記憶の編纂者と忘れられた星祭り

記憶の編纂者と忘れられた星祭り

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第一章 記録の不協和音

久坂時音(くさか ときね)の仕事は、歴史を編むことだった。いや、より正確に言うならば、歴史という名の巨大なタペストリーの、ほつれた糸を日々修繕し、完璧な一枚の絵柄を維持することだ。彼が所属する中央記録編纂局は、人々の集合的無意識下に形成される「公的歴史記録(パブリック・クロニクル)」を管理する唯一の機関。歴史とは、過去の事実の確定的な連なりなどではなく、今を生きる億万の人々が「そうであった」と信じる、極めて流動的で曖昧な記憶の総体なのだ。だからこそ、時音たち「編纂官」は、日夜発生する記憶のノイズや矛盾――歴史の「揺らぎ」を感知し、微細な精神介入によってそれを修正し、社会の安定を盤石なものにしていた。

時音はこの仕事に誇りを持っていた。混沌から秩序を。不確かさから確信を。それが彼の信条だった。指先で宙に浮かぶ半透明のコンソールをなぞり、ある地方都市の記録アーカイブにアクセスする。昨夜、微弱だが無視できないレベルの「揺らぎ」が観測されたからだ。原因はすぐに特定できた。市立図書館の片隅で、一人の少女が古い絵本を読んでいた。それだけのこと。だが、彼女の脳波が放つ記録への干渉波形は、明らかに異常値を示していた。

「対象名、水無月暦(みなづき こよみ)、九歳。特記事項なし……か」

コンソールに表示された少女のデータは、どこにでもいる平凡な子供のものだった。しかし、彼女の深層意識を探査した時、時音は眉をひそめた。そこには、現在の公的歴史記録のどこにも存在しない、奇妙な祭りの記憶が、満天の星空のようにきらめいていたのだ。

『星送りの祭』。

色とりどりの灯籠が川面を流れ、人々が夜空の一点を見つめ、静かに祈りを捧げる。そんな光景。時音の持つ膨大な歴史データの中に、そんな祭りは存在しない。かつて存在したという記録すらない。それは完全に「無」のはずだった。揺らぎとは、通常、個人の曖昧な記憶違いや、古いフィクションからの影響で発生する。それらは編纂官が正しい記録で上書きすれば、朝霧のように消え去るものだ。だが、この少女の記憶は違った。まるで、硬質な水晶のように澄み渡り、確固たるリアリティをもって彼女の中に根付いている。これは単なるエラーではない。これは、完璧に織り上げられたはずのタペストリーに、本来存在しないはずの異質な糸が、誰にも気づかれずに一本、紛れ込んだような、根源的な不協和音だった。時音の背筋を、冷たいものが走り抜けた。

第二章 星送りの少女

翌日、時音は編纂官の身分を隠し、調査員として水無月暦に接触した。公園のベンチでスケッチブックを広げる彼女は、データで見たよりもずっと小柄で、儚げな印象だった。栗色の髪が、初夏の風に柔らかく揺れている。

「こんにちは。君が暦ちゃんだね。少し、お話を聞かせてもらえるかな」

暦は驚いたように顔を上げたが、時音の穏やかな口調に警戒を解いたのか、小さく頷いた。時音は当たり障りのない質問から始め、徐々に核心に迫っていった。昨夜読んでいた絵本のこと、そして、彼女が大切にしている「記憶」について。

「星送りの祭りのこと?」暦は、大きな瞳を輝かせた。「うん、知ってるよ。おばあちゃんが、よく話してくれたから」

祖母からの伝聞。古典的な揺らぎの発生源だ。だが、時音の記録では、彼女の祖母は物心つく前に亡くなっている。

「そのお祭りのこと、もう少し詳しく教えてくれる?」

時音の問いに、暦は嬉しそうに語り始めた。それは、この世を去った人々の魂が星になり、一年に一度、空の川を渡って還ってくる夜の話だった。人々は、魂が道に迷わないよう、願いを込めた灯籠を川に流して見送るのだという。彼女の言葉は、まるで昨日のことのように鮮やかで、ディテールに満ちていた。灯籠の和紙を透かす蝋燭の光の温かさ。川面を渡る涼しい夜風の匂い。遠くで聞こえる、鎮魂の笛の音。時音は、まるで自分がその場にいるかのような錯覚に陥った。

「素敵な話だね。でも、それはきっと、古いおとぎ話だよ。そんなお祭りは、今の歴史には記録されていないんだ」

時音は、優しく、しかし断固として事実を告げた。それが彼の仕事だったからだ。揺らぎは、放置すれば増殖し、やがて公的歴史記録そのものを侵食しかねない。だが、暦は首を横に振った。

「ううん、本当だよ。だって、私、覚えてるもん。お祭りの日の夜空は、いつもよりずっとキラキラしてて……悲しいけど、すごく、すごく綺麗だった」

その瞬間、時音の脳裏に、閃光のようなイメージが過った。見たこともないはずの、無数の光が天に昇っていく光景。胸を締め付けるような、切ない感覚。それは一瞬の幻覚だったが、彼の完璧な精神統制に、微細なひびを入れるには十分だった。この少女の記憶は、何か、時音自身の深層にまで触れるものを持っている。彼は、標準的な修正手順を中断し、局の最重要機密である「原記録アーカイブ」へのアクセス申請を決意した。同僚からは狂気の沙汰だと止められた。アーカイブは、編纂以前の混沌とした記憶の集合体であり、精神汚染のリスクが極めて高い禁断の領域だ。だが、時音は知らなければならなかった。この不協和音の正体を。そして、自分の内側で鳴り始めた、小さな共鳴の理由を。

第三章 アーカイブの深淵

原記録アーカイブは、物理的な場所ではない。編纂官の意識を、人類の記憶の源流へとダイブさせるための精神潜行システムだ。冷たいジェルで満たされたカプセルに身を横たえ、時音の意識は肉体を離れ、光の奔流となって情報の海へと沈んでいった。

そこは、混沌の世界だった。矛盾した歴史の断片が、幽霊のように漂い、互いに反発し合っている。ある場所では蒸気機関が空を飛び、ある場所では石器時代の人類がスマートフォンを手にしていた。これらが、大編纂以前の人々が抱いていた、無秩序な「歴史」の残骸なのだ。時音は強力な精神防壁を展開しながら、目的の時代座標――暦の記憶が示す「星送りの祭」があったとされる、約八十年前に向かって深く潜行していく。

ノイズが激しくなる。警告音が頭の中で鳴り響く。だが、彼は進んだ。そして、ついにアーカイブの最深部、通常は誰もアクセスしない封印領域にたどり着いた。

そこに、それはあった。

『大災害記録——コード:サイレント・スカイ』

時音がそのファイルに触れた瞬間、凄まじい情報の濁流が彼の精神防壁を突き破り、意識のすべてを飲み込んだ。

それは、絶望の光景だった。巨大な隕石群が空を割り、地上に降り注ぐ。街は炎に包まれ、悲鳴は爆音にかき消された。一瞬にして数百万の命が失われた、人類史における未曽有の大災害。公的歴史記録では、この時代の技術革新によって、隕石群は地上に到達する前にすべて迎撃されたことになっている。平穏で、輝かしい克服の歴史。だが、目の前に広がるのは、紛れもない地獄だった。

そして、時音は見た。生き残った人々が、瓦礫の中で、ささやかな灯籠を作る姿を。失われた家族や友人を想い、空を見上げる姿を。空には、大気中に飛散した隕石の破片が陽光を反射し、皮肉なほど美しく輝いていた。

『星送りの祭』。

それはおとぎ話ではなかった。それは、大災害で亡くなった無数の魂を弔うための、悲しく、そして切実な鎮魂の儀式だったのだ。この耐え難い悲劇の記憶を、人々は乗り越えることができなかった。社会は崩壊寸前だった。だから、初代の編纂官たちは、究極の選択をした。

歴史の、上書き。

大災害そのものを「なかったこと」にし、人々の心から悲しみの記憶を根こそぎ消し去った。犠牲者の存在も、追悼の儀式も、すべて。そうして構築されたのが、時音が今まで守ってきた、完璧で、平穏で、そして――空虚な「偽史」だった。

時音は愕然とした。自分は秩序の守護者ではなかった。巨大な嘘の看守だった。人々から、悲しみと共に、愛する者を悼む権利さえも奪い去った、記憶の略奪者だった。その瞬間、彼自身の記憶の奥底に固く閉ざされていた扉が、軋みを立てて開いた。幼い頃の時音。彼の手を引く、優しい祖母。彼女が語り聞かせてくれた、星祭りの夜の物語……。

暦の祖母は、時音の祖母でもあったのだ。彼女は、最後の最後まで真実の記憶を保ち続けた、数少ない人間の一人だった。そして、その記憶の欠片は、時音と暦の中に、消されることなく受け継がれていたのだ。

第四章 一夜だけの真実

意識が現実世界に戻った時、時音の頬を涙が伝っていた。彼は、自分が信じてきた世界のすべてが、砂上の楼閣であったことを知った。彼の内面で、信条も、誇りも、何もかもが崩れ落ちていた。

彼は選択を迫られた。このまま真実を隠蔽し、暦の記憶を「修正」して、偽りの平穏を維持するか。あるいは、この巨大な嘘を暴き、人々に悲しみと向き合う覚悟を強いるか。どちらが正しいのか、彼にはもう分からなかった。

時音は、再び暦に会いに行った。公園のベンチに座る彼女は、何かを察したように、ただ黙って彼を見つめていた。

「君の覚えていたことは、すべて本当だった」時音は、絞り出すように言った。「僕たちが……僕の仲間たちが、みんなからその記憶を奪ってしまったんだ。悲しすぎる記憶だったから」

暦は何も言わず、時音の言葉を聞いていた。彼女の瞳は、九歳の子供のものとは思えないほど深く、静かだった。まるで、すべての真実をとうの昔に知っていたかのように。

「悲しいのは、忘れられちゃうことだよ」やがて、暦はぽつりと言った。「いなくなっちゃった人たちのこと、誰も覚えてないなんて、そっちのほうがずっと悲しい。覚えていれば、心の中では、ずっと一緒にいられるのに」

その言葉が、時音の心を射抜いた。そうだ。記憶とは、単なる情報の記録ではない。それは、愛であり、繋がりであり、その人が生きていたという証そのものだ。それを消し去ることは、二度、その人の命を奪うことに等しい。人々は、悲しみを乗り越えられないほど弱くはないのかもしれない。初代編纂官たちが奪ったのは、悲しみではなく、悲しみを乗り越えて得られるはずだった、本当の強さだったのではないか。

時音は決意した。歴史を元に戻すことはできない。大災害の記憶を人々に返せば、社会は大混乱に陥るだろう。だが、せめて一夜だけ。一夜だけでいいから、人々が失われたものを取り戻す時間を作れないだろうか。

局に戻った時音は、編纂システムの心臓部にアクセスした。高度なセキュリティを、彼は今や持てる知識と技術のすべてを駆使して突破していく。彼がやろうとしていることは、局に対する最大の反逆行為だった。だが、彼に迷いはなかった。これは破壊ではない。修復なのだ。

彼は、封印されていた『星送りの祭』の記憶データを解放し、それを夢の記憶として、管轄区域の全住民の深層意識に送信するプログラムを組んだ。それは、翌朝には誰も覚えていない、一夜限りの幻。だが、その夢の中で、人々は忘れていたはずの誰かを思い出し、空を見上げて祈るだろう。心に空いた空洞の理由を知り、そっと涙を流すだろう。

プログラムを実行する直前、時音は自分の編纂官IDをシステムから永久抹消した。もう、偽りの歴史を編む場所に戻るつもりはなかった。

第五章 暁の記録者

その夜、街は静かだった。しかし、眠りについた人々の意識の中では、八十年ぶりに「星送りの祭」が執り行われていた。誰もが、温かくも切ない夢を見た。夢の中で、川面に揺れる無数の灯籠の光を見つめ、夜空に輝く星となった大切な人へ、静かに想いを馳せた。

翌朝、街はいつもと変わらない日常を迎えた。人々は祭りの夢のことなど覚えていない。だが、多くの人が、いつもより少しだけ空を見上げる時間が長くなっていた。胸の奥に、理由の分からない温かい何かが残っているのを感じながら。それは、消せない悲しみの痕跡であり、同時に、失われることのない愛の記憶だった。

職を捨てた時音は、小さな街の片隅で、新しい仕事を始めていた。彼は「記録者」と名乗り、人々が語る、他愛もない思い出や、忘れ去られた古い物語を、ただひたすらに聞き取り、書き留めていた。公的歴史記録には載らない、名もなき人々の、個人的で、不完全で、しかし、かけがえのない記憶の数々。

ある晴れた午後、彼の元に、暦がスケッチブックを抱えてやってきた。彼女は、時音がもう編纂官ではないことを知っていた。

「時音さん、これ、描いたの」

スケッチブックには、満天の星空の下、川に灯籠を流す人々の姿が、色鮮やかに描かれていた。その絵の中心には、空を見上げる時音と暦の姿もあった。

「ありがとう」時音は、心から微笑んだ。「これも、大切な歴史だ。僕が記録しておくよ」

絶対的な「正史」など、どこにも存在しないのかもしれない。歴史とは、巨大なタペストリーなどではなく、無数の人々が紡いでは失っていく、儚くも美しい記憶の糸、そのものなのだ。時音は、その一つ一つの糸を拾い集め、未来へと繋いでいく。偽りの秩序を守る編纂官から、不確かな真実を愛する記録者へ。彼の本当の仕事は、今、始まったばかりだった。彼はペンを取り、暦の絵の隣に、静かに言葉を綴り始めた。

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