忘れられたインクの色

忘れられたインクの色

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第一章 クロユリの依頼人

神保町の古書店街の片隅に、私の店『桐谷書店』はひっそりと佇んでいる。埃とインクの匂いが染みついたこの場所は、祖父から受け継いだ私の城であり、同時に、過去という名の静かな牢獄でもあった。私は桐谷朔(きりたにさく)。歴史を、その手触りや重みではなく、ただの活字の連なりとして処理する古文書修復家だ。人々が過去に感傷を抱くのを、私はいつも少し冷めた目で見ていた。歴史とは、勝者が都合よく編纂した物語に過ぎない。その紙背に横たわる無数の声なき声など、知る由もないのだから。

その日、店の古い呼び鈴が、乾いた音を立てた。入ってきたのは、背を丸めた小柄な老婦人だった。深く刻まれた皺の一つ一つが、長い年月を物語っている。彼女は店の中を見回すでもなく、まっすぐに私のカウンターへ進み出ると、風呂敷に大切に包まれた一冊の本を置いた。

「これの、修復をお願いできますでしょうか」

それは、大正時代に作られたであろう、洋綴じの日記帳だった。表紙の革はひび割れ、ページの端は茶色く焼け焦げたように脆くなっている。一見して、保存状態は劣悪だった。

「拝見します」

手袋をはめ、慎重にページを繰る。優美な筆跡で綴られていたのは、華族の令嬢と思われる『小夜子』という女性の日記だった。許嫁との観劇、避暑地での穏やかな時間、来るべき未来への希望。ありふれた、幸福な日々の記録。だが、最後のページに辿り着いた時、私は息を呑んだ。

そこには、他のページとは明らかに異質な、乱れた文字で書かれた暗号のような文字列と、黒く変色した一輪の押し花が挟まっていた。その不気味なほどの漆黒。クロユリだ。花言葉は「呪い」「復讐」。なぜ、幸福な日記の最後に、これほど禍々しい花が。

私が顔を上げると、老婦人はガラス玉のような瞳で私をじっと見つめていた。

「この日記に書かれていることは、すべて嘘です」

その声は、古井戸の底から響くように静かだった。

「ですが、たった一つだけ、真実が隠されています。どうか、それを見つけ出してくださいまし。……あの方の血を引く、あなたになら」

「え……?」

あの方、とは誰のことか。なぜ私のことを知っているのか。問い返す間もなく、老婦人は深々と一礼すると、鈴の音も立てずに店から出て行った。カウンターには、日記帳とクロユリの押し花だけが、まるで古い謎かけのように、取り残されていた。

第二章 幸福な嘘の記録

依頼の奇妙さに反して、私の仕事は淡々と進んだ。脆くなったページを補強し、インクの滲みを丹念に拭き取る。カビの匂いに混じって、微かに、甘いような、それでいて胸を締め付けるような香りがした。日記の書き手、小夜子が使っていた香水の名残だろうか。

日記は、大正十二年の春から始まっていた。許嫁である『誠一郎』との輝かしい日々が、そこには綴られていた。銀座での活動写真、帝国ホテルでの舞踏会。小夜子の文章は、まるで上質な絹織物のように滑らかで、幸福の光に満ち溢れていた。しかし、修復作業を進めるうちに、私は奇妙な違和感に囚われ始めた。

完璧すぎるのだ。物語があまりにも都合よく、美しく構成されすぎている。不幸の影ひとつないその世界は、現実味を欠き、まるで誰かが「こうであってほしかった」と願った理想を書き連ねたかのようだった。

ある夜、作業台のライトの下で、私は日記のある記述に目を留めた。

『九月一日。誠一郎様と浅草凌雲閣に登り、帝都の景色を眺めました。空はどこまでも青く、まるで私たちの未来を祝福しているかのようでした』

九月一日。その日付に、私の脳裏を警鐘が打ち鳴らす。書棚から大正期の資料を取り出し、震える手でページをめくる。大正十二年九月一日。関東大震災。帝都は炎に包まれ、阿鼻叫喚の地獄と化した日だ。凌雲閣も、この日に崩壊している。

嘘だ。老婦人の言った通り、この日記は嘘で塗り固められている。

私は憑かれたように、日記の記述と史実の照合を始めた。小夜子が誠一郎と観劇したとされる日、彼の通う大学は学内で大きな不祥事が起きていた。彼女が家族と旅行したとされる時期、小夜子の実家とされる華族の家は、事業の失敗で没落の危機にあった。幸福な記述の裏側には、常に暗く、冷たい事実が横たわっていた。

そして、私は最も恐れていた事実に突き当たってしまう。日記に繰り返し登場する許嫁、『誠一郎』という名前。それは、若くして亡くなった私の祖父の名前と、同じだった。偶然だ、と自分に言い聞かせようとした。だが、胸のざわめきは収まらない。私の知らない祖父の過去が、この嘘だらけの日記の中に埋もれているのではないか。歴史とは無関係だと線を引いてきたはずの自分の足元が、ゆっくりと崩れていくような感覚に襲われた。

第三章 炎が記した真実

祖父の名前に気づいてから、この日記は私にとって、ただの修復対象ではなくなった。それは、私自身のルーツに繋がる、解かねばならない謎となった。私は最後のページに記された暗号に、すべての意識を集中させた。一見、意味をなさないカタカナの羅列。しかし、何度も何度も文字列を睨みつけるうち、ある法則性に気づいた。これは、いろは歌を基にした、単純な置き換え暗号だ。

ペンを走らせ、一文字ずつ解読していく。指先が冷たくなり、心臓が早鐘を打つ。やがて、そこに浮かび上がった言葉に、私は凍りついた。

『セイイチロウサマ ワタシヲワスレナイデ ココニイル ホノオノナカ アナタヲマチツヅケタ ワタシヲミステタアナタヲ ケッシテユルサナイ』

背筋を冷たい汗が伝った。幸福な嘘の仮面が剥がれ落ち、その下から現れたのは、灼けつくような憎しみと絶望だった。クロユリの花言葉が、脳裏で毒のように広がっていく。

これは、恋文などではない。これは、呪詛だ。

私は書斎に駆け込み、祖父の遺品箱を引っ張り出した。中には、色褪せた写真や手紙が乱雑に詰め込まれている。その中の一枚の写真に、私は釘付けになった。若き日の祖父だ。学生服を着て、少し照れたように笑っている。そして、その隣には、可憐な着物姿の少女が、幸せそうに寄り添っていた。私が日記の記述から想像していた、華やかで気品のある令嬢ではない。もっと素朴で、しかし芯の強さを感じさせる瞳をした少女。写真の裏には、祖父の震えるような筆跡で、こう記されていた。

『上野の避難所にて。小夜子さんと』

すべてのピースが、音を立ててはまった。

小夜子は華族令嬢などではなかった。彼女は、関東大震災で家族も家も、すべてを失った孤児だったのだ。そして、避難所でボランティアをしていた学生、誠一郎……私の祖父と出会い、恋に落ちた。祖父もまた、打ちひしがれた彼女を支えるうち、深く愛するようになったのだろう。

だが、現実は非情だった。祖父は、親が決めた良家の娘との縁談を断ることができなかった。彼は小夜子に真実を告げることもできず、ただ、彼女の前から姿を消した。

あの日記は、震災で失われた「もしも」の世界。祖父と結ばれるはずだった未来を、彼女が一人で、来る日も来る日も綴り続けた、悲痛な幻想の記録だったのだ。幸福であればあるほど、その嘘は深く、彼女の絶望を際立たせる。

老婦人、すなわち小夜子が言った「たった一つの真実」。それは、この日記に込められた、祖父・誠一郎への、あまりにも純粋で、歪んでしまった「愛」そのものだったのだ。歴史という大きな流れの中で、名もなき少女が抱いた、あまりにも個人的で、切実な想い。私はその重みに、ただ立ち尽くすしかなかった。

第四章 語られなかった恋文

修復を終えた日記帳を手に、私は依頼書に記されていた住所へと向かった。そこは古書店ではなく、路地裏に佇む小さな花屋だった。店の奥から現れた若い女性店主は、私の持っていた日記帳を見ると、すべてを察したように静かに微笑んだ。

「祖母は、数日前に眠るように。……あなたが来てくださるのを、ずっと待っていました」

老婦人、小夜子さんは、もうこの世にはいなかった。彼女は、自分の声なき物語の最後の証人として、祖父の血を引く私を選んだのだ。

店主は、店の奥から一本の花を差し出した。「祖母からです」と。それは、穢れを知らないような、真っ白な百合の花だった。呪いのクロユリとは対照的な、純潔と無垢の象徴。長い憎しみの果てに、彼女が辿り着いた境地が、その白い花びらに凝縮されているようだった。

店を出て、私は自宅の書斎に戻った。そしてもう一度、祖父の遺品箱を開けた。箱の底に、一枚だけ、他とは別に仕舞われていた便箋を見つけた。それは誰にも宛てられていない、投函されなかった手紙だった。インクは掠れ、紙は黄ばんでいたが、そこには祖父の苦悩が滲んでいた。

『小夜子、すまない。君を炎の中に独り残してしまった私を、許さないでくれ。私は生涯、君の面影を抱いて生きていく。君がくれた、あの短い日々の輝きだけが、私の人生の唯一の真実だった』

祖父もまた、生涯彼女を忘れられず、罪の意識に苛まれていたのだ。二人は、互いを想いながら、決して交わることのない人生を歩み続けた。歴史の教科書には決して載ることのない、二人の男女の、あまりにも切ない恋の物語。

私は初めて、歴史というものの本当の姿に触れた気がした。それは、年号や事件の羅列ではない。忘れ去られた人々の、喜び、悲しみ、そして愛という感情の、巨大な集積体なのだ。紙の上の記録に冷めていた私の心は、激しく揺さぶられていた。過去は、死んだものではない。それは、今を生きる私たちの中で、静かに呼吸を続けている。

翌朝、春の柔らかな光が差し込む古書店の窓辺に、私は小夜子さんから託された白い百合を飾った。その隣には、修復を終えた日記帳を置く。ページに挟まれたクロユリは、長い呪いから解き放たれたかのように、ただ静かに黒い影を落としている。

歴史の声なき声に耳を澄ませること。忘れられたインクの色に、込められた想いを読み解くこと。それが、祖父と小夜子さんが、そして歴史そのものが、私に託した役目なのかもしれない。私は窓から差し込む光を見つめ、静かに微笑んだ。その微笑みは、もう以前のような冷めたものではなかった。

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