記憶晶の夜

記憶晶の夜

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第一章 色褪せた帰郷と冷たい結晶

受話器から聞こえる妹の切羽詰まった声は、東京の喧騒に慣れた俺の耳には、まるで異世界の響きのように届いた。父が倒れた、と。その一言が、俺を数年間遠ざけていた実家へと引き戻す、抗いがたい引力となった。

新幹線を降り、乗り継いだローカル線の車窓から見える風景は、記憶の中にあるよりもずっと色褪せて見えた。錆びたガードレール、ひび割れたアスファルト、そして、生家の瓦屋根。玄関の引き戸を開けると、黴と埃と、そして微かに線香の匂いが混じり合った、懐かしい空気が鼻をついた。

「兄ちゃん……」

出迎えた妹の美咲は、泣き腫らした目で俺を見上げた。父の容態は、幸いにも命に別状はないが、意識がまだ混濁しているらしい。重い沈黙が俺と美咲の間に横たわる。その沈黙を破ったのは、リビングの隅でカタリと音を立てた、奇妙な物体だった。

それは、手のひらに収まるほどの、不揃いな形をした結晶だった。琥珀色に淡く輝き、触れるとじんわりと温かい。家のあちこちに、そうした結晶が無数に転がっていた。あるものは太陽の光を浴びてキラキラと輝き、またあるものは日陰でひっそりと冷たい光を放っている。

「なんだ、これ」

俺の問いに、美咲は少し躊躇いながら答えた。「記憶晶(きおくしょう)だよ。お父さんがそう呼んでる。お母さんが亡くなってから、家の中に少しずつ現れるようになったの。家族の思い出が、結晶になるんだって」

馬鹿げてる。そう一蹴しかけた俺の言葉を、美咲は遮った。「触ってみて。温かいのは、幸せな思い出。冷たいのは、ちょっと悲しい思い出。何も感じないのは、もう誰も覚えていない、忘れられた記憶」

半信半疑で、足元に転がっていた乳白色の結晶を拾い上げる。ひんやりとしている。その瞬間、脳裏に断片的な映像が閃いた。小学生の俺が、運動会で転んで膝を擦りむいた光景。泣きべそをかく俺と、困ったように笑う母の顔。そうだ、こんなことがあった。忘れていた、些細な記憶。

俺は言葉を失った。現実主義者を気取っていた自分の中の何かが、静かに揺らぎ始める。家中に散らばる光の粒は、俺たちが積み重ねてきた時間の化石なのだ。

その夜、父の書斎で古いアルバムでも探そうかと、固く閉ざされた机の引き出しに手をかけた。父が誰にも触らせない、聖域のような場所。ぎしり、と重い音を立てて開いた引き出しの奥に、それはあった。

他のどの記憶晶とも違う、異質な存在。

ビー玉ほどの大きさの、黒く濁った結晶だった。まるで光を全て吸い込んでしまうような、底なしの闇。そっと指先で触れると、氷を直接掴んだかのような鋭い冷気が、神経を駆け上った。それは単なる低温ではない。心の芯まで凍てつかせるような、絶望的な冷たさだった。

これは、なんだ?

父が隠していた、この凍てつくような記憶は。

俺たちの家族の、一体どんな闇なのだろうか。

第二章 記憶の欠片と不器用な沈黙

父の容態が安定し、個室に移されたのを機に、俺はしばらく実家で暮らすことになった。がらんとした家の中は、主を失った船のように静まり返っていた。俺は時間を持て余し、まるで贖罪でもするかのように、家の掃除を始めた。

床を掃き、窓を拭くたびに、記憶晶がころりと姿を現す。拾い上げるたびに、忘れていた家族の風景が蘇った。美咲の七五三で、慣れない着物に不機嫌だった彼女の顔。家族で海へ行った日、父が俺を肩車してくれた時の、高い視界と潮の香り。そのほとんどが、温かく、懐かしい光を放っていた。そして、その中心にはいつも、太陽のように笑う母がいた。

記憶晶に触れるたび、俺は気づかされる。俺は家族から逃げていたのではない。亡き母のいる、幸せだった過去の幻影から逃げていただけなのだ、と。

しかし、どれだけ温かい記憶に触れても、あの黒い結晶の冷たい感触が、指先から消えることはなかった。書斎の机の引き出しは、パンドラの箱のように、俺の心を苛み続ける。

「兄ちゃん、無理しないでね」

夕食の準備をしながら、美咲がぽつりと言った。彼女は、俺が記憶晶を一つ一つ手に取っていることに気づいているのだろう。

「なあ、美咲。あの黒いやつ……見たことあるか?」

俺の問いに、美咲は手を止め、悲しげに首を横に振った。「ううん。お父さん、あの机は絶対に開けさせてくれなかったから。でも……」

言葉を区切った美咲は、窓の外を見つめた。「お父さんね、時々、あの書斎で一人で泣いてた。お母さんが亡くなってからずっと。きっと、お母さんを失った悲しみが、あの黒い結晶になったんじゃないかな。お父さん、不器用だから。悲しみを誰にも見せられないんだよ」

妹の言葉は、妙に説得力があった。無口で、感情表現が下手な父。最愛の妻を失った悲しみを、誰にも打ち明けられず、一人で抱え込み続けてきた。その凝縮された悲嘆が、あの氷のような記憶晶になったのだとしたら。そう考えると、父への長年のわだかまりが、少しだけ溶けていくような気がした。

父はただ、悲しんでいたのだ。俺たちと同じように、いや、俺たち以上に。黒い結晶は、父の深い喪失の象徴なのだ。俺は自分にそう言い聞かせ、あの冷たい感触から意識を逸らそうと努めた。だが、心のどこかで小さな棘がちくりと刺さる。本当に、それだけなのだろうか、と。

第三章 黒い結晶の告白

数日後の昼下がり、病院から電話があった。父の意識が戻った、という知らせだった。俺と美咲は、タクシーに飛び乗り、父の元へと急いだ。

病室のドアを開けると、ベッドの上で半身を起こした父が、虚ろな目で俺たちを見ていた。数日見ないうちに、父は一回りも二回りも小さくなったように見えた。

「父さん……」

俺が声をかけると、父はゆっくりと俺に視線を合わせた。その皺の刻まれた顔が、苦痛に歪む。そして、掠れた声で、誰もが予期しない言葉を紡いだ。

「健太……すまなかった」

謝罪? なぜ父が俺に謝るんだ? 戸惑う俺を前に、父は言葉を続けた。「お前にずっと……嘘を、ついていた」

父の告白は、衝撃的な内容だった。

あの黒い記憶晶は、父の悲しみの結晶などではなかった。母の記憶ですらない。

それは、俺自身の、俺が心の奥底に封印した記憶の結晶だったのだ。

「お前がまだ、五つだった夏の日だ」と父は語り始めた。俺と母さんは、二人で川へ遊びに行った。俺が足を滑らせて、急に深くなった場所に落ちてしまったんだ。お前は溺れ、意識を失いかけた。母さんは、必死でお前を岸まで引き上げた。ずぶ濡れで、震えるお前を抱きしめて、ずっと『大丈夫、大丈夫』と言い続けていたそうだ」

俺の頭は真っ白になった。そんな記憶は、どこにもない。

「母さんは、その時に無理をしたのがたたって……持病だった心臓が、一気に悪くなった。だがな、健太。母さんは一度だってお前のせいだなんて言わなかった。『あの子が無事でよかった』と、そればかりだった。でも、お前は……幼いお前は、全て自分のせいだと思い込んだ」

父の言葉が、固く閉ざされていた記憶の扉をこじ開けようとする。

「お前はその夜、高熱を出して、川での出来事を全て忘れてしまった。医者は、あまりのショックから心を守るための、防衛本能だろうと言った。俺は……母さんと話し合って、お前に本当のことを言うのをやめた。お前が、自分を責め続けて生きることのないように。だから、母さんの死因は、ただの病気だと……そう、嘘をついた」

黒い記憶晶は、俺が川で溺れた日の、絶望と自己嫌悪から生まれたものだった。父は、俺がその記憶を思い出さないように、俺の代わりにその冷たい結晶を、たった一人で何十年も抱え続けてきたのだ。

無口な父。不器用な父。俺がずっと理解できないと思っていた父の沈黙は、息子を守るための、あまりにも痛々しい愛情の形だった。父は母を失った悲しみと、俺に嘘をつき続ける罪悪感という、二重の重荷を背負い、一人で耐えていたのだ。

涙が、止まらなかった。それは、悲しみや後悔の涙ではなかった。ようやく理解できた、父の巨大で、不格好な愛に対する、感謝の涙だった。

第四章 夜空の星々

病院からの帰り道、俺は一人、実家に戻った。足は自然と、父の書斎へ向かっていた。震える手で、あの引き出しを開ける。奥で静かに佇む黒い結晶を、今度は迷わず、強く握りしめた。

氷の刃が突き刺さるような冷たさが、再び腕を駆け上る。だが、今度は逃げなかった。目を閉じると、忘却の彼方に沈んでいた光景が、洪水のように蘇ってきた。

冷たい水の感触。息ができない苦しさ。そして、遠のく意識の中で感じた、母の必死な腕の温もり。「大丈夫、大丈夫よ、健太」。耳元で繰り返される、優しい声。そうだ、母さんは笑っていた。俺を助け上げた後、安心したように笑っていたんだ。俺を責める気持ちなど、どこにもなかった。ただ、深い、深い愛情だけがあった。

罪悪感と、母の愛情。相反する二つの感情が胸の中で渦を巻き、俺はその場に泣き崩れた。何時間そうしていただろうか。涙が枯れた頃、掌の中の黒い結晶を見ると、その色が、ほんの少しだけ和らいでいるように見えた。

数日後、父が退院した。まだ本調子ではない父と俺は、夕暮れの縁側に並んで座っていた。二人の間に、言葉はない。だが、以前のような息の詰まる沈黙ではなかった。風が、心地よかった。

「ありがとう、父さん」

ぽつりと漏れた俺の言葉に、父は何も言わず、ただ、小さく頷いた。それだけで、十分だった。

ふと、足元に小さな光が灯るのを見つけた。新しく生まれたばかりの、小さな記憶晶だった。それは、これまでのどの結晶よりもささやかだったが、確かな温もりを帯びて、淡いオレンジ色の光を放っていた。父と心が通じ合った、たった今の、この瞬間の記憶。

俺はそれをそっと拾い上げる。家族とは、輝かしい思い出だけでできているわけじゃない。辛い記憶、隠された嘘、不器用な愛情、そして、それらを乗り越えようとする意志。その全てを抱きしめて、初めて本当の家族になるのかもしれない。

夜の帳が下り、家の中に点在する記憶晶たちが、それぞれの色で輝き始めた。温かい光も、冷たい光も、全てが等しく尊い。それらはまるで、俺たち家族の来し方と行く末を静かに照らす、夜空の星々のように見えた。俺は掌の中の新しい光を握りしめ、初めて、この家で、この家族と共に生きていく覚悟を決めた。

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