第一章 錆びた鉄の匂い
リオンの指先が、苔むした石碑に触れた瞬間、世界が反転した。
轟音。
鼓膜を突き破るような絶叫が脳を揺らし、鼻腔を鉄錆びた血の匂いが満たす。右腕に走る灼熱の痛み。見れば、そこには本来あるはずのない、深く抉られた傷口から血が噴き出していた。これは彼の傷ではない。百年前にこの地で散った、名もなき兵士の最期の記憶。『残響』だ。
「……っぐ……!」
数秒後、幻覚は霧散し、リオンは現実の冷たい石畳に膝をついていた。右腕には傷一つないが、神経だけが幻の痛みを克明に記憶している。これが彼の能力であり、呪いだった。触れることで、その場所に刻まれた最も強烈な過去を、五感の全てで追体験してしまう。彼はこの力で歴史の残響を読み解く『調律師』として生計を立てていたが、その代償は魂を削るような激痛だった。
依頼主に調査結果を記した羊皮紙を渡し、よろめきながら路地裏へ入る。壁に背を預け、荒い息を整えていると、不意に影が差した。
「あなたが、調律師のリオンですね」
凛とした声だった。顔を上げると、歴史保存局の制服をまとった一人の女性が、真摯な眼差しで彼を見つめていた。エリアと名乗った彼女は、懐から一枚の写真を取り出した。そこに写っていたのは、大地に刻まれた壮大な光の紋様――『創世の歴史』のヒストリー・マーク。だが、その紋様の輪郭が、所々かすれて消えかかっていた。
「世界から、歴史が消え始めています。最も重要な、始まりの記憶が。あなたの力が必要です」
エリアの言葉は、世界の終わりを告げる静かな警鐘のように、リオンの耳に響いた。
第二章 消えゆく創世の譜面
エリアに導かれ、リオンは人類未踏の聖域『始まりの台地』に立っていた。かつては空にまで届くほどの光を放っていたという『創世の歴史』のマークは、今や風前の灯火だった。大地に刻まれた壮麗な譜面は、その音色を忘れたかのように力を失い、端から静かに霧散している。世界そのものの存在基盤が、足元から崩れていくような不気味な静寂が、台地を支配していた。
「触れれば、何かわかるかもしれません」
エリアの不安げな声に、リオンは頷いた。覚悟を決める。この規模のヒストリー・マークに触れれば、どれほどの痛みが襲うか想像もつかない。だが、彼女の瞳に宿る、歴史を守ろうとする強い意志が、リオンの恐怖をわずかに上回った。
彼はゆっくりと膝をつき、かろうじて光を保っているマークの中心に、震える指先を伸ばした。
触れた瞬間、意識が純白の光に呑まれた。痛みはない。ただ、無限の時間が凝縮されたような、途方もない情報量が脳髄を焼き尽くしていく。宇宙の誕生、生命の芽生え、そして――柔らかな歌声。それは、世界で最初に生まれた愛の唄だったのかもしれない。温かく、優しい光が彼を包み込む。
だが、突如として激しいノイズが走った。光は引き裂かれ、歌声は悲鳴に変わる。残響が、まるで何か巨大な力によって無理矢理書き換えられていくような、冒涜的な感覚。リオンは絶叫と共に弾き飛ばされ、意識を失った。
第三章 クロノス・グラスの囁き
目覚めたのは、保存局の医療室だった。エリアが心配そうに彼を覗き込んでいる。
「何か、見えましたか?」
「……断片的すぎた。でも、何か……何かが、本来あるべき歴史を否定しているような……」
調査は暗礁に乗り上げた。創世の残響はあまりに強大で、今のリオンの能力では読み解くことができない。打つ手なしかと思われたその時、エリアは「最後の手段です」と言い、古びた木箱から一つの工芸品を取り出した。
『時を読む砂時計(クロノス・グラス)』。
くびれた硝子の向こうで、星屑のように煌めく砂が静かに時を刻んでいた。
「伝説では、この砂は過去の光を記憶していると。砂が落ちる一粒一粒に、現在の世界に最も影響を与えた過去の1秒が映し出されるそうです」
リオンは砂時計を受け取ると、再び『始まりの台地』のマークの前に立った。クロノス・グラスをかざすと、落ちる砂の一粒に、ぼんやりと映像が投影された。それは、創世の神話でも、歴史的な大戦でもなかった。
緑豊かな丘の上で、若い男女が笑い合っている。男が女の髪に野の花を飾り、女ははにかみながら彼の手を取る。どこにでもある、ありふれた幸福の1秒。
しかし、リオンはその光景に、胸を締め付けられるような既視感を覚えた。なぜだ。なぜ、こんな穏やかな記憶が、創世の歴史と関係しているというのか。そして、なぜこれほどまでに、心が揺さぶられるのか。
第四章 裏返された未来
「過去に答えがないのなら、未来に問いかけるしかありません」
エリアは古文書の一節を指差した。そこには、クロノス・グラスを逆さに回す禁断の儀式について記されていた。『未だ紡がれざる、運命の1秒を垣間見る』と。
危険な賭けだった。だが、消えゆく世界を前に、彼らに残された時間は少ない。リオンはエリアの覚悟に応えるように、深く息を吸い込んだ。
台地の中央で、彼はクロノス・グラスをゆっくりと逆さにした。砂が重力に逆らうように一瞬ためらい、そして、未来へと流れ落ちる。
砂に投影されたのは、絶望の情景だった。
世界は崩壊し、空は赤黒く染まっている。瓦礫の山の中で、リオンは血を流すエリアを抱きしめていた。彼女の瞳から光が失われ、か細い指が力なく彼の手から滑り落ちる。未来の自分の口が、声にならない叫びを形作るのが見えた。
「……嫌だ」
リオンの唇から、無意識の言葉が漏れた。
「こんな未来は、絶対に認めない……!」
その強い拒絶が引き金だった。彼の能力が暴走する。世界が眩い光に包まれ、彼の身体と意識が、時間そのものの奔流へと引きずり込まれていく。過去でも未来でもない、因果の鎖が絡み合う、純粋な時間の狭間へ。彼の願いが、世界の理を根底から書き換える、禁忌の力として解き放たれてしまったのだ。
第五章 選択の残響
時間の狭間で、リオンは全ての真実を悟った。
彼の能力は、過去を『読む』だけのものではなかった。未来を強く『願う』ことで、その未来に至る因果を捻じ曲げ、過去の歴史そのものを再構築してしまう、恐るべき力だったのだ。
クロノス・グラスが映した、ありふれた幸福の情景。あれこそが、真の『創世の歴史』。神々ではなく、名もなき男女の愛から、この世界は始まったのだ。そして、リオンとエリアは、その二人の魂を継ぐ者だった。だからこそ、二人が出会い、エリアが死ぬという未来が確定した時、その悲劇を回避しようとするリオンの無意識の願いが、全ての始まりである『創世の歴史』そのものを消し去ることで、因果を断ち切ろうとしていたのだ。
彼の前に、二つの道が光の帯となって伸びていた。
一つは、エリアが生きている未来。彼が望んだ、温かい世界。しかし、その世界では創世の記憶は完全に失われ、歴史という土台を失った世界は、やがて緩やかに崩壊へと向かうだろう。
もう一つは、全てを元に戻す道。エリアの死という、本来定められた運命を受け入れる。そして、自分の存在を対価に、消えゆく全ての歴史の残響――創世の愛から、名もなき兵士の絶望まで、その全てを自らの魂に刻み込み、世界から忘れ去られた記憶の番人として、永遠に時間の流れの中を彷徨い続けること。
愛する一人の命か、世界の全ての記憶か。
残酷な選択が、静かに彼に委ねられた。
第六章 生ける歴史の番人
リオンは、エリアの笑顔を思い浮かべた。
歴史を愛し、人々が生きてきた証を守ろうとした、彼女の真っ直ぐな瞳。彼女が守ろうとしたその全てを、自分のエゴで消し去ってしまっていいはずがない。
「君が生きていた証も、俺が覚えておく」
彼は、もう一つの未来へと静かに呟いた。
決意と共に、彼は光の奔流へとその身を投じた。消えゆく全ての歴史の残響が、津波のように彼に押し寄せる。幾億もの喜び、悲しみ、怒り、そして愛。無限の追体験がもたらす激痛は、やがて彼の魂を砕き、光の粒子へと変えていく。彼の個は消え、ただ世界の記憶そのものへと昇華されていった。
現実世界では、エリアが呆然と立ち尽くしていた。
目の前でリオンの姿が陽炎のように揺らぎ、次の瞬間には、まるで最初からそこに誰もいなかったかのように消えていた。
だが、奇跡が起こっていた。消えかけていた『始まりの台地』のヒストリー・マークが、淡く、しかし確かな光を取り戻し始めていたのだ。世界の崩壊は、食い止められた。
安堵と共に、耐え難い喪失感が彼女の胸を襲う。
「リオン……?」
呼びかけても、答えはない。
ただ、台地を吹き抜ける風が、彼の名を優しく囁いたような気がした。
第七章 唄は響き続ける
数年の月日が流れた。
世界は安定を取り戻し、人々は歴史が消えかかったことなど忘れ、日々の営みを続けている。エリアは歴史保存局の研究員として、各地の遺跡を巡っていた。
ある日、彼女は古い教会の遺跡で、一枚のステンドグラスにそっと指を触れた。
その瞬間、指先に、ほんのりとした温かさを感じた。そして、どこからともなく、優しい歌声が聞こえてくる。それは、リオンが最後に聞いたという、創世の残響にあった愛の唄。
歴史は失われてはいなかった。
一人の青年が、その全てを記憶し、痛みも愛おしさも全て抱きしめ、世界そのものとなって歌い続けている。
エリアは空を見上げた。青く澄んだ空は、何も語らない。
しかし、彼女にはわかっていた。この世界のどこにいても、彼がいつもそばにいることを。
彼女は、風の中に響くその唄に応えるように、静かに微笑んだ。