忘却の胎動
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忘却の胎動

第一章 歪んだ景色と黒い蝶

僕の眼に映る世界は、はじめから歪んでいた。

人々が恐怖を抱くとき、それは僕の網膜の上で具体的な形をとる。嘘をつく男の口元からは、粘つく黒い糸が伸び、孤独を恐れる老婆の肩には、羽化に失敗した蝉のような異形がしがみついている。それらは僕にしか視えない。人々は、自らが放つグロテスクな影の存在に気づくことなく、平然と日常を営んでいる。

そして、この世界には「視えない壁」があった。

それは、街の至る所に唐突に出現する空間の断絶だ。人々はそれを「歪み」と呼び、物理的な行き止まりとして認識している。だが僕には視えるのだ。壁の表面が、まるで油膜を張った水面のように、おびただしい数の色彩を滲ませながら鈍く揺らめいているのが。それは、人々が忘却した恐怖の堆積物。この街の誰もが、忘れたい過去をその壁の向こう側へと捨て、平穏を保っている。

ある日の黄昏時、僕は古い路地裏で壁がまた一つ、その領域を広げたのを目撃した。古い煉瓦造りの建物が、音もなく空間ごと抉り取られていく。その境界線で、一人の少女が泣いていた。彼女の恐怖は、無数の黒い蝶となって肩から舞い上がり、陽炎のように揺れる壁の中へと吸い込まれていった。蝶が消えるたびに、少女の瞳から涙と一緒に恐怖の色が抜け落ちていく。やがて彼女は、なぜ自分が泣いていたのかさえ忘れたかのように、虚ろな顔で立ち去った。

僕はただ、壁の向こうで蠢く、巨大な何かの気配を感じながら、その場に立ち尽くすしかなかった。世界は、確実に狭くなっている。その事実だけが、僕の中で消えない恐怖として疼いていた。

第二章 象牙の囁き

壁際で倒れていた老人から、それを託されたのは偶然だった。彼は薄汚れた外套に身を包み、乾いた唇で何かを呟きながら、僕に小さな箱を押し付けた。

「忘れるな……忘れることが、終わりのはじまりだ……」

その言葉を最後に、老人は灰のように崩れ、風に溶けて消えた。手の中に残されたのは、手のひらに収まるほどの、精巧な装飾が施された古い象牙の小箱。その冷たい感触は、まるで死人の肌のようだった。表面に彫られた無数の顔は、どれも苦悶に満ちているように見える。

家に帰り、僕は恐る恐るその蓋を開けてみた。カチリ、と小さな音を立てて開いた箱の中は空っぽだったが、一瞬だけ、腐葉土と古い血の匂いが鼻をついた。これが、設計図に記された忘却の道具か。持ち主が忘れたいと願った記憶を一時的に吸い込み、そして破壊することで、その記憶を世界から完全に消し去るという。

その日から、僕は箱を持ち歩くようになった。人々が恐怖を忘れようとする瞬間、箱は微かに温かくなり、カタカタと震える。そして蓋を開ければ、彼らが捨てた記憶の断片――裏切りの言葉、事故の瞬間の絶叫、愛する者を失った悲嘆――が、声にならない囁きとなって溢れ出す。

しかし、箱が吸い込む記憶が増えるにつれ、異変が起きた。蓋が徐々に重くなり、開けるのに力が必要になったのだ。そして、閉じた箱に耳を寄せると、中から無数の声が混じり合ったような、乾いた葉が擦れるような音が微かに聞こえてくる。それは、忘却された者たちの怨嗟のようにも、あるいは、これから生まれる何かの子守唄のようにも聞こえた。

第三章 縮みゆく空

世界の収縮は、目に見えて加速していた。

新聞は連日、原因不明の「大規模空間歪曲現象」を報じ、テレビでは専門家たちが眉間に皺を寄せて難しい言葉を並べていたが、誰も真実に気づいてはいない。人々が恐怖を忘却する速度が、かつてないほどに速まっているのだ。小さな不安、些細な後悔、通り魔への恐怖。あらゆるネガティブな感情が、まるで巨大な掃除機に吸い込まれるかのように、性急に「視えない壁」へと投棄されていく。

ある朝、目を覚ますと、僕のアパートの窓から見えていたはずの隣のビルが、壁に飲み込まれて消えていた。陽炎のように揺らめく断絶面の向こうには、昨日までそこにあったはずの無数の生活の気配が、蜃気楼のようにぼんやりと浮かんでいる。住民たちは、ビルが存在したことさえ忘れ、何事もなかったかのように迂回路を通って職場へ向かっていた。

街は静かだった。人々は恐怖を忘れることで、笑顔さえも忘れてしまったかのように無表情になっていた。彼らが吐き出す恐怖の異形も、以前のような禍々しさを失い、どこか力なく、すぐに壁へと吸い込まれて消えていく。まるで、世界全体が巨大な忘却のシステムに組み込まれてしまったかのようだった。

僕は、壁の奥に視える「それ」が、日に日に大きく、そして鮮明になっていくのを感じていた。最初は深海のクラゲのようだった影は、今や巨大な心臓のようにゆっくりと、しかし力強く脈動している。その鼓動は、僕の胸郭にまで響いてくるようだった。あれは、僕たちの捨てた恐怖を養分にして、成長しているのだ。

第四章 忘却の揺り籠

親友のユキが、壁に消えた。

彼女は画家だった。鮮やかな色彩で、世界の美しさと、その裏側にある哀しみをキャンバスに描き出すことに全てを捧げていた。だが、壁が街を覆い尽くすにつれて、彼女の世界から色が失われていった。人々は感動を忘れ、芸術を忘れ、ユキの絵に見向きもしなくなった。

「ねえ、私の絵、もう何も感じない?」

最後に会った日、彼女はアトリエでそう言って力なく笑った。彼女の背中には、絵の具が乾いてひび割れたような、灰色の翼の異形が張り付いていた。それは、才能が枯渇することへの絶望的な恐怖だった。

翌日、アトリエがあった地区一帯が、壁に飲み込まれた。僕は現場に駆けつけたが、そこにはただ、空間の歪みが広がっているだけだった。ユキがいた痕跡も、彼女が存在したという人々の記憶も、綺麗に消え去っていた。僕だけが、彼女を覚えていた。

絶望が、僕の胸を焼き尽くす。象牙の小箱を握りしめると、これまでになく激しく震え、中からユキの囁きが聞こえた気がした。

『忘れたい……』

違う。彼女は忘れたくなどなかったはずだ。彼女は、最後まで世界を描こうとしていた。これは、自発的な忘却じゃない。何者かが、あるいは何かが、僕たちの恐怖を強制的に「収集」しているのだ。この小箱は、記憶を消すための道具などではない。恐怖を、壁の奥にいる「あれ」に捧げるための、供物台だったのだ。

僕は決意した。壁の向こうへ行こう。この狂った世界の真実を、この眼で確かめるために。

第五章 壁が生まれる日

僕は、ユキが消えた壁の前に立った。陽炎のように揺らめく空間の断絶面は、近づくだけで肌が粟立つほどの圧力を放っている。冷蔵庫のモーター音のような低い唸りが、頭蓋の内で反響した。僕の眼には、壁の表面を無数の苦悶の顔が流れ、蠢いているのが視える。

象牙の小箱を、強く握りしめる。もはや蓋はびくともしない。中からは、何百万、何千万という人々の忘却された恐怖が、一つの巨大な合唱となって絶え間なく響いてくる。

僕はゆっくりと、右手を伸ばした。

指先が、壁に触れる。

その瞬間、世界が爆発した。

津波のように押し寄せたのは、他人の記憶。人類が誕生してから今日まで、忘却されてきた全ての恐怖の奔流だった。焼け落ちる街、引き裂かれる肉体、裏切りの冷たい刃、孤独な死の静寂。憎悪、絶望、悲嘆、狂気。僕は一瞬で千の生を生き、千の死を体験した。意識が引き裂かれ、自我が溶解していく。

だが、僕の能力が、その濁流の中で僕を繋ぎ止めた。恐怖を「視る」ことに特化した僕の精神は、奔流をただの情報として処理し、その流れの先に在るものを捉えたのだ。

奔流の果て。そこには、静寂があった。

そして、巨大な「胎児」がいた。

第六章 恐怖の奔流の果てに

それは、銀河をその身に宿したかのように、無数の光の点で構成された巨大な赤子だった。閉じた瞼、安らかな寝息。その存在は、圧倒的なまでに神々しく、そして純粋だった。

僕の意識は、その胎児の夢と接続した。

理解した。これは、人類の集合無意識そのものだった。永い歴史の中で、戦争や災害、そして自らが作り出した恐怖に疲れ果てた人類が、無意識の底で願った究極の答え。「恐怖」という感情そのものからの解放。

胎児は、恐怖を知らない新人類の雛形だった。

そして、僕たちが「壁」と呼んでいたものは、古い世界と新しい世界を隔てるための巨大な子宮であり、浄化のための隔離膜だったのだ。人々は、自らの恐怖を新しい生命の糧として捧げることで、その誕生に無自覚に加担していた。象牙の小箱は、そのための効率的な収集端末に過ぎない。

ユキも、他の全ての人々も、消えたのではない。新しい世界の一部となったのだ。恐怖を克服するのではなく、恐怖ごと新しい生命に委ねることで、人類は種としての次なるステージへ進もうとしていた。

その時、僕の背後で世界が収縮を始めた。街が、大地が、空が、僕という一点に向かって凄まじい速度で折り畳まれていく。

第七章 最初の観測者

気がつくと、僕は完全な無の中にいた。上下左右、全ての方向が、内側から淡い光を放つ乳白色の壁で覆われている。僕が立つ最後の極小空間だけを残して、古い世界は完全に閉じたのだ。

壁の向こう側から、産声が聞こえた。

それは、新しい人類の最初の呼吸。恐怖という原罪から解き放たれた、無垢なる生命の始まりの音だった。

その瞬間、僕の眼に、新しい景色が映った。

壁の向こうに生まれたばかりの、光り輝く新人類たち。彼らの心から生まれた、まったく新しい「恐怖」が、僕の網膜に焼き付いた。

それは、美しいオーロラのような形をしていた。自らがなぜ存在するのかを知らないことへの、原初的な問い。愛という感情の絶対的な肯定の裏側にある、喪失への純粋な畏れ。死を知らないが故の、永遠という名の虚無への底なしの不安。

それらは、僕が知るどの恐怖よりも、遥かに純粋で、神聖で、そして恐ろしかった。

僕は悟った。僕が最後までこの世界に取り残された理由を。恐怖を視るこの眼は、新しい世界の理からこぼれ落ちたエラーなどではない。

新しい人類が、自らの無垢なる恐怖を映し出す「鏡」として。

この新しい世界の、たった一人の「恐怖の観測者」として。

僕は、この永遠の子宮の中で、彼らが紡ぎ出す美しき恐怖を、ただ独り、視続けるのだ。

壁の向こうから、新しい世界の息吹が伝わってくる。僕は静かに目を閉じ、そして再び開いた。目の前に広がる、神々しくも恐ろしい光景を、永遠に受け入れるために。

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