聞葬(きくそう)

聞葬(きくそう)

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***第一章 空音(そらね)の跫音(あしおと)***

桐谷修平の世界から、静寂が消えたのは一週間前のことだった。

音響デザイナーである彼にとって、音は仕事道具であり、創造の源であり、そして何より安らぎそのものだった。防音設備を完璧に整えた自室のスタジオで、特注のモニターヘッドホンを装着した瞬間、彼は外界から切り離された無音の聖域へと没入する。その静寂の中で、彼は映画の足音に命を吹き込み、CMの背景音に彩りを添えてきた。

異変は、いつものように深夜の作業中に訪れた。ヘッドホンの中に、微かなノイズが混じり始めたのだ。最初は「サー」というホワイトノイズに近い、取るに足らないものだった。機材の劣化か、あるいは単なる耳鳴りか。彼はさして気にも留めず、作業を続けた。

しかし、そのノイズは日を追うごとに、その存在感を増していった。砂嵐のように荒々しくなり、時にはガラスを爪で引っ掻くような、耳障りな高音へと変貌した。録音データを確認しても、波形に異常はない。ヘッドホンを替えても、ケーブルを交換しても、ノイズは彼の鼓膜にだけ執拗にこびりついて離れなかった。それは、彼の聖域を侵犯する、不快な寄生虫だった。

「……なんだ、これは」

ある晩、ノイズは新たな段階へと移行した。それはもはや無機質な雑音ではなかった。嵐の奥で、誰かが微かにすすり泣いている。そんな気がした。いや、気のせいではない。それは間違いなく、人の声の断片だった。苦痛に満ちた、絞り出すような声。

恐怖が、修平の背筋を冷たい手で撫で上げた。彼はヘッドホンを投げ捨て、喘ぐように息を吸い込む。心臓が警鐘のように鳴り響き、耳の奥では、外したはずのヘッドホンから漏れ聞こえるかのように、すすり泣きの残響がこだましていた。

スタジオは完全な無音のはずだ。それなのに、音は彼の頭蓋の内側で鳴り続けている。三年前、出ることのできなかった一本の電話。その日から彼の世界にこびりついた罪悪感が、ついに幻聴となって現れたのだろうか。彼は、数年前に亡くした妹・美咲のことを、振り払うように思い浮かべていた。

静寂は死んだ。彼の聖域は、正体不明の悲鳴がこだまする牢獄へと成り果てた。修平は、この空音の正体を突き止めるまで、もう二度と安らぎを得られないことを悟った。

***第二章 残響のコラージュ***

ノイズから逃れる術はなかった。仕事に集中しようとすれば、泣き声は嘲笑うかのようにボリュームを増し、眠りに就こうとすれば、耳元で苦しげな囁きが繰り返された。隈は深くなり、彼の作る音は精彩を欠いていった。クライアントからの叱責が、彼の心をさらに追い詰めていく。

彼は半ば狂乱状態で、音の発生源を探し始めた。ある仮説が、彼の脳裏に浮かんでいたからだ。――これは、この世のものではない声なのではないか、と。

ヘッドホンを装着したまま街を彷徨ううち、彼は奇妙な法則に気づいた。ノイズは、特定の場所で明らかに強くなる。それは例えば、子供たちの声が消えた夕暮れの公園だった。錆びたブランコに近づくと、「さむい」という少女のような声が、風の音に混じって聞こえてくる。交通事故の現場だったという交差点では、急ブレーキの軋む音と、「いたい」という掠れた呻きが、繰り返し再生された。

それはまるで、その土地に染み付いた「記憶の残響」を、彼の耳だけが拾っているかのようだった。彼は、自分が死者の最後の声を聴く、呪われた受信機になってしまったのだと確信した。

恐怖と同時に、奇妙な使命感が彼を駆り立てた。彼が聞いているのは、誰にも届かなかった最後の言葉、無念の叫びではないのか。音の専門家である自分が、この声を記録し、その意味を解き明かさなければならない。それは、罪悪感に苛まれる彼にとって、唯一の贖罪のように思えた。

彼は高性能マイクを持ち出し、声が強くなる場所で録音を試みた。だが、何度再生しても、そこに記録されているのは街の喧騒や風の音だけ。忌まわしい声は、彼の鼓膜と脳の間でのみ、悪夢のように鳴り響く。

「なぜ、俺なんだ……」

彼は集めた声の断片――「おかあさん」「くるしい」「ごめんね」――を、ノートに書き留めていった。それは、無数の悲劇から切り取られた、痛ましい言葉のコラージュだった。彼は、この声たちの供養をしなければならないと考え始めていた。それができれば、この呪いも解けるかもしれない。しかし、最も強く、最も鮮明に聞こえる声の発生源が、まだ特定できずにいた。それは、他のどの声とも違う、ひとき不明瞭でありながら、彼の心の芯を直接揺さぶるような、特別な響きを持っていた。

***第三章 聞きたくなかった福音***

その声の発生源は、灯台下暗し、というにはあまりにも皮肉な場所にあった。彼の自宅。彼のアパート。そして――かつて妹・美咲が使っていた、今は物置となっている部屋だった。

その部屋のドアを開けた瞬間、ヘッドホンの中のノイズが、これまで経験したことのないほどの音量で爆発した。耳をつんざくような絶叫と、嵐のような雑音が、彼の意識を刈り取ろうとする。彼はよろめきながらも、部屋の中央に置かれた古い段ボール箱に手をかけた。中には、美咲の遺品が詰まっている。彼女が大切にしていた日記、古びたぬいぐるみ、そして、彼女が最後に使っていたスマートフォン。

スマートフォンを手に取った瞬間、全てのノイズが嘘のように消え失せ、たった一つの声だけが、クリスタルクリアな音質で、彼の鼓膜に直接流れ込んできた。

『――お兄ちゃん?』

修平は息を呑んだ。美咲の声だ。三年前、交通事故で命を落とした、最愛の妹の声。

あの日、彼は締め切りに追われ、スタジオに籠っていた。鳴り響く着信音。ディスプレイに表示された「美咲」の文字。彼はそれを無視した。「あとでかけ直せばいい」。それが、彼が妹と交わした最後の、一方的な約束になった。彼女はその直後、交差点で信号無視の車にはねられたのだ。

もし、あの電話に出ていれば。何か、未来を変えられたのではないか。その「もしも」が、三年間、鉛のように彼の心に沈殿していた。

ヘッドホンから、美咲の声が続く。それは、彼が想像していたような、恨みや苦しみの声ではなかった。

『お兄ちゃん、聞こえる? あのね、今、友達と駅前にいるんだけど……』

穏やかで、少し楽しそうな、日常のトーン。修平は混乱した。これは、あの日の電話の再現なのか。

『……あ、そうだ。言わなきゃ。お兄ちゃん、最近ずっと無理してるでしょ。ちゃんと寝てる? ご飯、食べてる?』

心配そうな声色。違う。これは彼を責める声じゃない。

『私ね、この前、お兄ちゃんの作った映画、観に行ったんだよ。エンドロールで名前見つけて、すごく嬉しかった。自慢のお兄ちゃんだよ。だから、あんまり無理しないでね』

修平の目から、熱いものが込み上げてきた。涙が頬を伝い、顎の先からぽたぽたと床に落ちる。彼は、ずっと妹に責められていると思っていた。無視された電話の向こうで、助けを求めていたのだと。恨み言を叫んでいたのだと。

だが、違った。彼女はただ、兄を気遣っていたのだ。

そして、声は最後の言葉を紡ぐ。それは、彼の罪悪感が生み出した幻聴の壁を突き破り、彼の魂に届いた、真実の響きだった。

『……だからね、お兄ちゃん。私のことはもう、大丈夫だから。ごめんね、心配かけて。お仕事、頑張ってね。じゃあ、また――』

そこで、声は途切れた。その直後に、微かなブレーキ音と、短い悲鳴が聞こえた気がした。だが、それはもう重要ではなかった。

修平は、その場に崩れ落ちて号泣した。彼が聞いていた数々の「死者の声」。その多くは、彼自身の罪悪感と後悔が増幅させ、歪めて作り出した「心のノイズ」だったのだ。彼は、妹に許されたかった。だから、死者の声を聞くという贖罪の物語を無意識に作り上げ、その中で最も聞きたかった妹の赦しの声を、最も恐ろしい声として封じ込めていたのだ。聞きたかったのに、聞く資格がないと思っていた。その矛盾が、彼の世界を歪ませていた。

妹は彼を責めてなどいなかった。最後まで、ただ、彼を愛していた。

***第四章 世界の調律***

嗚咽が収まる頃、修平の世界からは、全ての不気味なノイズが消え去っていた。まるで分厚いフィルターが取り払われたかのように、世界の音が、ありのままの輪郭を取り戻していた。窓の外から聞こえる車の走行音、遠くで鳴くカラスの声、階下の住人の生活音。そのどれもが、不快な雑音ではなく、生命の営みが生む、温かいテクスチャーとして彼の耳に届いた。

彼は、美咲のスマートフォンをそっと胸に抱いた。

「……ごめん。ごめんな、美咲」

涙ながらに呟いた彼に、もう声は返ってこない。だが、それでよかった。彼は初めて、本当の意味で妹の死と向き合い、それを受け入れることができたのだ。彼がすべきだったのは、死者の声を供養することではなかった。妹の優しい想いを受け取り、自分自身を許し、前を向いて生きていくことだった。それこそが、最高の「聞葬」なのだと知った。

数ヶ月後、修平は音響デザイナーとして、新たな道を歩み始めていた。彼が作る音は、以前とは明らかに違っていた。ただ技術的に完璧なだけでなく、どこか人の心に寄り添うような、温かみと深みを帯びていた。彼は、音の向こう側にある人の感情を「聞く」ことができるようになっていた。

ある晴れた午後、彼はかつて「さむい」という声を聞いた公園を訪れた。ブランコでは、幼い少女が母親に背を押され、楽しそうに空へと足を伸ばしている。甲高い笑い声と、ブランコの軋む、規則正しいリズム。

修平は、その音に耳を澄ませた。そこに、かつて聞いたような悲しみの残響はない。ただ、今この瞬間を生きる親子の、幸福な時間が生み出す音が響いているだけだった。

彼は静かに微笑んだ。世界から悲しみが消えたわけではない。今もどこかで、誰にも届かない声が生まれているのかもしれない。しかし、彼はもう、過去の残響に囚われることはない。

彼は、今を生きる人々の声を聞く。喜びも、悲しみも、その全てをありのままに受け止める。そして、その想いを掬い上げ、自らの音に乗せて、世界を少しだけ優しく調律していくのだ。

ヘッドホンを外し、修平は目を閉じた。風の音、木々の葉擦れ、遠い街の喧騒。その全てが混じり合った世界のハーモニーの中に、彼は確かに、今は亡き妹の優しい微笑みを感じていた。

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