第一章 軋む静寂
光を失ってから、俺の世界は音で再構築された。雨粒が窓ガラスを叩く硬質な音、遠くで鳴くカラスの乾いた声、床板が体重を感知して軋む低い呻き。そのすべてが、かつては意識の背景に溶けていた些細なノイズが、今や俺、橘翔太の現実を構成する絶対的な要素だった。
将来を嘱望されたピアニスト。そんな陳腐な謳い文句が雑誌の見出しを飾ったのは、もうずいぶん昔のことのように感じる。半年前の雨の夜、一台の車が俺の未来ごと奪い去っていった。両目の視神経は回復不能の損傷を受け、俺の世界から光と色彩が永遠に消えた。ピアノの鍵盤は、白と黒のコントラストを失い、ただの冷たい88個の塊になった。
絶望の中、俺は東京の喧騒を離れ、祖母が遺した郊外の一軒家で静養という名の引きこもり生活を始めた。週に二度、ヘルパーの女性が食料品を届けに来る以外、訪れる者はいない。この家には、静寂だけが満ちているはずだった。
その音に最初に気づいたのは、移り住んで一週間が過ぎた夜のことだ。リビングの隅に置かれた、今はホコリを被るだけのアップライトピアノ。そのあたりから、微かに「キン」という金属的な音が響いた。最初は家の軋みか、あるいは空耳だと思った。だが、音は毎晩、時計が深夜二時を指す頃になると、決まって聞こえてくるようになった。
「キン……キィン……」
それはピアノの、それも高音域の鍵盤を一つだけ、不規則に、そして躊躇いがちに叩く音だった。まるで、指の置き場を探しているかのように。絶対音感を持つ俺の耳には、その音が耐え難い不協和音となって突き刺さる。調律の狂ったピアノが発する、耳障りで、神経を逆撫でするだけのノイズ。
「やめろ……」
俺は暗闇に向かって呻いた。誰がいるというのだ。この家には俺一人しかいない。恐怖よりも先に、音楽家としての生理的な嫌悪感が込み上げた。完璧なハーモニーの中に一点だけ投じられた異物。俺の静寂を汚す、不躾な侵入者。
ある夜、俺は杖を頼りに、音のするピアノへと近づいた。冷たい汗が背中を伝う。一歩、また一歩と近づくにつれて、音はより鮮明になる。それは間違いなく、ピアノの内部から響いていた。弦がハンマーに打たれる、生々しい物理的な音だ。
ピアノの前に立ち、震える手で鍵盤の蓋に触れる。ひんやりとした木の感触。俺は息を殺し、耳を澄ませた。すると、すぐ目の前で、「キィン」と甲高い音が鳴った。まるで俺の存在を確かめるかのように。
俺は悲鳴をあげそうになるのを必死でこらえ、震える指で鍵盤に触れた。そこには、俺の指以外の体温はなかった。冷たく、滑らかな象牙の感触があるだけだ。
誰かがいる。目には見えない何かが、この家で、俺のピアノを弄んでいる。それは、光を失った俺の耳にだけ届く、悪意に満ちた囁きのように思えた。絶望の底にいる俺を、さらに深い闇へと引きずり込もうとする、悪質な悪戯。俺は鍵盤をめちゃくちゃに叩きつけ、不快な音を掻き消そうと叫んだ。だが、俺が弾き終えた後の静寂に、またしてもあの甲高い「キィン」という音が、嘲笑うかのように響き渡った。
第二章 追憶のメロディー
不協和音との奇妙な共存が始まって一ヶ月が過ぎた。恐怖はいつしか、苛立ちと奇妙な慣れへと変わっていた。相変わらず深夜二時になると、ピアノは独りでに鳴り始める。しかし、その音には僅かな変化が訪れていた。
最初は単なる不規則な打鍵音だったものが、次第にリズムのようなものを持ち始めたのだ。二つの音、三つの音が、ぎこちなく繋がろうとする。それはまるで、ピアノを習い始めたばかりの子供が、必死に指を動かして音を探しているかのようだった。
「ド♯、ソ、ファ……違う、そこじゃない……」
俺はベッドの中で、聞こえてくる音を分析していた。音楽家としての本能が、恐怖よりも好奇心を上回っていた。その拙い音の連なりは、あるメロディーを奏でようとしている。だが、致命的に音感が悪く、何度も同じ箇所で間違える。その度に、俺は「違う!」と心の中で叫んでいた。
ある夜、ついに我慢の限界が来た。俺はピアノの前に座ると、その「幽霊」が間違えた箇所を、正しい音で弾いてやった。
「そこはファじゃなくて、ファ♯だ」
俺が鍵盤を叩くと、一瞬、向こう側の音が止んだ。静寂が訪れる。そして数秒後、今度は俺が示した正しい音階で、拙いメロディーが続けられた。まるで、俺のレッスンを待っていたかのように。
その日から、俺と「見えない誰か」との奇妙なセッションが始まった。相手が間違った音を弾くと、俺が正しい音を示す。それは言葉のない対話であり、音楽を通したコミュニケーションだった。俺はいつしか、深夜二時が来るのを待ち遠しく思うようになっていた。光を失い、誰とも繋がれずにいた俺にとって、それは唯一の他者との関わりだった。
メロディーは少しずつ形を成していった。それはどこか懐かしく、胸が締め付けられるような、切ない旋律だった。俺は記憶の引き出しを必死にかき回したが、どうしても思い出せない。だが、この曲を俺は知っている。心の奥底で、魂が覚えている。
そして、ある雨の夜。最後のフレーズが、どうしても完成しなかった。何度も同じ場所でつまずき、不協和音がリビングに響き渡る。俺は焦れる相手をなだめるように、ゆっくりと鍵盤に指を置いた。
「最後はこうだろ……」
俺が弾いた数個の和音。それがパズルの最後のピースだった。その瞬間、俺の脳裏に、堰を切ったように記憶の濁流が流れ込んできた。
これは、俺が作った曲じゃない。幼い頃、事故で亡くした妹の美咲と作った、他愛ない遊びの歌でもない。
これは、俺が恋人だった早川結衣に教えた、初めてのピアノの練習曲だ。彼女は絶望的に不器用で、いつも不協和音ばかり鳴らしては、「翔太の耳が腐っちゃう」と笑っていた。俺はそんな彼女を「才能ないな」とからかいながらも、その隣で過ごす時間が何よりも愛おしかった。
そうだ、結衣。俺の記憶から、なぜ彼女の存在が抜け落ちていた?
事故の日の光景が、鮮明にフラッシュバックする。横断歩道、けたたましいクラクション、眩いヘッドライト。俺に向かって猛スピードで突っ込んでくるトラック。俺は金縛りにあったように動けなかった。その俺を突き飛ばし、身代わりになったのは――
「結衣……!」
俺はピアノの椅子から崩れ落ちた。嗚咽が止まらない。俺は事故のショックで、最も辛い記憶に蓋をしていたのだ。俺を庇って死んだ結衣の記憶を、丸ごと封印していた。
この家の不協和音は、結衣だったのだ。ピアノが弾けなかった彼女が、たどたどしい指つきで、必死に俺に語りかけていたのだ。「思い出して」と。俺がいつもからかっていた、あの不器用な「不協和音」で。
恐怖の対象だった音は、愛しい人の声だった。俺を苛んでいた不協和音は、彼女の必死の愛情表現だった。俺はなんて愚かだったんだろう。暗闇の中で、ずっと彼女の声を聞き逃していた。
第三章 二人のためのレクイエム
床に突っ伏し、どれくらい泣き続けたのか分からない。後悔と自責の念が、鉛のように全身にのしかかる。俺は彼女の死から目を背け、自分の絶望にだけ浸っていた。その間も、結衣はずっとそばにいてくれたというのに。
「ごめん……結衣……ごめん……」
声にならない謝罪を繰り返す。すると、それまで鳴り続けていたピアノの音が、ぴたりと止んだ。代わりに、ふわりと頬を撫でるような、優しい風を感じた。それは空調の風ではない。温かく、慈しみに満ちた気配。まるで、彼女が「もういいよ」と許してくれているようだった。
俺はゆっくりと立ち上がり、再びピアノの椅子に座った。鍵盤に触れる指は、もう震えていなかった。俺は目を閉じる。暗闇はもう怖くない。この闇の中で、俺は彼女を感じることができる。
「結衣、聴いていてくれ。今度は俺が、君のために弾く」
俺は、彼女が奏でようとしていた拙いメロディーを弾き始めた。だが、それはもう練習曲ではなかった。俺は記憶の中の彼女の笑顔、声、温もり、そのすべてを音に乗せていく。悲しみと、感謝と、そして決して消えることのない深い愛情を。
不器用な旋律は、壮麗な和音に支えられ、一つの壮大な曲へと昇華されていった。それは、たった一人のために捧げる鎮魂歌(レクイエム)。俺と結衣、二人のための曲だった。
一音一音に魂を込めて弾ききった時、部屋を満たしていた濃密な気配が、すうっと薄れていくのを感じた。家を包んでいた不協和音は完全に消え、そこにはただ、穏やかな静寂が戻っていた。結衣は、俺が記憶を取り戻し、前を向くのを見届けて、安心してくれたのだろうか。
それから数ヶ月後、俺は小さなコンサートホールで、復帰後初の演奏会を開いた。プログラムの最後に置いたのは、あの夜に完成させた一曲。タイトルは『残響に棲む君』。
ステージに上がり、客席に頭を下げると、大きな拍手が降り注いだ。俺には見えないけれど、その音の波で満席なのが分かった。俺は静かにピアノに向かい、鍵盤に指を置く。
そして、結衣のためのレクイエムを弾き始めた。
目が見えなくても、俺の指は迷わない。彼女との思い出が、感情が、指先を導いてくれる。俺の音楽は変わった。かつての技巧を誇るだけの空虚な演奏ではない。痛みを知り、愛を知った人間の、魂の音楽だ。
演奏を終えた時、一瞬の静寂の後、割れんばかりの拍手がホールを揺らした。俺は立ち上がり、深く頭を下げる。その時、鳴り響く拍手の中に、たった一つだけ、懐かしい不協和音が混じったような気がした。ほんの一瞬、高音の鍵盤が「キン」と鳴ったような、優しい残響。
俺は暗闇の客席に向かって、そっと微笑んだ。
君はもうここにはいない。でも、君は俺の中にいる。俺が奏でる音楽の中に、永遠に生き続ける。光を失った俺の世界は、君という名の、最も美しい音で満たされているのだから。