共鳴のフィラメント
第一章 満ちる刻、満ちる世界
ユキの世界は、いつも満ちていた。
父の書斎から漂う古い紙とインクの匂い。母がキッチンで奏でる、包丁がまな板を叩く軽やかなリズム。弟のカイが庭で土を蹴り上げる音。それら全てが混ざり合い、一つの完璧な和音となってユキを包み込んでいた。それが『家族結界』。この世界で、人は血ではなく「感情の共鳴パターン」によって家族となり、その意識の同期が外部の脅威を弾く見えない壁を築くのだ。
「ユキ、少し手を貸してくれ」
書斎の父に呼ばれ、ユキは駆け寄る。天井まで届く本棚がぐらりと傾いていた。「危ない!」と母が叫ぶが、ユキは落ち着いて本棚の側面に手を添え、ふ、と息を吐きながら押し戻した。何百キロもあるはずのオーク材の塊が、まるで空箱のように軽々と元の位置に収まる。父は「ありがとう」と短く告げ、再び研究に没頭する。ユキにとって、それは日常だった。家族が半径百メートル以内にいる時、彼女の肉体は常識を超えた力を発揮する。昨日庭で転んでできた膝の擦り傷は、もう跡形もない。
食卓には、家族全員の名前――リョウ、サラ、カイ、そしてユキ――が刻まれた古びた砂時計が置かれていた。そのくびれた硝子の中では、金色の砂が絶えず循環し、決して落ちきることはない。母はそれを「私たちの絆そのものよ」と微笑みながら言った。その砂時計が満ちている限り、ユキの世界もまた、永遠に満ち足りていると信じていた。
第二章 欠けた共鳴
異変は、ある朝、音もなく訪れた。
目覚めた瞬間に感じたのは、刺すような静寂と、体の芯を蝕むような寒気だった。いつも聞こえるはずの家族の気配が、綺麗に消え失せている。ユキはベッドから起き上がろうとして、己の体の重さに驚愕した。まるで鉛の枷をつけられたようだ。
リビングに駆け下りると、そこは無人だった。食卓の上の砂時計を見て、ユキは息を呑んだ。循環していたはずの金色の砂が、下部のガラスに静かに溜まり始めている。上の砂は、一粒、また一粒と、容赦なく落ちていた。
「お父さん! お母さん! カイ!」
声がかすれる。鏡に映った自分の姿に、再び恐怖が襲った。指先が、まるで薄いガラスのように透けて、向こう側の壁紙の模様が見えている。家族が離れたのだ。結界が弱まり、ユキの存在そのものが希薄になっている。
外へ飛び出す。雨が降り始めていた。冷たい滴が肌を打ち、体温を奪っていく。衰弱していく体を引きずり、ユキは必死に街を駆けた。絆の糸を手繰り寄せるように。
第三章 異邦の貌
市場の喧騒の中で、見慣れた背中を見つけた。父だ。しかし、いつも着ているツイードのジャケットではなく、油に汚れた作業着を身につけている。
「お父さん!」
ユキは安堵に声を上げた。だが、振り返った男の目は、氷のように冷たかった。
「人違いだ」
その声には、ユキが知る父の温かさの欠片もなかった。彼は「オレはタツヤだ」と名乗り、いぶかしげにユキを一瞥すると、人混みの中へ消えていった。追いかけようとした足がもつれ、ユキはその場に崩れ落ちた。
絶望の中、今度は母を探した。彼女は街角で小さな花屋を営んでいた。優しい微笑みは変わらない。だが、その瞳にユキは映っていなかった。「あら、お嬢さん。何かお探し?」と、まるで初対面の客に話しかけるように言う。弟のカイは、路地裏で壁に寄りかかり、見知らぬ若者たちと煙草を燻らせていた。その目は虚ろで、ユキを突き飛ばし、「邪魔だ」と吐き捨てた。
彼らは別人だった。同じ顔、同じ声を持ちながら、魂だけが入れ替えられてしまったかのように。家族と会うたびに拒絶され、ユキの体はさらに透けていく。砂時計の砂は、もう半分以下になっていた。
第四章 零れ落ちる砂
なぜ。どうして。
答えを求め、ユキは市立図書館の古文書室に籠った。衰弱し、もはや立っているのもやっとな体を壁に預け、震える手でページをめくる。「感情の共鳴」「家族結界」についての記述を探す。そこには、ある一族にまつわる古い伝承が記されていた。
『世界には、創生より紡がれし真の歴史が存在する。その記憶は、時に世界そのものを揺るがす力を持ち、悪しき者たちの標的となる。故に、古より“守人”と呼ばれる一族が、その記憶を一つの“器”に封じ込め、代々守り続けてきた』
“器”。その言葉に、ユキの心臓が冷たく脈打った。まさか。
図書館を出ると、空は赤黒い夕焼けに染まっていた。砂時計の砂は、もう残りわずかだ。体の輪郭はほとんど霞み、意識を保つことすら難しい。このままでは、砂が尽きると同時に自分も消える。そして、家族の絆も、世界の何か大切なものも、永遠に。
第五章 約束の丘で
最後の力を振り絞り、ユキは思い出の場所へ向かった。街を見下ろす、小さな丘。かつて家族四人でピクニックに来て、流れ星に願い事をした場所だ。
丘の頂には、一本の大きな樫の木が立っている。その下に、信じられない光景が広がっていた。父だった男が、母だった女が、そして弟だった少年が、まるで何かに引き寄せられたかのように、そこにいた。三人は互いに視線も合わせず、ただ戸惑った表情で佇んでいる。
「どうして、ここに……」
タツヤと名乗った父が、呟く。
ユキは、消え入りそうな体で彼らの前に進み出た。
「お父さん。お母さん。カイ」
か細い声で、家族の名前を呼ぶ。
「覚えてないの? この丘で、みんなで見た流れ星を。お父さんは世界の平和を、お母さんはみんなの健康を、カイは新しいグローブを。そして私は……私は、この時間が永遠に続きますようにって、願ったんだよ!」
記憶の断片を、想いの限りをぶつける。その時、ユキが胸に抱いていた砂時計が、カタリ、と最後の音を立てた。最後の一粒が、落ちようとしていた。
「いやだ!」
ユキは叫び、最後の生命力を注ぎ込むように、砂時計を強く握りしめた。その瞬間、砂時計から金色の光が迸り、丘全体を、そしてそこにいた四人を眩い光で包み込んだ。
第六章 世界の記憶
光の中で、全てが流れ込んできた。
父と母、そしてカイの失われた記憶が、奔流となってユキの意識に流れ込む。それと同時に、ユキ自身の奥底からも、膨大な記憶が溢れ出した。それは個人の思い出ではなかった。星々の誕生、生命の芽生え、文明の興亡、幾千幾万の喜びと悲しみ――世界の、真の歴史そのものだった。
「思い出したか、ユキ」
光の中で、父の、リョウの、温かい声が響く。
「我ら“守人”の一族は、この世界の記憶を守るために存在する。そしてお前こそが、その全てを宿す、我らが世代の“器”なのだ」
母サラが続ける。「記憶を狙う“影”の気配が迫っていた。お前を守るため、私たちは自らの記憶をお前に預け、絆を断ち切った。別人として生きることで、“器”の在り処をくらませていたのよ」
カイが涙を浮かべて言う。「ごめん、ユキ。辛かったよな」
全ては、ユキを、そして世界を守るための、家族の壮大な計画だったのだ。
全ての記憶と、家族の愛を受け取ったユキの体は、もはや定まった形を保てなかった。金色の光の粒子となり、ゆっくりと空へ溶けていく。個としての意識が、世界の広大な理へと統合されていく。
「ありがとう、私の、大切な家族」
それが、少女ユキの、最後の言葉だった。
第七章 新しい朝
光が収まった時、丘の上にはリョウ、サラ、カイの三人が立っていた。彼らの目の前には、金色の砂が再び満ち、永遠に時を刻むことをやめた砂時計が、静かに置かれているだけだった。
ユキの姿は、どこにもない。だが、三人は彼女の存在を感じていた。朝を運ぶ風の中に、木々の葉を揺らす音の中に、そして、互いを繋ぐ確かな絆の中に。
守護者として覚醒したユキは、世界そのものになったのだ。
彼らはもう、超常の力を発揮する結界を持つ家族ではない。ただの、普通の家族だ。しかし、彼らの心には、世界の記憶を守り抜いた誇りと、娘であり姉であった一人の少女への、永遠の愛が刻まれていた。
「行こう」リョウが言った。「ユキが守った、この世界で。私たちの新しい朝を始めよう」
三人は手を取り合い、ゆっくりと丘を下りていく。彼らの未来を、そして世界の未来を、暖かな光が見守っていた。