***第一章 栞の中の亡霊***
古書店の空気に、俺は救われていた。紙魚(しみ)が這った跡のある背表紙、埃とインクが混じり合った独特の匂い、そして窓から差し込む午後の光が作り出す静寂。人との関わりを極力避け、過去の残骸のような書物たちと対話する日々は、倉田湊という俺の空っぽの器を、かろうじて満たしてくれていた。
その均衡が崩れたのは、梅雨の晴れ間の、湿った風が吹く日のことだった。
ドアベルがちりんと鳴り、一人の女性が入ってきた。年の頃は二十代後半だろうか。雨に濡れた紫陽花のような、儚さと強い意志を同居させた瞳が印象的だった。彼女は店内をゆっくりと見渡すと、まっすぐに俺のいるカウンターへやってきた。
「あの、一冊の本を探しています」
鈴を転がすような、けれどどこか切迫した声だった。彼女――早坂葉月(はやさか はづき)と名乗った――が探しているのは、マイナーな詩人が自費出版した『海鳴りの詩集』という小さな本だった。それは、祖父の遺品の中に紛れ込んでいたもので、店の奥の非売品棚にひっそりと眠っているはずだ。
「申し訳ありませんが、それは非売品でして」
俺が事務的に断ると、彼女は縋るような目で俺を見た。その瞳の奥に揺らめく光は、単なるコレクターの熱意とは異質のものだった。
「お願いです。お金ならいくらでも……。これは、行方不明になった私の姉を見つけるための、唯一の手がかりなんです」
姉、という言葉に、俺の心臓が微かに軋んだ。葉月の話によれば、一年前に突然姿を消した姉が、最後に読んでいたのがその詩集だという。そして、詩集の中には、姉が残したと思われる奇妙な書き込みがいくつもあるらしい。それは、まるで誰かに宛てた暗号のようだと。
俺は躊躇した。他人の深い事情に首を突っ込むのは、最も避けてきたことだ。しかし、彼女の瞳の奥にある、出口のない悲しみの色に、俺は抗うことができなかった。それは、かつて俺自身が抱えていた感情とよく似ていた。
店の奥から、埃を被った『海鳴りの詩集』を運び出す。古びた栞が挟まれたページを開くと、そこには青いインクで書かれた、震えるような文字があった。
『最初の灯火は、記憶の港に』
それは詩の一節でも、注釈でもない。明らかに、誰かが意図して残した言葉だった。葉月はそれを見るなり、息を呑んだ。
「姉の字です……」
彼女の震える指先が、そのインクの跡をそっと撫でた。その瞬間、俺はもう、この物語から降りられないことを悟っていた。古書の静寂は破られ、俺は生身の人間の、湿った哀しみの渦へと引きずり込まれようとしていた。
***第二章 偽りの足跡***
『記憶の港』がどこを指すのか、見当をつけるのはそう難しくなかった。詩集の作者は、葉月の故郷でもある寂れた港町で晩年を過ごしている。俺たちは、翌日にはその町へ向かっていた。錆びたトタン屋根が続く漁師町の空気は、潮の香りと、取り残された時間の匂いがした。
「姉は、この町の空が好きだと言っていました。いつも何かを探すように、空ばかり見ていた」
海沿いの道を歩きながら、葉月がぽつりと言った。彼女の横顔は、陽光の下でいっそう儚く見えた。俺たちは詩集の書き込みを頼りに、古い喫茶店や、廃線になった駅のホームを訪ね歩いた。そこには決まって、姉の痕跡を示すかのように、次の場所を示唆する新たな書き込みと同じ、青いインクで描かれた小さな鳥の絵が残されていた。まるで、俺たちを導くためのパンくずのように。
葉月と行動を共にするうち、俺の心に微かな変化が生まれていることに気づいていた。彼女のひたむきさ、時折見せる寂しげな表情、そして不意に見せる屈託のない笑顔。人を信じることをやめて久しい俺の心が、少しずつ解かされていくのを感じた。この謎を解き明かした先で、彼女の本当の笑顔が見られるのなら、とさえ思い始めていた。
だが、旅が進むにつれて、奇妙な違和感が影のように付きまとい始めた。俺たちの後を、一台の黒いセダンがつけているような気がするのだ。気のせいかと思おうとしても、バックミラーに映るその姿は、執拗に距離を保っていた。
そして、ある図書館で次の手がかりを探していた時、俺は見てしまった。葉月が、誰かと携帯で小声で話しているのを。その表情は、俺に見せる顔とは全く違っていた。焦燥と、何かを隠そうとする必死さが滲んでいた。
「……ええ、まだ。でも、もうすぐ……。大丈夫、彼には何も気づかれていないから」
電話を切った彼女は、俺の視線に気づくと、ハッとしたように顔を強張らせ、すぐにいつもの儚げな笑顔に戻った。
「ごめんなさい、知り合いから。さあ、次の場所が分かりましたよ」
彼女の言葉は、まるでひび割れたガラスのように、危うい輝きを放っていた。俺の胸に、冷たい疑念の染みが広がっていく。彼女は、一体何を隠しているんだ? この旅は、本当に姉を探すためのものなのか? 俺は、彼女の悲しみに満ちた物語の、都合のいい登場人物にされているだけなのではないか。
***第三章 灯台の告白***
最後の暗号が示していたのは、港を見下ろす崖の上に立つ、白い灯台だった。そこは、俺が幼い頃、本好きの祖父に連れられてよく来た場所でもあった。螺旋階段を上る足音が、壁に反響して不気味に響く。俺と葉月の間には、重苦しい沈黙が流れていた。俺の心は疑念で凍てつき、彼女の表情はこれまでになく追いつめられているように見えた。
灯台の頂上、展望室の隅に、それは置かれていた。一冊の古びた日記帳。表紙には、詩集の書き込みと同じ青いインクで、彼女の姉の名前――早坂美月(みつき)――と記されていた。
葉月が震える手で日記を開く。俺は固唾を飲んで、その横顔を見つめていた。ページをめくる彼女の瞳が、みるみるうちに絶望の色に染まっていく。やがて、彼女の手から日記が滑り落ち、乾いた音を立てて床に転がった。
「……嘘」
絞り出すような声だった。俺は日記を拾い上げ、開かれたページに目を落とした。そこに綴られていたのは、俺の予想を遥かに超える、残酷な真実だった。
葉月の姉、美月は、行方不明なのではない。二年前に、この近くの崖で起きた車の転落事故で、すでに亡くなっていたのだ。
そして、その事故の夜、ハンドルを握っていたのは――葉月、本人だった。
『葉月を庇って、私が運転していたことにする。あの子は悪くない。ただ、少し疲れていただけ』
日記の最後のページには、姉の、妹を想う悲痛な言葉が残されていた。葉月は、自分が引き起こした事故で姉を死なせてしまったという罪悪感に耐えきれず、その記憶に蓋をしていたのだ。彼女の心は、姉がどこかで生きているという妄想を作り出し、姉との思い出の品である詩集の書き込みを、姉からのメッセージだと信じ込むことで、かろうじて正気を保っていた。詩集の書き込みも、各地に残された青い鳥の絵も、すべては彼女自身が無意識のうちに行ったことだった。
「……どうして、嘘を」俺の声は、自分でも驚くほど冷たく響いた。
葉月は崩れ落ちるように床に座り込み、嗚咽を漏らした。「ごめんなさい……ごめんなさい……。でも、そうでもしないと、私は……息もできなかった……」
その時、灯台の入り口から一人の男が姿を現した。俺たちを尾行していた黒いセダンの運転手だ。彼は静かに葉月に歩み寄ると、心配そうにその肩に手を置いた。
「早坂さん、もう終わりにしましょう」
男は、葉月のカウンセラーだと名乗った。彼女の危険な「旅」を止められず、万が一のために見守っていたのだという。
全てが、偽りだった。姉探しの旅も、彼女の悲しみも、俺が抱き始めた淡い想いさえも、巨大な虚構の舞台の上で演じられていただけだったのか。俺は、人を信じた自分を嘲笑うかのように、唇の端を歪めた。過去に友人を信じ、裏切られたあの日の痛みが、鮮やかに蘇る。もう二度と、こんな思いはしないと誓ったはずなのに。
俺は踵を返し、この茶番から立ち去ろうとした。だが、背後から聞こえてくる、心をえぐられるような彼女の泣き声が、俺の足を縫い付けた。
***第四章 夜明けの約束***
灯台の出口に立ったまま、俺は動けずにいた。背後では、カウンセラーが葉月を慰める声と、彼女の途切れ途切れの嗚咽が続いている。
逃げ出すのは簡単だった。裏切られた、と吐き捨てて、再び古書の静寂に閉じこもればいい。だが、俺の脳裏に、旅の途中で見せた彼女の笑顔が浮かんで消えなかった。偽りの旅路の中で見せたあの笑顔は、本当に嘘だったのだろうか。いや、違う。あの笑顔だけは、本物だったはずだ。姉との思い出の地を巡ることで、彼女は束の間、本当に幸せだったのだ。
俺はゆっくりと振り返り、彼女のもとへ歩み寄った。そして、カウンセラーの隣にしゃがみ込むと、震える彼女の肩にそっと触れた。
「君の嘘は、君自身を生かすための、悲しい真実だったんだ」
俺の言葉に、葉月はハッと顔を上げた。涙で濡れた瞳が、驚きに見開かれている。
「君が作り出した物語は、終わったかもしれない。でも……君自身の物語は、ここから始まるんだ。一人で背負うな。姉さんも、きっとそれを望んでいる」
それは、かつて友人を信じきれずに失った俺が、自分自身に言い聞かせたかった言葉でもあった。葉月の歪んだ真実と向き合うことで、俺は初めて、自分の過去の傷と向き合うことができたのだ。
彼女の瞳から、再び大粒の涙が溢れ落ちた。だが、それは先ほどまでの絶望の涙とは違い、どこか温かい色をしていた。
数ヶ月後。俺の古書店に、葉月が訪れた。以前よりも少しだけ頬がふっくらとし、その表情には穏やかな光が宿っていた。彼女はカウンセリングを続けながら、少しずつ姉の死と向き合い、現実の時間を歩み始めているという。
「倉田さん、本当にありがとうございました」
深々と頭を下げる彼女に、俺はいつものようにぶっきらぼうに返すことしかできなかった。
「……別に。俺は、ただ古本屋の店主だからな」
彼女は小さく笑うと、「また来ます」と言って店を出ていった。ドアベルの音が、澄んだ余韻を残す。
俺は一冊の文庫本を手に取り、そのページをめくった。インクの匂いと古紙の感触が、不思議と心地いい。人は嘘をつく。弱くて、脆くて、自分を守るために物語を作り出す。だが、その偽りの物語の中にこそ、時にどうしようもなく切実な真実が隠されているのかもしれない。
窓の外では、あの日のような湿った風が吹いていた。俺は、もう一度、人を信じてみようと思った。たとえその先に、どんな結末が待っていたとしても。栞の残響が、そう囁いている気がした。
残響の栞
文字サイズ:
この物語の「続き」をAIと創る ベータ版
あなたのアイデアで、この物語の別の結末や後日譚を生成してみませんか?
0 / 200
本日、あと3回