第一章 腐敗する未来
雨が降っていた。アスファルトを叩く音は、俺、カイの頭蓋の中で反響し、不快なリズムを刻み続ける。生まれた時から、このリズムは俺の一部だった。そして、もう一つ。俺自身の『死』のビジョンも。
それはいつも同じ光景だ。灰色の霧に覆われた廃墟で、俺は独り朽ちていく。誰の記憶にも残らず、誰にも看取られず、ただ静かに消滅する。左腕に刻まれた『刻印』の数字が明滅し、ゆっくりと『0』に変わる瞬間、肉体は塵へと還る。そのたびに、俺は冷たい絶望と共に、現在の肉体へと意識を引き戻されるのだ。まるで、未来の死を何度も追体験しているかのように。
「また、あの夢か…」
アパートの窓ガラスに映る自分の顔は、ひどく青ざめていた。左腕に目をやると、皮膚の下に浮かぶ数字のタトゥー、『17』が不吉に光っている。この数字は、成長と共に、あるいは何かを失うたびに減っていく。そしてゼロになった者は、この世界から『消える』。誰もが知る世界の法則。だが、その真実を口にする者は誰もいない。
同僚のサトシが、背後から声をかけてきた。
「カイ、どうした? さっきから上の空だぞ」
「いや、なんでもない」
「そうか? お前、時々すごく遠くを見てるよな。まるで…」
サトシの言葉を遮るように、俺は衝動的に口を開きかけた。「俺は、自分の死ぬ瞬間を知ってるんだ」と。その瞬間、左腕に激痛が走った。見れば、刻印の周囲の皮膚が僅かに黒ずみ、腐敗の臭いを放ち始めている。俺は咄嗟に腕を隠し、言葉を飲み込んだ。この秘密は、言葉にした瞬間に現実を侵食する。俺の肉体を、内側から喰い破るように。
雨はまだ、降り続いていた。まるで、この世界そのものが、静かに腐敗していくのを悼んでいるかのように。
第二章 零時の懐中時計
街の外れに、『忘却の谷』と呼ばれる場所がある。刻印がゼロになり、『消えた』者たちの遺品が、誰にともなく集められ、山を成している場所。人々はそこを不気味がり、誰も近寄ろうとしない。だが、俺はそこに何かがある気がしてならなかった。自分の見る死のビジョンと、この場所に打ち捨てられた無数の『痕跡』との間に、見えない線が引かれているような、そんな予感が。
谷底に足を踏み入れると、むせ返るような古びた匂いが鼻をついた。服、本、玩具、食器。かつて誰かの人生の一部だった物たちが、声もなく積み重なり、巨大な墓標のようだった。雨に濡れたそれらは、まるで泣いているように見える。
俺は無意識に、遺品の山をかき分けていた。何かを探している。それが何かは分からない。ただ、指先が告げていた。ここに、答えのかけらがある、と。
その時、鈍い金属の感触が指に触れた。泥の中から掘り出したのは、銀色の古い懐中時計だった。蓋を開くと、文字盤の針は午前3時33分を指して止まっている。秒針は、ない。俺がそれを手に取った瞬間、時計の内部で淡い光が灯った。
ガラスの向こう側、歯車の代わりに、幻影が映し出されていた。知らない少女が、公園のベンチで静かに消えていく最後の瞬間。老人が、書斎で本を読んでいたまま、その輪郭を失っていく姿。彼らの腕の刻印が『0』になるのを、俺は確かに見た。これは、ただの時計じゃない。これは、『消えた者たち』の最期を記録した、鎮魂の装置だ。俺はそれを強く握りしめ、谷を後にした。背後で、遺品の山が静かに崩れる音がした。
第三章 記録なき消失
懐中時計の謎を解く鍵は、過去の記録にあるはずだ。そう考えた俺は、街で最も古い蔵書を誇る中央図書館へと向かった。埃とインクの匂いが混じり合った静寂の中、俺は『刻印』に関する古文書を片っ端から漁っていた。
「何か、お探しですか?」
凛とした声に顔を上げると、そこに一人の女性が立っていた。司書のユキナと名乗った彼女は、俺が調べている本のタイトルを見て、興味深そうに目を細めた。
「『消失現象に関する考察』…珍しい本を。何か、個人的なご興味でも?」
俺は懐中時計を見せるべきか一瞬迷ったが、彼女の瞳の奥に宿る純粋な探究心に賭けてみることにした。時計を見せ、俺が『忘却の谷』で見た幻影について話すと、ユキナの表情が驚きに変わった。
「やはり、そうだったのね…」
彼女は俺を閲覧禁止の古文書室へと案内した。そこには、彼女が独自に収集した資料が並んでいた。
「私はずっと調べていたんです。この世界の大きな矛盾を」
ユキナは、埃をかぶった一冊の年代記を開いて見せた。
「歴史上、どんな記録を調べても、『刻印がゼロになった』という記述は一つもないんです。誰もがいつかはゼロになるはずなのに、その瞬間を目撃した者も、記録した者も、一人もいない。まるで、最初からそんな人間はいなかったかのように、全ての記録から抹消されている」
彼女の言葉は、俺の心に突き刺さった。俺が見続けてきた『死のビジョン』。誰にも認識されずに消えていく、あの孤独な死。それは、この世界の法則そのものが隠蔽してきた、巨大な真実の姿なのかもしれない。
「この時計は…」俺は呟いた。「消された人々の、最後の証言なのかもしれない」
ユキナは静かに頷いた。彼女の瞳には、恐怖ではなく、真実へと向かう強い意志の光が宿っていた。
第四章 幻影の囁き
ユキナとの調査は、俺に微かな希望を与えていた。独りではない。この世界の真実に疑問を抱いている人間が、他にもいたのだ。俺たちは、時計に映る幻影を手掛かりに、過去の失踪者たちの足跡を辿り始めた。彼らが住んでいた家、通っていた場所。しかし、どこへ行っても、彼らを知る者は誰一人としていなかった。家族さえも、彼らの存在を覚えていない。
その夜、図書館で古い地図を広げていると、俺の持っていた懐中時計が突然、強い光を放ち始めた。
光は壁に投影され、巨大なスクリーンとなって、次々と幻影を映し出す。それは、俺が今まで見てきた断片的なビジョンではなかった。数十、数百という『消えた者たち』の最後の瞬間が、走馬灯のように流れ始めたのだ。
彼らは皆、静かに、穏やかに消えていく。悲しみも、苦しみもない。ただ、世界の色彩から自分の色が抜け落ちていくのを、受け入れているかのように。
「これは…」ユキナが息をのむ。
その無数の幻影の中に、俺は『自分』を見た。廃墟で独り朽ちていく、あのビジョン。しかし、それは未来の俺ではなかった。服装が違う。髪型が違う。顔立ちは似ているが、別人だ。次々と現れる『俺』たち。彼らは皆、同じ場所で、同じように孤独な死を迎えていた。
その瞬間、俺は理解した。俺が見ていたのは、未来予知などではない。これは、過去からの『残響』だ。俺と同じように、この世界のループに気づき、真実に挑もうとして消されていった、無数の『先人たち』の記憶。彼らの最後の叫びが、俺の脳に流れ込んできているのだ。
激しい頭痛と共に、左腕に灼けるような痛みが走る。見ると、刻印の数字が明滅しながら、急速に減っていく。
『17』…『12』…『8』…
「カイ君!」
ユキナの悲鳴が遠くに聞こえる。視界が歪み、俺は意識を失った。左腕の刻印は、ついに『3』になっていた。
第五章 システムの心臓
意識を取り戻した時、俺は図書館にはいなかった。そこは、床も壁も天井もない、無限に広がる白い空間だった。懐中時計だけが、俺の手の中で確かな重みを持っている。時計の針は、相変わらず午前3時33分を指したまま、幻影を映し続けていた。その幻影が、この空間の奥へと続く一本の道を形作っている。
俺は歩き出した。ユキナはどうなっただろうか。俺の存在は、もう彼女の記憶から消え始めているかもしれない。だが、今は進むしかない。このループを断ち切るために。
道の果てに、それはいた。
具体的な形はない。光の集合体のようでもあり、深淵そのもののようでもあった。その『存在』から、直接脳に語り掛ける声が響いた。
《よくぞ、ここまで辿り着いた。今サイクルの『観測者』よ》
「お前が、この世界を作ったのか」
《否。私は『管理人』。この世界という庭を、常に美しく保つためのシステムだ。生命は増えすぎれば澱み、世界を崩壊させる。故に、定期的な『剪定』が必要なのだ》
剪定。俺たちの存在が消えることを、そいつはそう呼んだ。刻印がゼロになった者たちは、存在の記録ごと消去され、エネルギーとしてこの『管理人』に吸収される。そうして世界は、常に一定の総量を保ち続ける。
《お前のような特異点…『観測者』は、時折生まれる。過去の剪定の記憶の断片を受け継ぎ、システムの真実に近づく者だ。お前が見ていた死のビジョンは、過去の観測者たちの記憶の残響。彼らもまた、私に辿り着き、そしてシステムの一部となった》
「何故だ…何故そんなことを!」
《それが、世界の秩序だからだ》
管理人は淡々と告げた。その声には、何の感情もなかった。ただ、絶対的な法則として、そこに在るだけだった。俺の左腕が、再び熱を持つ。刻印の数字が、最後のカウントダウンを始めていた。『2』…『1』…
第六章 新たな午前三時
《さあ、お前の役目も終わりだ。新たな庭の一部となるがいい》
管理人の声と共に、俺の体が足元から透き通り始めた。粒子となって、この白い空間に溶けていく。左腕の刻印が、ついに『0』へと変わった。
「ユキナ…」
最後に、彼女の名前を呟いた。忘れないでくれ、とは言えなかった。このシステムの前では、記憶さえも意味をなさないのだから。俺は静かに目を閉じた。これで、ようやくあのビジョンから解放される。俺は、無数の『消えた者たち』の意識の海へと還っていった。
……。
中央図書館の静寂の中、司書のユキナはふと、閲覧室の机の上に置かれた一つの古い懐中時計に気づいた。
「あら、どなたの忘れ物かしら」
手に取ってみると、銀色の美しい時計だった。蓋を開くと、針は午前3時33分を指して止まっている。なぜか、その時計にひどく心が惹かれた。まるで、遠い昔に大切な誰かから貰ったような、そんな懐かしい感覚。
彼女が首を傾げていると、図書館の入り口のドアが開き、一人の少年が入ってきた。年は17、8だろうか。彼は何かを探すように、不安げな表情で周囲を見回している。
その少年の左腕には、まだ百を超える大きな数字の『刻印』が、はっきりと刻まれていた。
彼は、時折こめかみを押さえている。その脳裏には、生まれた時から何度も繰り返し再生される、見知らぬ誰かの『死のビジョン』が、焼き付いて離れないでいた。
世界は何も変わらず、そのサイクルを静かに繰り返す。ユキナの手の中の時計だけが、忘れ去られた無数の物語の残響を抱きしめながら、永遠の午前3時33分を刻み続けていた。