反復する残像の館

反復する残像の館

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第一章 古い館の囁き

私は、高橋悠真。かつて「新進気鋭」と評されたこともある画家だが、今は亡き恋人、佐倉美月を失って以来、筆は重く、色を失っていた。そんな私を突き動かしたのは、美月が最期まで大切にしていた、ある古い洋館のスケッチだった。都心から遠く離れた山中の、今は廃墟寸前のその館は、美月と私がまだ夢を追いかけていた頃、二人で一度だけ訪れた場所だ。彼女はその館の、蔦に覆われた窓辺から差し込む光の美しさに魅入られ、「いつかここで、あなたと二人で作品を作りたい」と目を輝かせていた。私はその未練にも似た記憶に導かれ、インスピレーションを求めて、再びその洋館の扉を開いた。

軋む床板が、私の存在を古き住人に告げるかのように鳴り響く。煤けた壁、破れたカーテン、埃の積もった家具の残骸。それら全てが、過ぎ去った時間の重みを物語っていた。しかし、その朽ち果てた美しさの中に、確かに美月の魂の片鱗を感じた。私はスケッチブックと炭を取り出し、かつて美月が心を奪われたであろう窓辺に腰を下ろした。柔らかな光が、歪んだガラスを通して室内を照らし、埃の粒子が銀色に舞う。その幻想的な光景は、確かに失われた色彩を私に思い出させた。

描き始めてどれくらい経っただろうか。ふと、背後から微かな囁き声が聞こえた気がした。幻聴だろうか。こんな場所に私以外誰もいないはずだ。しかし、その声は私の意識の奥深くに直接語りかけるようで、脊髄を冷たい何かが這い上がった。私は震える手で振り返った。誰もいない。だが、確かな「気配」がそこに存在していた。ひゅう、と風が吹き込み、開け放たれた窓枠がガタガタと音を立てる。その拍子に、棚から古い木彫りの人形が床に落ち、耳障りな音を立てて砕け散った。

その瞬間、室内の空気が鉛のように重くなった。急に息が苦しくなり、心臓が警鐘のように激しく脈打つ。薄暗い部屋の奥から、何かがゆっくりとこちらへ向かってくる気配がした。恐怖で足がすくみ、声も出ない。視界の端で、影が蠢く。それは、人の形をしていない、しかし強烈な悪意を放つ、漆黒の塊だった。影は瞬く間に私の目の前に迫り、冷たい手が私の首を掴んだ。骨が軋む音と共に、呼吸が途絶える。視界が急速に暗転し、私の意識は暗闇へと沈んでいった。

――と、思った次の瞬間。私は再び窓辺に座っていた。スケッチブックは開かれたままで、炭はまだ指先に握られている。窓枠は静かで、棚には人形が完璧な形で鎮座している。先ほどの死は、夢だったのか? 否、首筋に残る痺れるような痛みと、胸に深く刻まれた恐怖の残滓が、それが現実だったと告げていた。私の心臓は、まだ異常な速さで脈打っている。一体、何が起こったのか。日常が覆される、あまりにも不可解で、恐ろしい出来事が、まさに今、私を飲み込もうとしていた。

第二章 繰り返される絶望の螺旋

「まさか……」

私の口から漏れた声は、震えていた。同じ光景、同じ時間、同じ体の感覚。私は間違いなく、先ほど死んだはずだ。しかし、またここにいる。頭が混乱し、思考がまとまらない。幻覚、幻聴、そして死。全てが現実離れしている。私は半信半疑のまま、洋館を探索し始めた。古いアトリエらしき部屋、埃を被ったグランドピアノのある広間、そして数々の寝室。どの部屋も過去の残像を抱え、私を睨みつけているようだった。

そして、再びそれは起こった。

私が二階の廊下を歩いていると、突然、床板が腐り落ち、私は真下の階へと真っ逆さまに落下した。背中を打ち付けた激痛、骨が砕けるような音、そして再び訪れる暗闇。

「まただ!」

目を開けると、私はまた、窓辺に座っていた。スケッチブックは開かれたまま、炭は指先に。まるで何事もなかったかのように。この悪夢は、一体何回繰り返されただろう。三度、四度、いや、もう数えきれない。私は特定のパターンで死を迎えることに気づいた。それは常に予期せぬ形で訪れ、抵抗する間もなく私の命を奪う。そして、次の瞬間にはまた、この窓辺へと戻されるのだ。

無限のループ。この絶望的な現実に、私の精神は徐々に摩耗していった。窓の外の景色は変わらない。時計の針は常に同じ時間を指している。私は時間を巻き戻す呪い、あるいは幻影に取り憑かれている。何度試みても、この館から出ることはできなかった。玄関のドアノブを回しても、窓を叩き割ろうとしても、私の意識は常にこの窓辺へと引き戻される。出口のない悪夢に閉じ込められた私は、現実と狂気の境界線を彷徨い始めた。

美月の声が聞こえる。幻聴だろう。私の名を呼ぶ、懐かしい声。しかし、その声には、助けを求めるような、悲痛な響きがあった。幻覚も鮮明になる。洋館の壁に、美月が描いたはずのない不気味な絵が浮かび上がる。それは私の心を深くえぐるような、絶望と後悔に満ちた色彩で彩られていた。脳裏にフラッシュバックするのは、美月との思い出。共に絵を描き、未来を語り合った日々。そして、突然訪れたあの交通事故。一瞬にして全てを奪い去られたあの日。私は彼女を救えなかった。その深い後悔が、私の心を蝕み続けていた。

「このループを終わらせなければならない」

私は固く決意した。このままでは、私の心は完全に壊れてしまう。ループの中で私は、何かの法則性があるはずだと考え始めた。死の直前に何が起きているのか。何がトリガーになっているのか。私は館の隅々まで注意深く探索し、ループの度に起こる微細な変化を見逃さないよう、五感を研ぎ澄ませた。そして、ある一つの場所が、私の意識を強く引き寄せていることに気づいた。二階の、最も奥まった一室。かつて美月が「私の秘密のアトリエ」と冗談めかして言っていた、陽の当たらない部屋だ。

第三章 緋色の絵が語る真実

私はその部屋の扉を開いた。黴と埃の匂いが鼻を突く。部屋の中央には、イーゼルに立てかけられた一枚の絵があった。それは、美月が描いていた途中の作品だった。荒々しい筆致で、しかし鮮烈な緋色で描かれたその絵は、この洋館の窓から見える、夕焼けに染まる風景だった。だが、絵の中の空は、希望に満ちた夕焼けではなく、まるで血を流しているかのような、悲痛な赤色で塗り込められていた。そして、絵の片隅には、美月のサインと、その下にごく小さな文字で、まるで隠すように「ごめんね、悠真」と書かれていた。

「美月……」

私は絵に触れた。その瞬間、私の頭の中に、まるで電流が走ったかのような感覚が広がった。美月の残された記憶が、絵を通して私に流れ込んでくる。それは、事故が起こる直前の美月の感情、彼女が私に伝えようとしていた言葉、そして、この洋館に込めた彼女の願いの断片だった。美月は、私の画業が伸び悩んでいた時期、私を励まそうと、この洋館を舞台にした「未来の二人のアトリエ」の夢を語っていた。そして、事故当日、私に会いに向かう途中で、この絵を完成させたいと強く願っていたのだ。

「ごめんね、悠真」

その言葉の意味を、私は今、理解した。美月は、私を励まそうとしていた。しかし、私にはそれが理解できなかった。私は美月の言葉を真摯に受け止めず、自分の不調にばかり目を向けていた。彼女の死は私の過失ではない。だが、私は彼女の最期の願いも、彼女の最後の努力も、何もかも見過ごしてしまった。その深い後悔と、彼女が私に残したかったはずの「願い」が、この洋館の持つ「記憶を反復させる力」と結びつき、私をこの無限のループに閉じ込めていたのだ。このループは、私に美月を救えなかった、あの日の後悔を何度も体験させ、美月の最後の願いを私に気づかせようとしていた。

恐怖の対象だったものが、実は愛の残滓だった。私の心臓は、激しい音を立てて脈打っていた。それは恐怖からではなく、深い悲しみと、そして、やるせなさからだ。私はこのループの中で、何度も死を経験し、狂気に蝕まれながらも、ついにその真実に辿り着いた。この絵は、美月が私に託した「最後の言葉」。このループを終わらせる唯一の方法は、美月が描ききれなかったこの「緋色の絵」を、私自身の手で完成させること。そして、その中に込められた彼女の真の願いを受け入れ、私が彼女を救えなかったという、あの日の後悔と、私自身の無力感を、心から許すことなのだと。私の価値観は、根底から揺らいだ。死の恐怖から逃れることだけが目的だった私が、今、愛する者の未練と、自己の赦しのために、筆を握ろうとしていた。

第四章 筆に込める贖罪

真実を知った悠真は、もはや恐怖に怯えることはなかった。彼の心は、無限のループの中で何度も死を経験したことによる疲弊よりも、美月への深い愛と、彼女が残した未練への贖罪の念で満たされていた。彼は緋色の絵の前に座り、震える手で筆を握った。絵の具の匂いが、過去の記憶を鮮やかに蘇らせる。

「美月、君が描きたかったのは、どんな空だったんだ?」

ループの中で、悠真はひたすら絵を描き続けた。最初は何を描けばいいのか分からなかった。美月の筆致を真似しようにも、彼女の心が見えない。何度も死を迎え、また窓辺に戻される。しかし、その繰り返しの中で、悠真は少しずつ美月の心の声を聞くようになっていった。目を閉じると、美月がそこにいるかのように、隣で囁いている。「悠真、この光は、もっと優しくしたいの」「この影の奥に、希望の青色を隠したいのよ」。

幻覚なのか、それとも美月の魂の残像が本当に語りかけているのか。悠真にはもう、どちらでもよかった。彼はただ、美月が表現したかったであろう、あの夕焼けの空を、この緋色の絵の上に描き加えていった。筆の動きは徐々に淀みがなくなり、美月の作品を再現するのではなく、美月の心を理解しようとする、悠真自身の魂の表現へと変わっていった。

ループが繰り返されるたび、悠真は新たな死を迎える。しかし、それはもはや彼にとって、絵を完成させるための、避けられない過程となっていた。ある時は、絵の具を探しに館の地下室へ向かい、落下する天井の下敷きになった。またある時は、集中しすぎたあまり、背後の怪奇現象に気づかず、冷たい刃に貫かれた。だが、目覚めるたびに、彼の心はさらに研ぎ澄まされ、筆の勢いは増していく。

美月との思い出が、色となって絵の中に蘇る。彼女と出会った日の、陽光まぶしいキャンパス。初めて二人で描いた、たどたどしいデッサン。そして、この洋館で、夢を語り合ったあの日の、柔らかな夕焼け。それはただの美化された記憶ではなかった。美月がこの洋館の絵に込めた、未来への希望、そして悠真への深い愛情。彼にはそれら全てが、手を取るように理解できるようになっていた。

緋色の空に、夕焼けの雲が浮かび上がる。悲劇的な赤色の上に、希望の青と、溶け合うような紫が混じり合う。それは、絶望だけではない、喪失の中に見出した美しさ、そして再生の兆しだった。絵は、美月が描きたかったであろう未来の二人の姿を映し出し、同時に、悠真が美月に伝えられなかった「ありがとう」と「ごめんね」の言葉を雄弁に物語っていた。

第五章 時が止まる場所で

悠真が最後の筆を置き、絵から離れた瞬間、アトリエの部屋は、それまでの冷たい暗闇とは打って変わって、温かい光に満たされた。緋色の絵は、もはや悲痛な叫びではなく、静かな、しかし力強い希望を湛えた作品へと変貌を遂げていた。夕焼けの空は、血の色ではなく、無限の可能性を秘めた、輝かしい未来の色を宿している。そして、絵の片隅にあった「ごめんね、悠真」の言葉は、まるで美月の手によって書き換えられたかのように、「ありがとう、悠真」へと変わっていた。

その瞬間、全てのループが止まった。

これまで何度も経験したはずの、死の恐怖も、繰り返される絶望も、全てが静かに消え去った。時計の針は、カチリ、と音を立てて動き始める。窓の外から差し込む光は、歪んだガラスを通しても、温かく、生命力に満ちていた。洋館の古びた空気は一掃され、清々しい風が吹き抜ける。まるで、長きにわたる呪縛から解放されたかのように、館全体が息を吹き返したかのようだった。

悠真は、美月が描きたかった絵を完成させた。それは、美月の未練を昇華させ、同時に、悠真自身の深い後悔をも癒やす行為だった。彼は緋色の絵を見つめながら、静かに涙を流した。それは悲しみの涙ではなく、過去を乗り越え、美月との本当の別れを受け入れられたことへの、感謝と解放の涙だった。美月は決して彼を責めていなかった。ただ、彼に、そして二人の夢に、再び光を見出してほしかったのだ。

悠真はイーゼルから絵を外し、ゆっくりと抱きしめた。絵の中の夕焼けは、彼の心の中にも、新たな光を灯していた。彼は、この洋館が、そして美月が、彼に与えようとしていたものが、ただのインスピレーションではなかったことを悟った。それは、失われた愛を慈しみ、自らを許し、再び未来へと歩み出すための、最後の贈り物だったのだ。

洋館を後にする時、悠真はもう迷っていなかった。彼は、美月と共に描きたかった夢を、今度は自分一人の手で、未来へと繋いでいく決意を固めていた。彼の手に握られたのは、美月の魂が宿る緋色の絵、そして、何よりも尊い、心の平穏と希望だった。時間の逆行は終わった。しかし、あのループの中で得た経験は、彼の人生に永遠に刻み込まれるだろう。時間は、私たちに過去を癒やす機会を与え、愛は、形を変えても、永遠に残り続ける。悠真は、その真理を、この反復する残像の館で、身をもって知ったのだ。

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