第一章 不協和音の住人
水島奏がその古い一軒家に引っ越してきたのは、初夏の気配がまだ肌寒い五月のことだった。不動産屋が提示した破格の家賃は、恋人を亡くし、ピアニストの夢を絶たれた彼女にとって、唯一の救いに思えた。東京の喧騒から逃れるようにしてたどり着った郊外の町。家は木々のざわめきに抱かれ、静寂だけが満ちていた。そのはずだった。
異変に気づいたのは、三日目の夜。荷解きを終え、インスタントコーヒーの苦味で虚無感を誤魔化していた時だ。シン、と静まり返ったリビングの闇の奥から、微かな「声」が聞こえた。それは言葉ではなかった。母音とも子音ともつかない、くぐもった音の断片。まるで、喉の奥で押し殺された嗚咽のようだ。
奏は息を呑み、耳を澄ます。気のせいか。疲れているのだろう。そう自分に言い聞かせたが、声は断続的に響き続けた。それは家の梁が軋む音でも、風が窓を揺らす音でもない。明らかに、生命の気配を帯びた、有機的な響きだった。
恐怖が背筋を冷たい指でなぞる。しかし、奏の心を占めたのは恐怖だけではなかった。その声の響きに、心の琴線を微かに震わせる、奇妙な懐かしさを覚えてしまったのだ。
翌朝、奏はさらに不可解な現象に遭遇する。ピアノが置かれた防音室――彼女が二度と開けることはないと思っていた部屋の前に、見覚えのある万年筆が一本、落ちていた。一年前に、交通事故で死んだ恋人、陽介が愛用していたものだ。なぜ、こんなところに。引越しの荷物に紛れていたのだろうか。だが、彼の遺品はすべて実家に送ったはずだった。奏がそれを拾い上げると、インクの掠れたペン先が、まるで何かを訴えかけるように鈍く光った。
その日から、怪奇現象は日常に溶け込み始めた。陽介が好きだった古いレコードが勝手に回りだしたり、彼の読みかけだった文庫本が枕元に置かれていたり。そして夜ごと、あの正体不明の声が、奏を呼ぶかのように家の中を彷徨うのだった。奏は逃げ出すべきか迷った。しかし、陽介の気配を感じさせるこの家から、どうしても離れることができなかった。恐怖と哀切がないまぜになった感情が、彼女をこの不協和音の家に縛り付けていた。
第二章 失われた和音
声は、決まってピアノ室の周辺で色濃くなることに、奏は気づいていた。事故で右手の神経を損傷して以来、ピアノの蓋は固く閉ざされたままだ。鍵盤に触れることは、陽介との幸福な記憶と、それを永遠に失った絶望を同時に呼び覚ます、あまりにも残酷な行為だったからだ。
しかし、あの声は、まるで閉ざされた奏の心そのものを叩いているかのようだった。ある晩、月光が鍵盤を青白く照らす部屋で、声はひときわ大きく、そして悲痛に響いた。それはまるで、奏でられることのない音楽を求める魂の叫びのようだった。
「陽介……あなたなの?」
奏は無意識に呟いていた。陽介の霊が、自分にピアノを弾いてほしくて、この家に留まっているのではないか。そう思うと、恐怖は薄れ、切ない愛しさが胸に込み上げてきた。
震える指で、ピアノの蓋を開ける。八十八の鍵盤が、静かな墓標のように並んでいた。奏は、かろうじて動く左手で、ぽつりと一つの音を鳴らした。澄んだ、けれど孤独な音が、闇に溶けていく。すると、それに応えるかのように、声の響きがふっと和らいだ。そして、いくつかの音が重なり、短い旋律のようなものを奏で始めたのだ。
そのメロディに、奏ははっとした。聴き覚えがある。それは、陽介が彼女のために作ってくれていた曲の断片だった。事故に遭う数日前、「奏へのプレゼントなんだ。完成したら、一番に聴かせるから」と、照れくさそうに笑っていた彼の顔が、鮮明に蘇る。
涙が鍵盤に落ちた。ああ、やはり陽介だったのだ。彼は未完成の曲を、私に完成させてほしいと願っているのだ。
奏は憑かれたようにピアノに向かった。動かしにくい右手を庇いながら、左手一本で、記憶の底にある陽介の旋律を懸命に辿っていく。彼女が音を紡ぐたびに、声はより明確なメロディを帯び、まるで二重奏のように部屋を満たした。失われたはずの和音が、死の境界を越えて、今ここに蘇った。奏は、陽介との再会を果たしたかのような多幸感に包まれていた。この曲を完成させれば、きっと彼の魂は満たされ、安らかに旅立ってくれるだろう。そう、信じて疑わなかった。
第三章 偽りのレクイエム
曲の完成が近づくにつれて、家の異変は激しさを増した。奏がピアノを弾いていると、本棚から本が雪崩のように落ち、窓ガラスがガタガタと激しく震えた。声は美しいメロディを奏でる一方で、その奥底に狂気的な執着と苦悶が混じり始めた。それは鎮魂歌(レクイエム)を喜ぶ響きではなく、むしろ、終わらせまいとする悲鳴のようだった。
「どうして……? 陽介、もうすぐ完成するのに」
奏は混乱した。陽介の魂を鎮めるための行為が、なぜ彼を苦しめているのか。絶望に打ちひしがれ、不動産屋に連絡を取ったのは、そんな時だった。何か、この家のことを知らないか。藁にもすがる思いだった。
電話口の老いた不動産屋は、しばらく黙り込んだ後、重い口を開いた。「……水島さん、あそこは『音無し屋敷』と呼ばれてましてな。あなたが入る前、もう十年以上も借り手がつかなかったんです」
彼の話は、奏の背筋を凍らせるには十分だった。かつてこの家には、ある家族が住んでいた。その家には、声帯に障害を持ち、言葉を話すことができない少年がいたという。厳格な父親は、息子の障害を恥じ、彼が物音ひとつ立てることを許さなかった。咳払いや、食器の触れ合うかすかな音でさえ、激しい折檻の対象となった。少年は、音のない世界で、息を潜めて生きるしかなかった。そしてある冬の日、誰にも気づかれることなく、屋根裏部屋で冷たくなっているのが見つかった。肺炎だったという。
奏は愕然とした。では、この家にいるのは陽介ではない? あの声は、メロディは、一体何だったのだ。
全てのピースが、恐ろしい形で繋がっていく。声の主は、音を渇望しながら死んでいった、名も知らぬ少年だったのだ。彼は、奏の記憶を覗き込み、最も美しく、最も心を揺さぶる「音」――陽介との思い出の曲を盗み出した。陽介の愛用品を出現させたのも、彼が陽介になりすまし、奏をこの家に縛り付け、永遠にその美しい音を独占するためだった。声が苦しげに聞こえたのは、言葉を発せない魂が、必死に歌を真似ようとしていたからだ。
奏が弾いていたのは、恋人のためのレクイエムではなかった。それは、孤独な少年の魂を繋ぎ止める、偽りの旋律だったのだ。激しいポルターガイストは、曲の完成――すなわち「音」の終わりを恐れた少年の、最後の抵抗だった。
ピアノの前に座る奏の背後で、声はひときわ甲高い、絶望の叫びとなって響き渡った。
第四章 夜明けのソナタ
真実を知った奏の心を支配したのは、恐怖ではなかった。それは、音のない世界でたった一人死んでいった少年への、痛いほどの憐憫だった。彼はただ、美しい音が欲しかっただけなのだ。生まれて初めて触れた幸福な音楽を、手放したくなかっただけなのだ。
奏は、陽介の曲を弾くのをぴたりとやめた。鍵盤に置かれた指が、微かに震える。背後で、少年の声が戸惑うように揺らぐのが分かった。
「ごめんね」奏は、誰もいない空間に向かって、静かに語りかけた。「あなたの気持ち、分かってあげられなくて。もう、陽介の曲は弾かない。でも、代わりに……あなたのための曲を弾くわ」
奏はそっと目を閉じた。そして、指が鍵盤の上を滑り始める。それは、陽介との思い出の曲ではない。楽譜のどこにも書かれていない、全く新しい旋律。複雑な和音も、華麗な技巧もない。ただ、優しく、暖かく、そして少しだけ物悲しい、子守唄のようなメロディだった。
それは、音を与えられる喜び。誰かに聴いてもらえる幸福。孤独な魂を抱きしめるような、慈しみに満ちた音だった。事故以来、痛みで強張っていたはずの右手が、嘘のように滑らかに動く。奏は、忘れていた感覚を取り戻していた。音を奏でることで、誰かの心を癒すことができるという、ピアニストとしての原点を。
激しく揺れていた家は、次第に静けさを取り戻していく。狂おしかった少年の声から、苦悶と執着が消え、まるで初めて安らぎを知ったかのような、澄んだ、穏やかな響きへと変わっていった。奏の目から、一筋の涙が頬を伝う。それは陽介を悼む涙ではなく、名も知らぬ少年の魂を、そして自分自身の魂を解放する涙だった。
やがて、東の空が白み始め、窓から朝の光が差し込む頃。最後の一音が静寂に溶けると同時に、声はふつりと消えた。永遠に続くかと思われた夜が、明けたのだ。
家は、本当の静寂を取り戻した。もう、不協和音の住人はいない。奏は、朝日の中で、自分の右手をそっと見つめた。傷跡は消えない。陽介を失った悲しみも、完全にはなくならないだろう。けれど、彼女の心は、罪悪感という重い鎖から解き放たれていた。
彼女はこれからも、ピアノを弾き続けるだろう。陽介が遺してくれた思い出の曲を、そして、孤独な魂に贈った夜明けの子守唄を胸に抱いて。音は、誰かを縛り付けるためではなく、誰かを救うためにあるのだから。奏は傷跡の残る右手をそっと撫で、静かに微笑んだ。それは、新たな人生の始まりを告げる、希望のソナタの第一楽章だった。