恐怖喰らいの鎮魂歌

恐怖喰らいの鎮魂歌

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第一章 夜霧の味

月が剃刀のように細い光を落とす夜、俺、神崎凪(かんざき なぎ)は飢えを抱えて街を彷徨う。腹が減っているのではない。魂が、もっと深く根源的な何かが、ひどく渇いているのだ。俺の目には、この世界のありふれた風景とは別に、もう一つの景色が見えている。人々の心から立ち上る、感情の霧。その中でも俺が求めるのは、ただ一つ。「恐怖」という名の、濃密な霧だけだ。

それは、様々な色と匂い、そして味を持つ。通り魔の噂に怯える女子高生の肩からは、錆びた鉄の匂いがする冷たい灰色の霧が立ち上る。悪夢にうなされる子供の部屋の窓からは、粘りつくような甘い香りのする紫色の霧が漏れ出ている。俺はそれにそっと近づき、深く息を吸い込む。霧が肺を満たすと、言いようのない安らぎと、微かな多幸感が全身を駆け巡る。恐怖を吸い取られた人間は、何が起きたかを知る由もなく、ふっと肩の力を抜き、安堵のため息をつく。

俺は、自分を一種の掃除屋か、あるいはセラピストのようなものだと思っていた。人々を苦しみから解放し、その対価として心の糧を得る。ウィンウィンな関係じゃないか。そう信じていた。少なくとも、最近までは。

ここ数ヶ月、どうにも満たされないのだ。かつては子供の見る悪夢一つで三日は満腹でいられたのに、今では通り一遍の恐怖では、舌先を濡らす程度の刺激にしかならない。味が薄い。深みがない。まるで水で薄めたスープをすするような虚しさだけが残る。俺の渇きは日増しに強くなり、より純粋で、濃密で、深淵な恐怖を求めるようになっていた。それはもはや、生存のための食事ではなく、美食家の舌を満足させるための、飽くなき探求に変わりつつあった。

そんな飢えを抱えた俺の嗅覚が、ある晩、とてつもない「獲物」を捉えた。古い木造アパートが密集する一角。その二階の一室から、まるで底なし沼のようにどす黒く、重たい恐怖の霧が澱んでいた。それは俺がこれまで嗅いだことのない、熟成された葡萄酒のような、濃厚で複雑な香りを放っていた。全身の細胞が歓喜に打ち震えるのを感じながら、俺は錆びた外階段を、音を殺して上っていった。この扉の向こうに、俺の渇きを癒す、至高の饗宴が待っている。そう確信していた。

第二章 尽きない泉

ドアノブに手をかけると、鍵はかかっていなかった。軋む音を立てて開いた先の薄暗い部屋には、古い家具と黴の匂いが満ちていた。その部屋の隅、固く閉ざされたカーテンの前に、小さな人影がうずくまっていた。老婆だ。彼女、伊藤千代(いとう ちよ)さんからは、俺の喉を鳴らすほどの、極上の恐怖が絶え間なく湧き出ていた。それは、死そのものへの本源的な恐怖に似ていた。冷たく、重く、どこまでも深い。

「ど、どなたかね…?」

老婆のかすれた声が、室内の埃を震わせた。俺は慌てて人好きのする笑みを浮かべ、民生委員を装って部屋に入った。

「ごめんください、おばあちゃん。この辺りを見回っておりまして。お加減はいかがですか?」

千代さんは怯えた目で俺を見上げたが、俺が纏う穏やかな雰囲気に少しだけ警戒を解いたようだった。彼女の恐怖は、部屋の隅の暗闇、その一点に向けられていた。まるで、そこに何か得体の知れないものが潜んでいるとでも言うように。

俺はその日、彼女の恐怖をほんの少しだけ「味見」した。指先で掬うように、ほんの一筋だけを吸い込む。舌の上で転がすと、それは百年物の古酒のように芳醇で、脳髄を痺れさせるほどの衝撃があった。全身が歓喜に打ち震え、渇ききった魂が潤っていくのが分かった。

それから、俺は毎日千代さんの部屋に通うようになった。他愛もない世間話をしながら、少しずつ、少しずつ、彼女の恐怖を味わう。千代さんは、俺を話し相手になってくれる心優しい青年だと信じ込んでいるようだった。俺がそばにいると、不思議と心が安らぐのだと言う。当たり前だ。俺が彼女の恐怖を食べてやっているのだから。

しかし、奇妙なことが一つあった。彼女の恐怖は、いくら食べても尽きることがないのだ。まるで無限に湧き出る泉のように、翌日訪れると、また新鮮で濃密な恐怖が彼女の全身を包んでいる。俺は次第に、この至高の味を独り占めしたいという、黒い独占欲に駆られていった。他の誰にも渡したくない。この恐怖の泉は、俺だけのものだ。

彼女が何に怯えているのか、俺はあえて聞かなかった。原因が分かってしまえば、この極上の恐怖が消えてしまうかもしれないからだ。俺はただ、原因不明の恐怖に永遠に苛まれ続ける彼女のそばで、その蜜を吸い続けたいと願っていた。俺は救済者なんかじゃない。ただの寄生虫だ。その自覚はあったが、一度知ってしまったこの味をやめることなど、到底できそうになかった。

第三章 空腹の正体

一月ほど経った嵐の夜、俺の渇望は頂点に達した。雷鳴が轟く中、千代さんの恐怖はいつも以上に濃度を増し、部屋全体を支配していた。もう我慢の限界だった。少しずつ味わうなんてまどろっこしい。この恐怖の全てを、今すぐ、俺のものにしたい。

「千代さん、大丈夫。俺が、その恐怖を全部なくしてあげますから」

俺は彼女の震える肩に手を置き、決意を込めて言った。そして、これまでで最も深く、長く、息を吸い込んだ。部屋に渦巻く、どす黒い霧が、巨大な渦となって俺の口の中に流れ込んでくる。脳が焼き切れそうなほどの快楽と、魂が満たされていく全能感。俺は恍惚としながら、最後の一滴まで、彼女の恐怖を吸い尽くした。

霧が完全に晴れた瞬間、部屋には静寂が訪れた。嵐の音さえも遠くに聞こえる。俺は満足のため息をつき、千代さんを見た。彼女はきっと、長年の苦しみから解放され、感謝の涙を流しているだろう。

だが、千代さんは泣いていなかった。

彼女はゆっくりと顔を上げた。その顔から恐怖の色は完全に消え失せ、代わりに、虚ろで不気味な微笑みが浮かんでいた。皺だらけの唇が、ゆっくりと動く。

「ああ……やっと、お腹が空いたわ」

ぞくり、と背筋に氷を突き立てられたような悪寒が走った。何を言っているんだ、この老婆は。俺が彼女の恐怖を全て取り除いたはずだ。安堵するべき場面で、なぜそんなことを言う?

千代さんは、俺の混乱を愉しむかのように、くつくつと喉の奥で笑った。そして、彼女がずっと怯えていた部屋の隅の暗闇を指さした。

「坊や、ありがとうねえ。あの子、ずっとお腹を空かせていたのよ。あんたが毎日、少しずつ餌をやってくれたおかげで、こんなに大きくなった」

暗闇が、もぞりと動いた。それは比喩ではなかった。闇そのものが、一つの生命体であるかのように脈動し、形を成していく。そこから現れたのは、言葉では到底表現できない、「何か」だった。それは俺がこれまで食べてきた、ありとあらゆる恐怖の残滓が凝縮し、悪意を持って練り上げられたような、混沌とした塊。錆びた鉄の匂い、腐った甘い香り、無数の苦悶の表情が溶け合った、名状しがたい怪物。

俺は悟った。千代さんは何かに怯えていたのではなかった。彼女は、自らの中に「恐怖」を飼っていたのだ。彼女自身が、恐怖を餌にして生きる、あるいは「何か」を育てるための器だったのだ。俺は彼女を救っていたのではなかった。俺はただ、彼女が飼う怪物のために、餌を与え続けていただけの、愚かな給餌係に過ぎなかったのだ。

「あんたのその『渇き』、あの子には極上の餌だったのさ」

千代さんの笑い声が、怪物の低い呻き声と重なった。俺が育て上げた怪物が、今、飢えきった目で、俺を見つめていた。

第四章 最後の晩餐

目の前に立つソレは、紛れもなく俺自身の写し鏡だった。俺が味わい、貪り、渇望してきた全ての恐怖の集合体。俺の歪んだ欲望が、千代さんという培養基の中で受肉した姿。俺は善行を施しているつもりの、ただの捕食者だった。人々から恐怖を奪い、己の空腹を満たすことだけを考えてきた、独りよがりな怪物。真の怪物は、一体どちらだったのか。

逃げ出すこともできただろう。しかし、俺の足は床に縫い付けられたように動かなかった。動かなかったのではない。動きたくなかったのだ。

なぜなら、その怪物が放つ気配は、俺が人生をかけて探し求めてきた、究極の「恐怖」そのものだったからだ。純度100%の、他の何ものも混じらない、絶対的な死と絶望の香り。それは、俺の魂を根こそぎ震わせる、至高の味。

怪物がゆっくりとこちらににじり寄ってくる。その輪郭のない体から、無数の手が伸び、俺の体に絡みつこうとする。もはや千代さんの姿は見えない。彼女もまた、この怪物の一部と化したのかもしれない。

ああ、これが、俺が求めていたものだったのか。他人の恐怖を中途半端に味わうのではなく、自分自身が恐怖そのものに喰われること。それが、この渇きの本当の終着点だったのか。

俺は全てを理解した。そして、全てを受け入れた。

迫りくる混沌を前に、俺は静かに目を閉じ、深く、深く息を吸った。人生で最後の、そして最高の食事。

「いただきます」

俺の唇から漏れたのは、恐怖の悲鳴ではなく、満ち足りた感謝の言葉だった。

意識が遠のく最後の瞬間、俺が感じたのは、恐怖ではなかった。それは、長きにわたる飢えからついに解放される、至福の安らぎだった。

嵐はいつしか止み、細い月明かりが、空っぽになった部屋を静かに照らしていた。そこにはもう、誰もいなかった。ただ、満たされた沈黙だけが、残されていた。

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