第一章 灰色の残響
指の腹が羊皮紙のざらつきを捉えた、その刹那だった。
世界が裏返る。
地下書庫のカビ臭い静寂が、鼓膜を劈くような轟音にかき消される。
鼻孔を突くのは、古い紙の匂いではない。焼け焦げた肉と、煮えたぎる鉄の臭気だ。
「……書け! 喉を焼かれても、指を折られても……!」
男の声。
肺から血を吐き出すような、怨嗟と祈りが入り混じった咆哮。
視界が赤い。
燃えている。石造りの塔が崩れ落ち、熱波が頬を焼く。
私の目の前には、インク壺へ伸ばされた手が映る。
爪は剥がれ、関節はありえない方向に曲がっていた。それでも、その手は羽根ペンを握りしめ、何かを刻みつけようとしている。
――遺さなければ。
――俺たちが殺した「神」の正体を。
激痛が走った。
私の指ではない。記憶の中の指が、熱で炭化していく痛みだ。
胃袋を雑巾のように絞り上げられる感覚。
「がッ……は、ぁ……!」
私は弾かれたように手を離し、冷たい石床に崩れ落ちた。
現実の空気が肺に戻ってくる。
だが、口の中にはまだ、錆びたコインを舐めたような血の味が残っていた。
「アリア!」
慌ただしい足音が近づいてくる。
老司書のベルンだ。彼の革靴の音が、私の乱れた心拍と不協和音を奏でる。
「……大丈夫よ。少し、酔っただけ」
私は床に手をつき、荒い息を整える。
視界の端にノイズが走る。
現実の解像度が落ちている。まるで、接触不良のモニターのように。
「顔色が蝋人形のようだぞ。また『潜った』のか」
ベルンがハンカチを差し出す。
私は震える手で眼鏡の位置を直し、首を横に振った。
「ええ。ひどい感触だったわ。熱と、痛みと……悔恨の味」
「やめておけと言ったはずだ。その『エララの書』は呪物に近い」
彼は作業台に広げられた、泥にまみれたような巻物を指差す。
一見すれば、ただの汚損した古文書だ。
だが、私には見える。
文字の隙間から立ち上る、どす黒い情念の煙が。
「呪いじゃないわ。叫びよ」
私はふらつく足で立ち上がり、作業台の縁を強く掴んだ。
この世界は、あまりにも薄っぺらい。
平和で、清潔で、退屈な現代。
それに比べて、この書物に焼き付いた死者たちの感情は、なんと鮮烈で、重いのだろう。
「見て、ベルン。この空白を」
私は羊皮紙の中央、不自然に白くなっている箇所を指し示した。
インクが剥落したのではない。
そこだけ、紙の繊維ごと「時間」が削り取られている。
「ただの欠損だろう」
「いいえ。触れてみて。ここだけ温度が違う」
ベルンは怪訝そうに眉を寄せ、恐る恐る指を伸ばした。
触れた瞬間、彼はビクリと肩を震わせる。
「……冷たい?」
「絶対零度の静寂。誰かが意図的に『消した』のよ。さっき私が視た男……歴史書では『聖騎士ガレイン』と呼ばれている英雄」
「ガレイン? 魔獣討伐の英雄か。彼は晩年、王都の屋敷で孫に囲まれて大往生したはずだが」
「嘘よ」
私は断言した。
さっきの痛みが、まだ指先に残っている。
「大往生した人間が、あんなふうに爪を剥がしてまでペンを握る? 彼は殺されたの。それも、何かを書き残そうとした瞬間に、業火に焼かれて」
「アリア、君は……」
ベルンの声色が、心配から警戒へと変わる。
彼は地下書庫の入り口を、怯えるように盗み見た。
「最近、妙な噂を聞く。この『空白の時代』に関わった研究者が、次々と姿を消していると」
「行方不明?」
「いや、もっと質が悪い。『消失』だ。誰も彼らの名前を思い出せない。ただ『誰かがあの席に座っていたはずだ』という違和感だけを残して、存在が世界から拭い去られる」
背筋に冷たいものが走る。
それは恐怖だったが、同時に私の乾いた心を潤す甘美な刺激でもあった。
やはり、この世界には「裏」がある。
「歴史の自浄作用……あるいは、修正」
「修正?」
「不都合な真実を暴こうとする異物を、システムが排除しているとしたら?」
私は白手袋をはめ直し、エララの書を鞄に滑り込ませた。
こめかみが脈打つ。
頭痛は、真実への羅針盤だ。
「忠告は受け取っておくわ、ベルン。でも、もう手遅れみたい」
「どういうことだ?」
私は鞄を抱きしめ、自嘲気味に笑った。
「ガレインの最期の感情が、私の神経にこびりついて離れないの。『頼む、無駄にしないでくれ』って。……この熱さだけが、私に生きている実感をくれる」
ベルンが何かを叫ぼうとしたが、私は聞かなかった。
重い鉄扉を押し開ける。
その先には、私を飲み込もうとする夜の闇が待っていた。
第二章 歪む境界線
自宅に戻った私は、狂ったように資料を広げた。
三日三晩、眠っていない。
床には破り捨てたメモの山。マグカップの中でコーヒーには膜が張り、カビが生え始めている。
「……合わない」
私は三冊の歴史書を並べ、爪を噛んだ。
Aの書:『聖騎士ガレイン、王都にて没す。享年七十二』
Bの書:『ガレイン卿、西方遠征の帰路にて病没』
Cの書:『該当者なし』
記述がバラバラだ。
まるで、誰かが慌てて適当な嘘を継ぎ接ぎしたかのように。
「エララの書」を広げる。
問題の空白ページ。
私は部屋の照明を消し、ロウソクの火を近づけた。
炎の揺らめきが、羊皮紙の凹凸に影を落とす。
インクはない。
だが、筆圧による微かな「溝」が残っていた。
私は指先でその溝をなぞる。
冷たい。
指先から心臓へ、直接氷水を流し込まれるような感覚。
(……読める)
文字ではない。
溝に残った執念が、直接脳内にイメージを叩きつけてくる。
『我々は、殺したのではない。救ったのだ』
フラッシュバック。
血まみれの剣。
足元に転がる、異形の肉塊。
それは魔獣などではない。
翼の生えた、美しい「天使」のような存在。
「……嘘でしょう」
息が止まる。
ガレインたちが討伐したとされる「魔獣」。
それは、人類を管理していた高次元の存在だった?
『管理者を殺せば、世界は秩序を失い、崩壊へ向かう。それでも我々は、自由を選んだ』
『世界を存続させるため、我々は歴史を改竄する。管理者の死を隠蔽し、偽りの平和を演出する』
『代償として、真実を知る我々の存在は、因果の歪みに飲み込まれて消えるだろう』
パズルのピースが、血濡れの音を立てて嵌まった。
今の世界は、彼らの犠牲の上に成り立つ、薄氷の上の偽り。
英雄たちは栄光の中で死んだのではない。
世界の崩壊を防ぐ人柱として、自らの存在ごと歴史の闇に溶けたのだ。
ガレインも。
この書を残したエララも。
誰にも知られることなく、誰にも感謝されることなく。
「そんなの……あんまりよ」
涙が滲む。
彼らの孤独が、私の胸を突き刺す。
その時だった。
ガタン、と本棚から一冊の本が落ちた。
振り返る。
私のデビュー作、『歴史の影と記憶』。
拾い上げようとして、手が止まった。
表紙の著者名が、滲んでいる。
「アリア・クロノス」という文字が、雨に濡れたように崩れ、判読できない。
「え……?」
心臓が早鐘を打つ。
慌ててスマホを手に取る。
画面ロックを解除しようとするが、指紋認証が反応しない。
「ユーザーが一致しません」という冷淡な警告。
鏡を見る。
そこには、見知らぬ女が映っていた。
いや、私だ。間違いなく私なのに、その顔には「意味」が感じられない。
輪郭がチョークで描かれたようにぼやけ、背景が透けて見える。
昨日食べた夕食の味が思い出せない。
好きだった曲のメロディが、雑音にしか聞こえない。
母の顔を思い出そうとすると、脳裏に砂嵐が走る。
「あ……ああ……」
喉から引きつった声が漏れる。
私が、剥がれていく。
アリア・クロノスという概念が、世界からデリートされようとしている。
『真実を知った者は、消去される』
ベルンの警告は、比喩ではなかった。
私は世界のバグになったのだ。
恐怖で膝が震える。
叫び出したい。逃げ出したい。
けれど、どこへ?
私を覚えている場所など、もうこの世界のどこにもないかもしれないのに。
ふと、視界の端で「エララの書」が微かに光った気がした。
あの空白のページが、私を呼んでいる。
『書け』
ガレインの声がした。
いや、それは私自身の内側から湧き上がる衝動。
消える。
私が消えれば、彼らの真実もまた、永遠の闇に葬られる。
それだけは、許せない。
「まだ……消えるわけにはいかない」
恐怖よりも深い場所にある、昏い怒りが私を突き動かす。
私は震える手でペンを掴んだ。
指の感覚がない。ペンが氷のように冷たい。
それでも、私は机に向かった。
この理不尽な世界に、爪痕を残すために。
第三章 未来への追伸
インクが紙に吸い込まれるたび、私の体から色が抜けていく。
右手の小指が、すでに半透明になっていた。
骨も血管もなく、ただの硝子細工のように向こう側の机が透けて見える。
『彼らは、神を殺し、自由を勝ち取った。』
『その罪を背負い、歴史の影となった者たちへ。』
一文字書くごとに、記憶が一つ消える。
小学校の卒業式。初めてのキス。ベルンの入れた不味いコーヒーの味。
私の人生を構成していたピースが、パラパラと剥がれ落ちて虚空に消えていく。
痛くはない。
ただ、ひどく寒い。
魂が裸にされて、宇宙空間に放り出されたような絶対的な孤独。
「アリア……?」
誰かの声が聞こえた気がした。
振り向こうとしたが、首が動かない。
いや、もう首の感覚すらないのかもしれない。
いいのよ、と私は心の中で呟く。
私という個人の記憶なんて、この真実に比べれば埃のようなものだ。
ガレインたちが感じた絶望。
その底にあったのは、こんなにも静かな「誇り」だったのか。
彼らは選んだのだ。
自分たちが忘れ去られることと引き換えに、未来の誰かが笑って暮らせる世界を。
『真実は、消えない。』
『誰かが、覚えている限り。』
視界が白く濁り始めた。
部屋の輪郭が溶け、光の粒子になって崩れていく。
ペンを握る感覚も、もうない。
私は今、意志だけの存在となって、最後の力を振り絞る。
(……届け)
私の命を、インクに変えて。
未来の誰かへ。
まだ見ぬ、孤独な魂へ。
『私はここにいた。アリア・クロノスは、真実を見た。』
ペン先が紙から離れた瞬間、プツン、と糸が切れる音がした。
私の意識は、温かい白光の中に溶けた。
恐怖も、使命感も、肉体の重みも、すべてが遠のいていく。
最後に残ったのは、奇妙な安堵感だけ。
ああ、これでいい。
私の物語はここで終わるけれど、真実は残った。
誰かが、きっと見つける。
かつて私がそうしたように。
この呪われた、けれど美しい書物を手に取り、ページをめくる誰かが。
――光の中で、私は微笑んだ気がした。
部屋には、静寂だけが残された。
朝日が窓から差し込み、舞い遊ぶ塵を照らす。
机の上には、一巻の古びた羊皮紙。
椅子には誰も座っていない。
最初から、誰もいなかったかのように。
ただ、開かれたページの隅に。
かつて空白だったその場所に、まだ乾ききっていないインクの痕跡が、黒く、力強く刻まれていた。
風が吹き込む。
ページがカサリとめくれる。
書物は静かに、次なる「発見者」を待ち続けていた。
この世界が続く限り。
歴史の闇を覗き込む愚かで愛おしい誰かが、再び現れるその時まで。