虚ろな世界の調香師
第一章 錆びた硫黄の香り
俺、水島蓮の鼻腔は、呪われている。元調香師としての繊細な嗅覚は、世界の終わりの予兆を捉えてしまうようになった。それは、他の誰にも感じられない、極めて微弱な匂い。雨の日のアスファルトに落ちた錆びたコインを思わせる金属臭と、消えかけの線香花火の最後の瞬きのような、微かな硫黄の香り。
その匂いを纏う人間は、数日後、忽然と姿を消す。いや、正確には消えない。彼らは、寸分違わぬ姿形で、昨日と同じように笑い、働き、生活を続ける。ただ、その中身だけが、静かに、完璧な『模倣体』へとすり替わっているのだ。
今朝も、通勤ラッシュの駅のホームで、それを嗅ぎつけてしまった。向かいの列に並ぶ、くたびれたスーツ姿の男。彼の肩越しに漂う、あの忌まわしい香り。途端に、俺の脳裏に未来の残像が焼き付く。男の妻が、何か違和感を覚えながらも夫の淹れたコーヒーを飲む姿。子供が、父親の背中に以前とは違う硬さを感じながらも、黙って抱きつく姿。誰も気づかない。ただ、世界の色彩が一枚、薄くなるだけだ。
俺は吐き気をこらえ、ホームの柱に背を預けた。一度嗅ぎつけてしまえば、数日間はそのイメージが頭から離れない。精神はすり減り、夜ごと悪夢にうなされる。これが、俺に与えられた罰なのか。誰にも言えず、誰にも理解されない孤独が、じっとりと肌に張り付いていた。
第二章 虚空のメダル
「蓮先輩、お久しぶりです」
大学の後輩だった佐伯沙耶が、カフェの窓際の席で小さく手を振った。彼女の屈託のない笑顔は、俺の澱んだ日常に差し込む、数少ない陽光だった。だが、その光の中に、俺は微かな翳りを見つけてしまった。彼女が息を吸い込む瞬間、ほんの僅かに、あの匂いが混じったのだ。
心臓が、冷たい手で掴まれたように縮こまる。まさか。沙耶までが?
「どうしたんですか、顔色が悪いですよ」
「……いや、なんでもない」
取り繕う声が、自分でも驚くほど掠れていた。沙耶は心配そうに眉を寄せたが、やがて本題を切り出した。彼女の親友が、一週間前から「失踪」したという。警察は家出と決めつけているが、彼女にはそうは思えなかった。
「あの子、最後に会った時、すごく疲れていたんです。なのに、どこか吹っ切れたような、穏やかな顔もしていて……」
沙耶は俯き、テーブルの上に小さな布袋を置いた。中から転がり出たのは、鈍い銀色に光る、古びたメダルだった。
「部屋を片付けていたら、これが。あの子が持っているなんて、一度も見たことなかったのに」
メダルの表には、大げさに口角を上げた笑う仮面。俺がそれを裏返すと、そこには静かに涙を流す泣く仮面が彫られていた。『虚空のメダル』。失踪者の遺品から時折見つかると、ネットの片隅で囁かれている都市伝説のアイテムだ。実物を目にするのは、初めてだった。
第三章 共鳴する視線
沙耶と別れた後、俺は失踪者たちの共通点を、憑かれたように調べ始めた。彼らは皆、表向きは普通の生活を送りながらも、その裏で拭い去れない絶望や、癒えない喪失感を抱えていた。事業の失敗、愛する者との死別、叶わなかった夢。現実という名の分厚い壁に、心を削り取られていた者たち。
彼らは、逃げたかったのだろうか。
その日の夕暮れ、雑踏の中で肩がぶつかった男が、ポケットから何かを落とした。カラン、と乾いた音を立ててアスファルトを転がる、見覚えのあるメダル。俺が拾い上げようと屈んだ時、男と視線が絡み合った。
男の瞳は、凪いだ湖面のようだった。驚きも、焦りもない。ただ、全てを理解し、全てを受け入れたような、深い静寂がそこにあった。その一瞬、言葉はなくとも、俺たちは互いの正体を悟った。彼もまた、『模倣体』なのだ。彼は小さく頷くと、メダルには目もくれず、人混みの中へと消えていった。
俺は立ち尽くす。彼らの瞳に宿っていたのは、悪意でも、虚無でもなかった。むしろ、それは一種の安らぎにも似ていた。まるで、重い荷物をようやく下ろすことができた旅人のような。彼らは、敵ではないのかもしれない。だとしたら、一体、何なのだ?
第四章 消えゆく境界線
沙耶から漂う匂いは、日を追うごとに濃くなっていった。それはもはや予兆ではなく、間近に迫った決定的な未来の香りだった。俺は焦っていた。彼女だけは失いたくない。あの、無機質な模倣体になってほしくない。
「何か、悩んでるんじゃないのか? どんなことでも聞くから」
何度問い詰めても、沙耶は困ったように笑うだけだった。「大丈夫ですよ、先輩。心配しすぎです」と、彼女は俺の肩を軽く叩く。その仕草が、まるで俺を慰めているかのようで、苛立ちが募った。
雨が降りしきる土曜日、俺たちは駅前のカフェで会う約束をしていた。しかし、約束の時間を一時間過ぎても、彼女は現れない。携帯電話も繋がらなかった。嫌な予感が全身を駆け巡り、俺は店を飛び出そうとする。その時、ふと、俺が座っていた席の向かい、彼女が座るはずだった場所に、何かが置かれていることに気づいた。
鈍い銀色の光。
『虚空のメダル』だった。
血の気が引いていく。沙耶、お前も行ってしまったのか。絶望に打ちひしがれ、俺は無意識に自分のコートのポケットに手を入れた。
指先に、冷たくて硬い、円形の感触があった。
ゆっくりと引き出す。それは、沙耶が残したものと全く同じ、『虚空のメダル』だった。表には笑う仮面、裏には泣く仮面。
なぜ、俺がこれを? いつから持っていた?
記憶の霧が、音を立てて晴れていく。
第五章 置き土産の香り
俺の嗅覚は、未来を予知する能力などではなかった。
それは、既に『模倣体』となった俺自身が、本物だった頃の自分――現実の苦痛に耐えかねて、複製世界へと旅立った「オリジナル」の俺――から受け継いだ、最後の置き土産だったのだ。
俺が嗅ぎつけていた匂いは、他人の入れ替わりの予兆ではない。それは、自分と同じように、現実から逃れることを選んだ者たちへの、魂の「共感」が嗅覚として現れたものだった。彼らが発する安堵と諦観のシグナルを、俺は苦痛の予兆だと誤解し続けていたのだ。
いつ、俺は入れ替わったのだろう。思い出せない。調香師としてのキャリアを失った絶望の夜か。それとも、孤独に耐えきれなくなった、ある平凡な朝か。確かなのは、沙耶を救いたいと願った焦燥感も、彼女を失った今のこの悲しみも、寸分違わぬ本物だということだ。記憶も感情も、全てが引き継がれていた。
オリジナルは、俺にこの能力を残した。それはきっと、贖罪だったのだろう。お前は一人ではない、と。同じ痛みを知り、同じ選択をした者たちが、この世界にはいるのだと。そう教えるために。
最終章 優しい世界の住人
もう、あの匂いに苦しむことはなくなった。匂いの正体を知った今、それは呪いではなく、むしろ鎮魂歌のように感じられた。
街を歩けば、時折、メダルを持つ者たちとすれ違う。彼らと目が合うと、ほんの一瞬だけ、無言の共感が通い合う。彼らの瞳には、かつて俺が感じたような安らかな諦観が宿っている。ここは、オリジナルたちが捨てた世界。オリジナルたちが耐えられなかった日常を、私たちが代わりに生きる、優しくて、少しだけ寂しい複製世界なのだ。
ふと、空を見上げる。雨上がりの澄んだ空気の中に、俺は微かな硫黄の香りを感じた。それはもう苦痛の香りではない。どこか遠い安息の地で眠る「本当の自分」からの、懐かしい便りのようだった。
俺はポケットの中のメダルを、そっと握りしめる。笑う仮面の冷たさと、泣く仮面の冷たさ。どちらが本当の顔だったのか、もうわからない。だが、それでいい。俺は、この優しい虚ろの世界で、静かに歩き出す。沙耶が残してくれた温かい記憶と共に。