時の修復師

時の修復師

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***第一章 砕けた瑠璃の夢***

水島怜(みずしま れい)の世界は、静寂と、微細な音だけで構成されていた。陶磁器修復家である彼女の仕事場は、博物館の地下深くにある。空調の低い唸り、ピンセットが陶片をそっと掴む金属音、そして時折、怜自身の抑制された呼吸の音。彼女は、砕けた過去の欠片を繋ぎ合わせ、失われた「時」を現代に呼び戻すことを生業としていた。

怜は仕事に没頭している時だけ、本当の自分になれる気がした。三十歳を過ぎ、人並みに恋もしたが、心に深い傷を負って以来、他者との間に見えない壁を築いて生きてきた。他人の感情の機微に触れるのが怖い。だから、言葉を発しない陶器を相手にするこの仕事は、彼女にとって聖域だった。

その日、彼女の前に置かれたのは、古びた桐の箱だった。中には、土にまみれた無数の陶片が、まるで眠るように収められている。平安時代の地層から出土した、名もなき水差し。学芸員の説明によれば、特筆すべき来歴はないが、一部に残る瑠璃色のガラス装飾が極めて珍しいのだという。

「頼んだよ、水島さん。君の魔法で、この子に再び命を吹き込んでやってくれ」

先輩の言葉に曖昧に頷き、怜は一人、作業灯の下で陶片と向き合った。まずは洗浄からだ。刷毛でそっと土を払い、ぬるま湯で丁寧に汚れを落としていく。指先が、ひときわ大きな破片に触れた、その瞬間だった。

――ぐにゃり、と視界が歪んだ。

目の前の陶片ではなく、夕闇に染まる庭が見えた。風に揺れる萩の花。遠くから聞こえる、切ない琴の音色。そして、若い女のすすり泣く声が、脳内に直接響いてくるような感覚。
「…っ!」
怜は思わず手を引いた。幻覚? 疲れているのだろうか。しかし、指先に残る感触は妙に生々しい。冷たい陶器の肌触りではなく、まるで誰かの涙に濡れたような、微かな温もりを感じたのだ。
壁に立てかけた恋人、拓也との写真が目に入る。優しい笑顔。だが、その笑顔に応えられない自分がいる。彼との関係も、いつかはこの陶器のように砕けてしまうのではないか。そんな不安が、胸を冷たく締め付けた。
怜は深呼吸を一つすると、再び陶片を手に取った。気のせいだ、と自分に言い聞かせながら。だが、彼女はまだ知らなかった。その砕けた瑠璃色の夢が、自分の人生そのものを根底から揺るがす、千年の時を超えた物語の始まりであることを。

***第二章 満ちる器、重なる影***

修復作業は、パズルを組み立てるように進んでいった。破片の断面を顕微鏡で観察し、元の形を推測しながら、一つ、また一つと接着していく。怜の集中力は、研ぎ澄まされた刃物のように鋭かった。しかし、彼女を悩ませたのは、技術的な困難さではなかった。

陶片に触れるたびに流れ込んでくる、断片的なビジョン。それは日を追うごとに鮮明になり、一つの物語を紡ぎ始めていた。
――月明かりの差す縁側で、身分の高い美しい姫が、一人の青年と密会している。青年は、この水差しを作った陶工らしかった。彼の無骨だが優しい手が、姫の華奢な手を包み込む。二人の間に言葉はない。ただ、見つめ合う瞳が、許されぬ恋の熱と切なさを物語っていた。水差しは、二人が想いを交わすための、唯一の秘密の器だった。

「…なんて、馬鹿げてる」
怜は呟き、作業を中断してコーヒーを淹れた。これは感傷だ。孤独な修復家が、古い陶器に勝手な物語を投影しているに過ぎない。そう結論付けようとしても、ビジョンの中の姫の表情が脳裏に焼き付いて離れなかった。愛する人を前にした時の、あの不安と歓喜が入り混じった顔。それは、怜がとうの昔に失ってしまった感情だった。

その夜、拓也が怜のアパートを訪ねてきた。
「最近、疲れてるんじゃないか? 無理するなよ」
彼は怜の顔を覗き込み、心から心配そうな声で言った。その優しさが、怜にはかえって苦しかった。彼に甘えたい。でも、心を完全に開くことができない。もし、この関係が壊れたら? その恐怖が、彼女の唇を固く結ばせた。
「大丈夫。ちょっと仕事が立て込んでるだけだから」
そう言って微笑む自分の顔が、まるで仮面のように感じられた。拓也は寂しそうに笑うと、それ以上は何も言わなかった。

部屋に戻り、怜は作業台の上の、少しずつ形を取り戻していく水差しを見た。器が満ちていくように、彼女の中にも、名も知らぬ姫の感情が満ちていく。姫は、身分違いの恋という、抗いがたい運命にどう向き合ったのだろう。それに比べて、自分はどうだ。ただ失うことを恐れて、一歩も踏み出せずにいるだけではないか。
怜の心に、これまで感じたことのない焦燥感が生まれていた。まるで、遠い過去の誰かの影が、自分の臆病な心に重なって、早く前へ進めと急かしているようだった。

***第三章 千年の血脈***

水差しの修復は、最終段階を迎えていた。残る破片はあと一つ。胴体の一番膨らんだ部分にはめる、瑠璃色の装飾が施された、最も美しい欠片だ。怜はピンセットで慎重にそれを掴み、接着剤を塗布した。パズルの最後のピースをはめるように、ぴたりと収まるはずだった。

その破片が、定位置に触れた瞬間――。
怜の世界は、音もなく反転した。

これまでで最も強烈なビジョンが、嵐のように彼女を飲み込んだ。それは恋人たちの甘い逢瀬ではなかった。燃え盛る屋敷。鳴り響く鬨の声。戦乱だ。陶工の青年は、姫を逃がすために奮戦し、敵の刃に倒れた。血に染まる彼の最期の顔が、脳裏に焼き付く。

悲劇はそれで終わりではなかった。悲しみに打ちひしがれる姫。しかし、彼女は自らの腹に新しい命が宿っていることに気づく。青年の忘れ形見。絶望の淵で、彼女は驚くべき決意をする。死ぬのではない、生きるのだ、と。身分も名前も捨て、この子を育てる。それが、愛した人への何よりの供養であり、未来への誓いだと。

ビジョンは数十年を飛び越えた。すっかり老婆となった姫が、自分の孫と思しき幼い少女に、修復された水差しを見せながら語りかけている。その声は、老婆のものとは思えぬほど、凛としていた。
『いいかい。これはね、ただの器じゃない。悲しみを乗り越え、命を繋いできた、私たちの誇りの証なんだよ。どんな辛いことがあっても、お前は一人じゃない。千の夜を超えて、たくさんの想いが、お前を見守っているんだからね』

その言葉を聞いた瞬間、怜は全身に鳥肌が立つのを感じた。雷に打たれたような衝撃。
――『千の夜を超えて、想いは繋がる』。
それは、怜の祖母が亡くなる前に、彼女の手を握って遺した言葉と、一字一句違わぬものだった。水島家に、まるで家訓のように、母から子へと受け継がれてきた言葉。

まさか。そんなはずはない。
怜は震える手でスマートフォンを取り出し、実家の母に電話をかけた。自分の家のルーツについて、知っていることを全て教えてほしい、と。母は訝しみながらも、古い戸籍や過去帳を調べてくれた。そして数日後、信じられない事実が判明する。水島家の遠い祖先を辿ると、平安末期の動乱で行方不明となった、ある公家の姫の名に行き着くというのだ。歴史の闇に消えたとされていた、一人の女性。

怜は、愕然として作業台の上の水差しを見た。
これは、ただの出土品などではない。
自分が修復していたのは、歴史の片隅で忘れ去られた遺物ではなく、幾多の困難を乗り越えて自分という存在にまで命を繋いでくれた、遠い、遠い、祖先の魂そのものだったのだ。自分の体には、あの姫の血が、そして名もなき陶工の血が、確かに流れている。

価値観が、音を立てて崩れ落ちた。歴史とは、教科書の中の他人事ではない。自分自身へと続く、壮大な血の物語なのだ。涙が、止めどなく頬を伝った。それは千年の時を超えて、ようやく怜の心に届いた、遠い祖先の琥珀色の涙だったのかもしれない。

***第四章 声なき声***

完成した水差しは、博物館の特別展示室、柔らかな照明が当たるガラスケースの中央に収められた。手のひらに乗るほどの小さな器は、しかし、比類なき存在感を放っていた。胴にあしらわれた瑠璃色の装飾が、まるで呼吸をするかのように、深く、静かな光をたたえている。

大勢の観覧客が、その前を通り過ぎていく。彼らにとって、それは数ある展示品の一つに過ぎないだろう。キャプションに記された「平安時代・作者不詳」という無味乾燥な文字を読むだけだ。
だが、怜には聞こえていた。いや、感じていた。
ガラスケースの向こうから、声なき声が響いてくるのを。
それは、励ましだった。祝福だった。どんな困難があっても、あなたは一人ではない、と。未来を恐れるな、と。千年の時を超えて、数え切れぬほどの先祖たちが、自分の背中を押してくれているような、力強い感覚だった。

博物館を出た怜は、空を見上げた。都会のビル群の隙間から見える空は狭いが、どこまでも青く澄み渡っている。彼女はスマートフォンを取り出し、拓也に電話をかけた。数回のコールの後、彼の少し不安そうな声が聞こえる。

「もしもし、怜? どうした?」
「拓也さん。今夜、会えないかな。伝えたいことがあるの」

怜の声には、もう迷いはなかった。失うことを恐れて心を閉ざしていた、かつての自分はもういない。自分の命が、どれほどの奇跡と想いの上に成り立っているかを知った今、目の前にある愛おしい時間を、これ以上無駄にすることはできなかった。

後日、怜は再びあの展示室を訪れた。ガラスケースの中で、水差しは静かに佇んでいる。それはもう、怜に個人的なビジョンを見せることはない。役目を終えたかのように、ただの美しい古代の器として、そこに在るだけだ。
しかし、それでよかった。
怜はガラスにそっと指先で触れた。
ありがとう、と心の中で呟く。
過去は、決して消え去るものではない。それは歴史となり、血となり、私たちの内側で生き続けている。そして時として、砕けた器の形を借りて、未来に生きる私たちに、最も大切なことを教えてくれるのだ。
静かな水差しは、これからも何百年、何千年と、声なき声で物語り続けるだろう。愛と、喪失と、それでも未来へと命を繋いだ人々の、気高い誇りの物語を。

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