第一章 残響は囁く
「健太、またそんな焦げ付かせて。ちゃんとお鍋を見てなきゃだめよ」
夕食の準備をしていた僕の背中に、澄んだアルトの声が突き刺さる。それは三年前に死んだはずの、母の声だった。声紋残響――通称「エコー」と呼ばれる現象。人が長く過ごした空間には、その人の声が染み付くように残り、生前の言葉を不意に繰り返すのだ。科学的な理由は解明されていないが、それは現代社会において、ありふれた怪奇であり、日常の一部だった。
僕はフライパンの上で黒く炭化していく生姜焼きから目を離さずに、吐き捨てるように言った。
「うるさいな。もういないくせに」
ジュウ、という肉の焼ける音に、僕の悪態はかき消された。しかし、その言葉は確かに、この家の空気に溶けていったはずだ。エコーは新しい言葉を学習しない。ただ、生前の記憶の断片を、壊れたレコードのように再生し続けるだけ。だから、僕の悪態に傷つくこともない。わかってはいても、苛立ちは募るばかりだった。
リビングのソファでは、父が古びたアルバムをめくりながら、そのエコーに相槌を打っていた。
「そうだな、美佐子。あいつは昔からそそっかしいからな」
その声は、ひどく穏やかで、まるで母がまだ隣にいるかのように自然だった。僕にはその光景が、痛々しくて直視できなかった。父は母のエコーを、まるで生きた人間のように扱う。それは、死を受け入れられない弱さの表れにしか見えなかった。
「父さん、やめてくれよ。気持ち悪い」
「健太……」
父は悲しそうな目で僕を見た。その目が、僕の罪悪感を刺激する。でも、僕は止められなかった。この家に漂う、偽物の母親の気配。それは僕らを過去に縛り付ける呪いのように思えた。大学進学を機に一人暮らしを始めたかったが、父が許さなかった。「お母さんが寂しがる」というのが理由だった。冗談じゃない。寂しがっているのは父さんの方だろう。
ある日、僕はインターネットで「エコー除去サービス」の広告を見つけた。法的な手続きを踏めば、専門の業者が特殊な音響装置で家中のエコーを綺麗に消し去ってくれるという。費用はかかるが、これでこの息苦しい家から解放されるなら安いものだ。
僕は決意した。この偽物の母親を、僕たちの家から完全に消し去ってやろう。それが、僕と父さんが本当に前に進むために、必要なことなのだと信じて。その夜、僕は父さんに切り出した。
「父さん、この家のエコー、消さないか」
第二章 消えぬ声、消したい想い
僕の提案に、父は血相を変えた。
「何を馬鹿なことを言っているんだ! あれは美佐子が生きていた証なんだぞ!」
「証なんかじゃない! ただの音の染みだ! いつまで過去に縛られてるんだよ!」
僕らの声は、静かな夜のリビングで激しくぶつかり合った。テーブルの上の、母の写真が揺れているように見えた。父はそれ以上何も言わず、唇を固く結んで自室に閉じこもってしまった。
話し合いは平行線のまま、数日が過ぎた。家の空気は、以前にも増して重苦しい。時折聞こえる母のエコー、「あら、今日はいいお天気ね」「健太、学校はどう?」という屈託のない声が、僕と父の間の深い溝を嘲笑っているかのようだった。
僕は半ば意地になっていた。父を説得できないなら、実力行使だ。エコーは、故人が生前よく使っていた物に強く宿るという。母の遺品を整理すれば、エコーも少しは弱まるかもしれない。そう考えた僕は、三年近く閉ざされていた母の部屋のドアを開けた。
部屋の中は、時間が止まっていた。陽の光を吸って色褪せたカーテン。ドレッサーの上に無造作に置かれたアクセサリー。そして、ふわりと香る、懐かしい白檀の香り。その空間に足を踏み入れた瞬間、耳元で囁きが聞こえた。
「大丈夫よ、きっとうまくいくわ」
それは、僕が大学受験で不安に押しつぶされそうになっていた時、母がかけてくれた言葉だった。思わず胸が詰まる。こみ上げる感情を振り払うように、僕はクローゼットを開け、段ボールに服やバッグを詰め込み始めた。
作業に没頭して一時間ほど経った頃だろうか。本棚の奥から、古びた箱が滑り落ちた。中に入っていたのは、数冊の日記と、一台の小さなボイスレコーダーだった。母が日記をつけていたなんて知らなかった。パラパラとめくってみると、僕の成長の記録や、父への想い、日々の些細な出来事が、母の丸い文字で綴られていた。そして、ボイスレコーダー。なぜこんなものが? 母は機械に疎かったはずだ。好奇心に駆られ、僕は再生ボタンを押した。
『……よし、テスト、テスト。あー、これでいいのかしら』
スピーカーから流れ出したのは、紛れもない母の声だった。少し緊張したような、それでいて楽しそうな声。僕は思わず息を呑んだ。それは、家の中に響く「エコー」とは全く違っていた。温かく、揺らぎがあり、生気に満ちている。僕は床に座り込み、吸い寄せられるように、その声に耳を傾け始めた。
第三章 レコーダーの告白
ボイスレコーダーには、たくさんの音声ファイルが保存されていた。最初の方は、母が趣味のコーラスの練習をする声や、僕や父には内緒で練習していたらしい、たどたどしい英語のスピーチなどが録音されていた。僕はくすりと笑ってしまった。こんな一面があったなんて。
だが、ファイルのタイムスタンプが二年ほど進むと、声のトーンは明らかに変わっていた。
『……今日は、検査の結果が出た。……あまり、良くないみたい。健太には、まだ言えないな。あの子、受験を控えているから』
息遣いが荒く、時折、咳き込む声。僕は心臓を鷲掴みにされたような衝撃を受けた。これは、母が病を告知された後の声だ。知らなかった。母は僕の前では、最後まで笑顔を絶やさなかった。弱音一つ、吐かなかった。
僕は震える指で、最後のファイルを選択した。再生ボタンを押す。ノイズの向こうから、か細く、けれど芯のある声が聞こえてきた。
『これを健太が聞いているということは、お母さんは、もうあなたのそばにいないのね。ごめんね、最後まで一緒にいてあげられなくて』
涙が、勝手に頬を伝った。
『お医者様から、エコーの話を聞いたわ。面白いわね、死んでも声だけ残るなんて。だからね、お母さん、決めたの。残される健太とあなたのお父さんのために、たくさん、声を残しておこうって』
――え?
『「おはよう」も「おかえり」も、たくさん言っておかなくちゃ。あなたが落ち込んだ時に励ます言葉も、お父さんが寂しくないように、優しい言葉も。この家に、私の声のゆりかごを作ってあげる。だから、私が死んでも、泣かないで。寂しくないように、私が守ってあげるから』
僕の頭は真っ白になった。家に響いていたエコーは、偶然の産物などではなかった。母が、自分の死を悟った上で、僕たちの未来のために、意図的に、繰り返し、この家に「録音」していた言葉のコレクションだったのだ。焦げ付いた生姜焼きへの小言も、他愛のない天気の話も、すべては母が遺した、計算された愛情表現だった。
そして、声は続く。
『でもね、健太。もし、いつか……この声が、あなたの重荷になったら。あなたの新しい人生の、邪魔になる日が来たら……その時は、迷わず消していいのよ。あなたは自由に、あなたの人生を生きて。それが、お母さんの、たった一つの、本当の願いだから』
レコーダーの音声が途切れる。静寂が部屋を支配した。僕は声を上げて泣いた。子供のように、ただひたすらに泣き続けた。母の深い、あまりにも深い愛情の前で、自分の浅はかさが恥ずかしかった。エコーを呪いだと決めつけ、消そうとした自分が愚かだった。母は、僕がエコーを消すことすらも、その大きな愛で許してくれていたのだ。
第四章 ただいま、母さん
僕は泣き腫らした顔のまま、ボイスレコーダーを手に父の部屋のドアをノックした。父は僕の顔を見て驚いていたが、黙って中に入れてくれた。僕は何も言わず、レコーダーの最後の音声を再生した。
母の最後のメッセージを聞き終えた父は、僕と同じように、静かに涙を流した。
「そうか……美佐子は、そんなことまで考えていたのか……。あいつらしいな」
父はそう言って、僕の肩をそっと抱いた。固く閉ざされていた僕らの心の扉が、母の最後の声によって、ゆっくりと開かれていくのがわかった。僕らはその夜、久しぶりに食卓を囲み、母の思い出を語り合った。
エコー除去サービスに、キャンセルの電話を入れた。僕たちは、母が遺してくれた「声のゆりかご」と共に生きていくことを決めた。けれど、エコーとの向き合い方は、あの日を境にすっかり変わった。
それはもう、過去の残響ではない。母が未来の僕たちのために遺してくれた、温かい贈り物だ。時折聞こえる「無理しちゃだめよ」という声に、僕は心の中で「わかってるよ」と答え、「お父さんのこと、お願いね」という声には、隣にいる父の顔を見て、静かに頷くようになった。
母の願い通り、僕は「自分の人生を生きる」ために、大学を卒業すると同時に家を出て、小さなアパートで自立した生活を始めた。父も、最初は寂しそうだったが、今では地域のボランティア活動に精を出し、生き生きと暮らしている。
そして今日、僕は数ヶ月ぶりに実家の玄関の前に立っていた。鍵を開けて中に入る。ひんやりとした空気が肌を撫でた。すると、家の奥から、あの懐かしい声が聞こえてきた。
「おかえりなさい」
それは、母が録音した数え切れない言葉の一つに過ぎない。ランダムに再生された、ただのエコーだ。
でも、僕の心には、確かに届いた。僕は以前のように苛立つことも、感傷に浸ることもなく、ただ穏やかな微笑みを浮かべて、誰もいない空間に向かって呟いた。
「ただいま、母さん」
返事は、ない。けれど、それでよかった。母の声が満ちるこの家は、僕にとって永遠の帰る場所だ。家族の絆は、時や、存在の形さえも超えて、こうして続いていく。僕はコートを脱ぎながら、窓から差し込む優しい光の中で、確かに母の温もりを感じていた。