第一章 灰色の予兆
我が家には、奇妙な家宝がある。リビングのマントルピースに鎮座する、黒檀の枠に縁取られた大きな砂時計。それは単に時を計る道具ではない。年に一度、大晦日の深夜にだけ、家族の「記憶」を一年分の砂として受け入れ、静かに蓄積していくのだ。僕、水野涼介にとって、その『砂納めの儀』は、物心ついた頃から続く、古風で少しだけ退屈な恒例行事だった。
今年も、除夜の鐘が遠くで鳴り響く中、儀式は始まった。母さんと二人、砂時計の前に座る。部屋の明かりは消され、蝋燭の揺らめく炎だけが僕たちの顔をぼんやりと照らし出していた。やがて、時計の上部のガラス球に、まるでオーロラのような淡い光が満ちていく。それが、僕と母さんがこの一年で経験し、感じた全ての記憶の奔流だ。
「今年も、無事に一年を過ごせたわね、涼介」
母さんの声は、蝋燭の炎のように穏やかだった。僕は「うん」と短く応える。大学生活にも慣れ、友人と過ごす時間の方が増えた僕にとって、家族という単位は少し窮屈に感じられるようになっていた。父さんが亡くなって五年。二人きりの生活は、静かすぎて時々息が詰まる。
光が収束し、砂時計のくびれから、最初の記憶の砂がさらさらと落ち始めた。それは僕の砂だ。アルバイトの疲労感を示す鈍い銀色、友人たちとの馬鹿騒ぎを映す快活な黄色、そして時折混じる、将来への漠然とした不安を象徴する霞のような白色。例年通りの、平凡な大学生の記憶の地層。
問題は、その後に落ちてきた母さんの砂だった。
例年ならば、母さんの砂はパート先の同僚との談笑や、趣味のガーデニングの喜びを示す、暖かな橙色や若草色をしていたはずだ。しかし、今年、ガラスの管を滑り落ちてきたのは、希望も温度も感じさせない、冷え冷えとした均一な灰色だった。まるで、燃え尽きた灰のような、生命感のない色。
その灰色の砂が、僕の白っぽい地層の上に、不吉な影のように降り積もっていく。僕は息を呑んだ。こんな色の砂は、父さんが亡くなった年でさえ見たことがなかった。
「母さん……これ、どういうこと?」
僕の声は、自分でも驚くほど震えていた。母さんは、灰色の砂から目を逸らし、無理に微笑んでみせた。
「あら、気のせいじゃない? 照明の加減かしら。きっと、疲れてるのよ」
その笑顔は、ひび割れた仮面のように痛々しかった。母さんは何かを隠している。この灰色の砂は、僕の知らない母さんの苦悩の結晶なのだ。退屈な恒例行事だと思っていた砂時計が、突如として、僕の知らない家族の深淵を告げる不気味なオブジェに変わった瞬間だった。
第二章 過去からの囁き
灰色の砂の一件以来、僕の日常は静かに侵食され始めた。大学の講義中も、友人とカフェにいても、ふと、あの無機質な砂の色が脳裏をよぎる。母さんは相変わらず明るく振る舞い、僕の好物ばかりを食卓に並べたが、その笑顔の裏に、深い疲労と諦念が滲んでいるのが見て取れた。僕が砂時計のことに触れようとすると、巧みにはぐらかされ、会話はいつも空回りした。
焦燥感に駆られた僕は、誰もいない昼間、マントルピースから砂時計をそっと降ろした。ずしりと重い。それは単なるガラスと木の重みではなく、水野家の歴史そのものの重さだった。僕は砂時計を横倒しにして、太陽の光にかざした。ガラスの中に、美しい地層がくっきりと浮かび上がる。
一番下の、最も古い層は、僕が生まれる前のものだ。父さんと母さん、二人の記憶だけでできたその層は、情熱的な赤色と、幸福な金色が溶け合うように混じり合い、まるで夕焼け空を閉じ込めたかのようだった。僕が生まれた年の層からは、そこに無垢な白色の砂が加わり、家族の歴史が始まったことを告げている。幼い頃の記憶は、万華鏡のように色鮮やかだ。夏休みの旅行の記憶は海のような群青色に、運動会で一等賞をとった日の記憶は誇らしい黄金色に輝いている。
指でそっとガラスをなぞりながら、時の地層を遡っていく。そして、五年前の層で指が止まった。父さんが亡くなった年だ。鮮やかな色彩が支配していた世界に、初めて深い亀裂が入った年。父さんの記憶を示す力強い金色の砂が、その年を境にぷっつりと途絶えている。そして、母さんの橙色の砂には、悲しみを表す濃紺の筋が幾重にも走り、僕の白い砂もまた、混乱と喪失感で濁っていた。
「やっぱり、父さんのことが……」
僕は呟いた。母さんはまだ、父さんの死から立ち直れていないのだ。僕が気づかないふりをしていただけで、ずっと一人で悲しみを抱え続けてきたのだ。それなのに僕は、自分のことばかりで、母さんの心に寄り添うことすらしてこなかった。罪悪感が、鉛のように胸に沈む。
その日から、僕は意識して母さんと過ごす時間を増やした。週末には買い物に付き合い、他愛ない話をした。母さんは嬉しそうに微笑んだが、その瞳の奥に横たわる影が消えることはなかった。僕が差し伸べる手は、分厚いガラスを隔てているかのように、決して母さんの心には届かなかった。僕と母さんの間には、灰色の砂が象徴する、見えない壁がそびえ立っていた。
第三章 砕かれた真実
打開策が見つからないまま数週間が過ぎた。僕は再び、書斎の奥にしまい込んであった父さんの遺品を漁っていた。何か、母さんの心を解きほぐすヒントはないか。そこで見つけたのが、父さんが愛用していた古い拡大鏡だった。真鍮のフレームが鈍く光る、重厚な作りのものだ。
ほとんど無意識の行動だった。僕はその拡大鏡を手に、リビングの砂時計へと向かった。もっと微細な色の変化を見れば、何か分かるかもしれない。そんな藁にもすがるような思いだった。
太陽光が差し込む窓辺で、拡大鏡のレンズを砂の地層に近づける。すると、これまで気づかなかった砂粒一つ一つの表情が、目の前に広がった。幸せな記憶の砂は、宝石のように内側から光を放っている。悲しみの砂は、表面がざらつき、光を吸い込んでしまうかのようだ。
そして、僕は父さんが亡くなったとされる、五年前の層に再び焦点を合わせた。母さんの砂に走る濃紺の筋。その悲しみの色を、じっと見つめる。その時、僕は信じられないものを見た。濃紺の筋の中に、インクを落としたように滲む、微細な粒。それは、ただの悲しみではなかった。
レンズをさらに近づける。慄然とした。それは、恐怖を意味する、漆黒の砂粒だった。そして、その隣には、抑えきれないほどの強い怒りや憎しみを示す、血のようにどす黒い赤色の砂が、ほんのわずかに混じっていたのだ。
病気で、静かに息を引き取ったはずではなかったのか。闘病生活に、恐怖や怒りが入り込む余地などあっただろうか? 脳裏に浮かんだ疑問は、すぐに確信へと変わった。違う。何かがおかしい。
僕は拡大鏡を握りしめたまま、キッチンで夕食の準備をする母さんの背中に声をかけた。
「母さん。話がある」
振り返った母さんの顔は、僕のただならぬ気配を察してか、こわばっていた。僕は震える手で拡大鏡を差し出し、砂時計を指差した。
「五年前の、この黒い砂と、赤い砂は、何?」
母さんの顔から、血の気が引いていくのが分かった。唇がかすかに震え、やがて観念したように、深く長い溜息をついた。
「……気づいて、しまったのね」
その声は、か細く、弱々しかった。
その夜、母さんは全てを話してくれた。父さんは病死ではなかった。誠実で、人が良すぎた父さんは、知人の借金の保証人になり、裏切られ、莫大な負債を一人で背負い込んだ。会社も、家も、全てを失いかけた。父さんは、僕と母さんだけは守りたいと、自らの戸籍を売り、保険金を残し、どこかへ姿を消したのだという。病死というのは、世間体と、何より僕を傷つけないためについた、母さんの必死の嘘だった。
「あの人は……私たちを、守るために……」
母さんの頬を、涙がとめどなく伝う。それは、五年間、たった一人で堰き止めてきた悲しみのダムが決壊した瞬間だった。
そして、今年の灰色の砂の理由も明かされた。消えたはずの父さんの借金の時効が近づき、当時の債権者たちが、再び母さんの元に現れ始めていたのだ。その新たな恐怖と、誰にも言えない絶望が、あの生命感のない灰色の砂を生み出していたのだった。
僕は言葉を失った。僕が疎ましいとさえ感じていた「家族」という枠を、両親が命懸けで守ろうとしてくれていたこと。母さんが一人で背負ってきたものの、あまりの重さ。自分の無知と無関心が、ナイフのように胸に突き刺さった。
第四章 新たな地層
真実の重みに、僕は一晩中打ちのめされていた。夜が明ける頃、冷たい床の上で身体を起こした時、僕の中で何かがはっきりと変わったのを感じた。涙は出なかった。代わりに、静かで、しかし燃えるような決意が腹の底から湧き上がってきた。もう、子供でいるのは終わりだ。守られる側でいるのは、もうやめだ。
その日から、僕の生活は一変した。大学の図書館に通いつめ、法律に関する本を読み漁った。時効の援用、債務整理。知らない言葉ばかりだったが、必死で知識を詰め込んだ。無料の法律相談にも一人で足を運び、弁護士に頭を下げた。最初は「学生さんには無理だ」と相手にしてくれなかった弁護士も、僕の必死の形相と、調べ上げた資料の分厚さを見て、次第に真剣に耳を傾けてくれるようになった。
僕がそうして奔走する姿を見て、母さんの表情も少しずつ変わっていった。瞳の奥に宿っていた深い影は消えないまでも、そこに小さな光が灯り始めたのが分かった。僕たちは、これまで以上にたくさんのことを話した。父さんの思い出、借金の詳細、そして、これからのこと。灰色の砂を生んだ絶望は、僕たちが共有することで、乗り越えるべき「課題」へと姿を変えていった。
そして、一年が過ぎ、再び大晦日の夜がやってきた。
僕と母さんは、去年と同じように、蝋燭の光の中で砂時計の前に座っていた。だが、そこに流れる空気は全く違っていた。不安がないわけではない。問題が完全に解決したわけでもない。けれど、僕たちの間には、共に戦う者同士の、静かで強い信頼関係が生まれていた。
やがて、『砂納めの儀』が始まる。
光が収束し、僕の記憶の砂が落ちていく。それはもう、去年のような無関心な白や、漠然とした不安を示す霞色ではなかった。法律書と格闘した日々の苦闘を示す深い藍色。そして、母さんを守るという固い決意を宿した、鋼のような光沢を放つ青色。その力強い砂が、去年の灰色の地層の上に、確かな一層を築いていく。
次に、母さんの砂が落ちてきた。まだ、灰色は混じっている。だが、その灰色は去年のような絶望的な色合いではなく、どこか柔らかさを帯びていた。そして、その中には、僕への感謝と愛情を示す、柔らかな橙色の光が、星屑のようにきらめいていた。
灰色の砂の隣に、僕の青い砂が寄り添うように積もる。それはまるで、嵐の後の荒れ地に、新しい芽吹きが生まれたかのような光景だった。
僕は、マントルピースに鎮座する砂時計を、改めて見つめた。それはもう、不気味なオブジェでも、退屈な家宝でもない。過去の痛みを受け止め、現在を分かち合い、そして未来を共に刻んでいくための、僕たち家族の肖像そのものだ。この砂時計が、これからどんな色の地層を重ねていくのか。僕はその未来を、この手で、母さんと一緒に作っていこうと、静かに誓った。遠くで鳴り響く除夜の鐘の音が、新しい一年の始まりを告げていた。