残したその地図は、百年前のこの街を描いたものだという。指が乾いたインクの線に触れた瞬間、予兆もなくそれは来た。
「……ッ、ぐ…!」
息ができない。喉の奥から込み上げるのは、錆びた鉄の味。彼の肺が、まるで古びた鉄格子のように軋み、内側から赤錆の粉を撒き散らすような激痛に襲われた。視界が明滅し、古書店の棚は陽気なパレードの喧騒に変わる。紙吹雪、歓声、そして真新しい開拓者たちの誇らしげな笑顔。それは昨日までこの街の誰もが知っていた「建都百周年記念パレード」の光景だった。
だが、次の瞬間、歓声は悲鳴に、紙吹雪は舞い上がる黒煙に変わる。肺を焼くのは祝祭の熱気ではない。強制労働の果てに倒れた者たちを焼却する、無慈悲な炉の煙だ。パレードなど、どこにもなかった。あったのは、声なき者たちの骸の上に築かれた、偽りの礎だけ。
「はっ……はぁ……っ」
咳き込むと、掌に血の気配が混じる。カイの『年代臓器』は、またしても歴史の書き換えを体感していた。この世界では、歴史は固定されたものではない。人々の集合的な記憶や新たな解釈によって、まるで川の流れのように絶えずその姿を変える。図書館の書物は一夜にして記述を変え、昨日まで英雄だった男が、今日には暴君として断罪される。人々はそれを当然のこととして受け入れ、昨日の記憶との齟齬にすら気づかない。だが、カイの臓器だけが、消え去ったはずの過去の残響を、物理的な痛みとして記憶してしまうのだ。
最近、その流れは異常だった。まるで堰を切った濁流のように、社会の根幹を成すはずの歴史的アンカーが、次々と溶解し始めている。カイの内臓は、その崩壊のたびに引き裂かれ、蝕まれていた。
店のドアベルが、ちりん、と乾いた音を立てた。現れたのは、歴史保存局の記録官である燈子(トウコ)だった。彼女の持つ硬質な革鞄だけが、この埃っぽい空間で場違いに新しい。
「廻さん。また、来たのね」
彼女の声には、心配と焦燥が滲んでいた。
「今度は……『建都パレード』が消えた」
カイは荒い息のまま答える。
「記録は今朝、更新されたわ。『大粛清と強制労働の百年史』に。誰も、パレードのことなんて覚えていない」
燈子は淡々と告げたが、その瞳はカイの苦悶から逸らされなかった。彼女は、この世界の法則に疑問を抱く数少ない人間だった。
「この加速は異常よ。まるで、誰かが意図的に、私たちの足元を崩そうとしているみたい」
そう言って、彼女は鞄から黒曜石で作られた古びた羅針盤を取り出した。『心刻の羅針盤』。年代臓器を持つ者の内臓と共鳴し、歴史が書き換わった先の『新たな真実』の在り処を指し示すという遺物だ。
「これを持って。何が起きているのか、突き止めなければ。あなたのその体が、壊れてしまう前に」
カイは震える手でそれを受け取った。ひんやりとした石の感触が、焼けるような肺の痛みをわずかに和らげてくれる気がした。
第二章 虚構の心臓
羅針盤の震える針が指し示したのは、街の中央広場だった。そこには、この国を建国したとされる英雄アルトリウスの巨大な石像が、天を衝くように聳え立っている。揺るぎない建国の父。彼の物語こそが、この国の最も強固な歴史的アンカーのはずだった。
広場は人でごった返していた。人々は英雄の像を見上げ、その偉業を口々に語っている。彼らの記憶の中では、アルトリウスは常に正しく、偉大だった。
「本当に、ここなのか?」
カイは訝しげに呟く。
「羅針盤は嘘をつかない。でも、この歴史は……あまりに強固すぎるわ」
燈子もまた、眉をひそめていた。
カイは意を決して、ざらついた石像の台座にそっと手を触れた。
瞬間、心臓が鷲掴みにされる。脈拍が止まり、血が逆流するような圧迫感。彼の心臓が、まるで千年の古木の根のように、ごつごつと絡み合い、硬化していくのが分かった。アルトリウスの生涯が、怒涛の如く流れ込んでくる。荒野を開拓し、民を導き、悪しき竜を討ち果たしたという、誰もが知る英雄譚。それは壮麗で、感動的で、そしてあまりにも完璧すぎた。
その時だった。カイの手の中にある羅針盤が、カタカタと激しく震え、その白銀の針が、じわりと血を流すように赤く染まっていくのを、彼は見た。
「燈子……これだ。これは、嘘だ」
「嘘? でも、私の記録も、人々の記憶も、何一つ変わっては……」
「臓器が、羅針盤が叫んでる。この英雄譚は、巨大な虚構だ、と」
カイの心臓は石のように重く、脈打つことさえ忘れたかのようだ。彼は理解した。歴史の溶解は、些細な出来事からではない。人々が疑いもしない、この国の根幹を成す巨大な虚構から、その崩壊は始まっているのだ。誰かが、この国そのものを消し去ろうとしているのだろうか。カイの背筋を、冷たい悪意の気配が走り抜けた。
第三章 崩壊の交差点
羅針盤の針は、英雄像そのものではなく、その足元、地下へと続く古びたマンホールを指し示していた。歴史保存局の権限を使い、燈子が錆びついた蓋を開ける。黴と湿気の匂いが、ぬるりとした空気と共に地上へ這い出してきた。
二人は暗く長い階段を下りていく。そこは、忘れ去られた地下水道網だった。壁を伝う水の滴る音だけが、不気味に響いている。羅針盤の針は、もはや赤く染まったまま、狂ったように震えていた。
「この先に、何かが……」
最深部。行き止まりの壁の前で、羅針盤の震えは頂点に達した。カイはごくりと唾を飲み込み、濡れて苔むした冷たい石壁に、両手を押し当てる。
次の瞬間、彼の世界は崩壊した。
肺が錆びつき、心臓が石化し、肝臓が灼け爛れ、胃の腑が凍てつく。全ての年代臓器が、一斉に悲鳴を上げた。それは単なる歴史の書き換えではない。無数の歴史が、無数の記憶が、彼の内側で衝突し、混ざり合い、お互いを喰らい合っているのだ。
カイの意識は肉体を離れ、時間の奔流へと投げ込まれた。彼は見た。歴史を改ざんする、特定の邪悪な存在などどこにもいなかった。そこにいたのは、無数の、名もなき人々の意識だった。
英雄アルトリウスに土地を奪われ、歴史から抹消された先住民たちの怨嗟の声。
彼の偉業の裏で、使い捨てにされた兵士たちの無念の叫び。
後世に生きる者たちが、その罪を知り、歴史の過ちを正そうとする懺悔の祈り。
偽りの栄光ではなく、痛みを伴う真実を知りたいと願う、純粋な探求の光。
それら全てが、巨大な一つの集合意識となり、自らの手で「英雄アルトリウス」という心地よく、しかし欺瞞に満ちた歴史的アンカーを破壊しようとしていた。人類は、無意識のうちに選択していたのだ。美化された嘘を捨て、不都合で残酷な真実へと、自らの歴史を再編することを。
カイを苛む激痛は、悪意による破壊ではなかった。
それは、偽りの皮膚を剥ぎ取り、新たな真実を産み出すための、人類全体の「陣痛」だったのだ。
第四章 心刻の夜明け
意識が戻った時、カイは燈子の腕に抱えられていた。地下道の冷たい床の上で、彼は夜明け前の空のように、静かに息をしていた。内臓の痛みは、嵐が過ぎ去った後のように凪いでいたが、その奥深くには、今までとは質の違う、重く神聖な疼きが残っていた。
地上に戻ると、広場の光景は一変していた。英雄アルトリウスの精悍な顔立ちは溶け崩れ、苦悶に満ちた無数の顔、顔、顔が重なり合った、名もなき人々の集合体のような彫刻へとその姿を変えつつあった。広場の人々は、その変化に気づく様子もなく、彫像を見上げては「我らが祖先の苦難の象徴だ」と、昨日とは全く違う言葉を口にしている。
図書館の書物も、今頃は「建国神話」から「侵略と抵抗の千年史」へと書き換わっているだろう。
カイは、手の中の羅針盤に目を落とした。血のように赤かった針は、元の白銀色に戻っていた。だが、もはや一つの方向を指すことはない。細かく震えながら、まるで円を描くように、全ての方向を同時に指し示している。真実とは、決して一つではないのだと、そう告げているかのようだった。
「僕の役目は、歴史を守ることじゃなかったんだ」
カイは、昇り始めた朝日に向かって呟いた。
「……どういうこと?」
隣に立つ燈子が、静かに問う。
「僕らは、過去の番人じゃない。これから生まれてくる、新しい真実の痛みを、誰よりも先に受け止める……産婆のようなものだったんだ」
彼の表情から、怯えは消えていた。そこにあるのは、自らの宿命を受け入れた者の、静かで揺るぎない覚悟だった。彼の年代臓器は、人類が過去の虚構と決別し、真の歴史へと向かう進化の痛みを、これからも体感し続けるだろう。それは決して終わることのない、苦しく、しかし尊い役目だった。
カイは、深く息を吸い込んだ。朝の光が、新しく生まれ変わった街を照らし出す。その光は、彼の内側で静かに疼く、無数の歴史の種子を温めているようだった。守るべき過去はない。ただ、迎えるべき未来があるだけだ。彼の臓腑は、人類の新たな夜明けと共に、静かに、そして力強く脈打ち始めた。