第一章 零れ落ちる心のかけら
僕らの通う全寮制の『翠星学園』は、少しだけ、普通とは違っていた。ここでは、強い感情が昂ると、その心模様が色とりどりの小さな結晶となって、体からぽろりと零れ落ちるのだ。
歓喜は太陽のような黄金色に、深い悲しみは海の底のような瑠璃色に、燃えるような怒りはルビーの赤に。生徒たちはそれらを『心晶(しんしょう)』と呼んだ。ほとんどの生徒は、自分の美しい心晶を誇らしげに見せ合ったり、友人と交換したりして、コミュニケーションのツールとしていた。中庭の芝生は、誰かが落とした心晶がきらきらと輝き、まるで宝石を散りばめたタペストリーのようだった。
だが、僕、水瀬 蒼(みなせ あおい)にとって、このシステムは呪いでしかなかった。
僕から零れ落ちるのは、決まって淀んだ色の心晶ばかりだったからだ。他人への嫉妬が生む濁った緑、拭えない孤独が結晶化した鈍色の鉛、そして世界への漠然とした苛立ちが形作る、ひび割れた黒曜石。僕はそれらを誰にも見られないよう、ポケットの奥深くに押し込み、足早に人のいない場所へと逃げるのが常だった。感情を隠すことができないこの世界で、僕はいつも息を潜めていた。だから、僕の周囲はいつも静かで、色のない風景が広がっていた。
そんな僕の日常に、鮮烈な光を投げかけたのが、月島 陽菜(つきしま ひな)だった。
彼女は、学園で最も美しく、そして最も多くの心晶を生み出すことで有名だった。彼女が笑うと、足元には陽光を閉じ込めたような琥珀やトパーズの心晶が、しゃらしゃらと心地よい音を立てて転がった。彼女はそれを隠そうともせず、むしろ、自分の心が形作る輝きを愛おしそうに眺めている。
ある日の昼休み、僕は図書室の窓から、中庭で友人たちと笑い合う陽菜を眺めていた。彼女が跳ねるたびに、光のかけらが生み出されていく。無防備で、あまりにも眩しい光景。その時、ポケットの中で、ずしりと重い何かが生まれたのを感じた。見なくてもわかる。陽菜の輝きに対する、醜い『羨望』の心晶だ。
僕は慌ててその場を離れようとした。だが、運悪く、廊下の角で誰かとぶつかってしまった。弾みでポケットから零れ落ちた、どす黒い結晶。それは乾いた音を立てて床を転がり、陽菜の足元でぴたりと止まった。
静まり返る廊下。誰もが僕の心晶に、そして僕に、侮蔑と好奇の入り混じった視線を向けていた。僕は顔から血の気が引くのを感じた。最悪だ。よりにもよって、彼女にだけは、この醜い心の形を見られたくなかった。
第二章 禁じられた扉と少女の祈り
「きれい」
僕の耳に届いたのは、予想していた嘲笑や憐憫ではなかった。陽菜は僕の黒い心晶をそっと拾い上げ、指先で優しく撫でながら、そう呟いたのだ。
「夜空の色みたい。よく見ると、小さな星がたくさん瞬いてる。……これは、どんな気持ちなの?」
彼女の真剣な眼差しに、僕は言葉を失った。誰もが見ることを厭うた僕の感情の澱を、彼女は美しいと言った。僕が咄嗟に何も答えられずにいると、彼女は自分の手のひらにあった小さな黄金色の心晶を、僕の手に握らせた。
「お返し。これはね、『嬉しい』の気持ち。さっき、友達が面白い話をしてくれたの」
温かい。陽菜の心晶に触れた指先から、じんわりと熱が広がっていく。それは単なる物理的な温度ではなかった。心晶に触れると、持ち主の感情が流れ込んでくる。僕の心に、他人の純粋な『歓喜』が満ちていく不思議な感覚。それは心地よく、同時に僕をひどく混乱させた。
その日を境に、陽菜は何かと僕に話しかけてくるようになった。彼女は僕の隣で、他愛のない話をしては、ころころと綺麗な心晶を生み出していく。僕は相変わらず、自分の感情を見せるのが怖かったが、彼女の隣にいると、ポケットの中の心晶が、少しだけ澄んだ色を帯びるような気がした。
だが、僕の心の奥底にある、この学園のシステムへの疑念が消えることはなかった。なぜ僕らは、こんな風に感情を垂れ流さなければならないのか。プライバシーも、個人の尊厳もない。これは何かの実験か、あるいは罰なのではないか。
そんな折、僕は学園の古い噂を耳にした。北棟の最上階にある、誰も入ることが許されない『制御室』。そこには、この学園の心晶システムを司る秘密が隠されているという。
「あそこへ行けば、この呪いを解く方法がわかるかもしれない」
僕は決意を固めた。この息苦しい世界から解放されるために。
計画を打ち明けるつもりはなかったが、陽菜は僕の纏う空気の変化を敏感に感じ取っていた。深夜、寮を抜け出そうとする僕の前に、彼女は立ちはだかった。月明かりに照らされた彼女の顔は、いつになく真剣だった。
「行かないで、蒼くん」
「どうして。君だって、おかしいと思わないのか? 僕らの心は、もっと自由であるべきだ」
「違うの!」彼女は声を震わせた。「この世界は、このままでいいの。このままが、一番美しいの。お願いだから、何も変えないで」
彼女の足元に、透き通った青い心晶が一つ、ぽつりと落ちた。それは『悲しみ』の結晶。僕は初めて見る彼女の悲しみの色に胸を突かれたが、それでも足を止めることはできなかった。彼女の祈りを振り切り、僕は禁じられた扉へと続く、暗い階段を駆け上がった。
第三章 箱舟の真実
制御室の扉は、古めかしい電子ロックで固く閉ざされていた。しかし、長年このシステムに不満を抱いていた僕は、独自に調べ上げたハッキング技術を駆使し、数分でそれを突破した。重い金属の扉を開けると、そこには僕の想像を絶する光景が広がっていた。
無数のケーブルとサーバーに囲まれた部屋の中央。そこにいたのは、穏やかな笑みを浮かべた、学園長である老教師ただ一人だった。彼は僕の侵入に驚く様子もなく、静かにお茶を啜っていた。
「やはり来たかね、水瀬くん」
彼の背後には、巨大なメインスクリーンが青白い光を放っていた。そこに映し出されていたのは、学園の風景ではなかった。灰色に澱んだ空、崩れ落ちたビル群、そして……生気のない瞳で、ただ虚空を見つめて彷徨う、人々。映像の中の世界には、色がなかった。まるで古いモノクロ映画のようだった。
「これは……外の世界、ですか?」
「そうだ」学園長は静かに頷いた。「かつて『感情過多戦争』と呼ばれた争いがあった。人々は互いの感情を兵器化し、憎悪と恐怖を撒き散らし、世界を焼き尽くした。その結果、人類は生き延びるために、自らの感情を『削除』するという道を選んだ。感受性は、生存の邪魔でしかなかったのだよ」
僕は息を呑んだ。外の世界では、人々は感情を失っていた。笑うことも、泣くことも、怒ることもなく、ただ生命活動を維持するだけの存在になっているのだという。
「では、この学園は……?」
「人類の『感情』という文化遺産を保存し、未来へ受け継ぐための箱舟だよ。我々はそれを『エモーショナル・アーク計画』と呼んでいる」
学園長は続けた。心晶システムは、感情という不安定なエネルギーを、安定した結晶の形で保存・増幅させるための装置なのだと。生徒たちは、失われた感情を再生産するための、最後の希望。僕が呪いだと思っていたものは、人類の宝を守るための、聖なるシステムだったのだ。
「そんな……じゃあ、陽菜は……月島さんは?」
僕の問いに、学園長は少しだけ悲しそうな目を向けた。
「月島くんは……特別だ。彼女は、この箱舟の『炉心』とも言うべき存在。最も純粋で強力な感情を生み出すために、初代の生徒の遺伝子情報から『創られた』、いわば感情の巫女だ。彼女が存在することで、この学園のシールドは維持され、外部からの『無感情汚染』を防いでいる」
頭を殴られたような衝撃だった。陽菜のあの眩しいほどの輝きは、天性のものではなく、与えられた『使命』だったのだ。僕が自由を求めて破壊しようとしていたものは、彼女がその身を賭して守っていた、脆くも美しい世界そのものだった。その時、制御室の警報がけたたましく鳴り響いた。僕がロックを解除したことで、システムの防御壁に微細な亀裂が生じ、外部の『無』が流れ込み始めているという警告だった。
第四章 きみが遺した光
僕は学園長の制止を振り払い、制御室を飛び出した。廊下を走り、中庭へ向かう。世界が、ゆっくりと色を失っていくのがわかった。壁の絵画は色褪せ、窓から見える木々の緑も精彩を欠き始めていた。生徒たちの足元に転がる心晶の輝きも、どこか鈍くなっている。
中庭の中央に、陽菜は立っていた。彼女の周りだけが、かろうじて色彩を保っているようだった。しかし、彼女の顔色は青白く、いつもきらきらと輝いていた瞳からは光が消えかけていた。
「蒼くん……」彼女はか細い声で僕を呼んだ。「やっぱり、来ちゃったんだね」
「ごめん……僕が、僕が全部……!」
謝罪の言葉は、意味をなさなかった。僕の軽率な行動が、この楽園を、そして彼女を蝕んでいる。陽菜はふらつきながらも、僕に向かって優しく微笑んだ。
「いいの。これで、私の役目も、やっとはっきりしたから」
彼女はそう言うと、両手を胸の前で合わせた。目を閉じ、すべての精神を集中させているのがわかった。彼女の体が、淡い光に包まれ始める。それは、彼女自身の生命の光だった。
「やめろ、陽菜! そんなことをしたら、君が!」
僕の叫びは届かない。彼女の周りに、これまで見たこともないほど眩い光の粒子が集まってくる。黄金の歓喜、瑠璃の悲哀、真紅の激情、そして純白の慈愛。彼女が生涯をかけて生み出してきた、すべての感情がそこに凝縮されていく。
光は一つの巨大な結晶へと姿を変えた。それは虹色の光を放ち、どんな宝石よりも美しく、神々しい輝きを宿していた。陽菜が生み出した、最後の、そして最大の心晶。それは、僕に向けられた、混じり気のない『愛』の結晶だった。
その結晶はゆっくりと宙に浮かび上がると、空へと向かって飛んでいき、学園を覆うシールドの亀裂に吸い込まれていった。亀裂は完全に塞がり、外部からの汚染は止まった。世界に、再び鮮やかな色彩が戻ってくる。
だが、その代償として、陽菜の体は足元から透き通るガラスのように変化し、きらきらと光の粒子となって崩れ始めていた。
「陽菜!」
僕は駆け寄り、消えゆく彼女の体を抱きしめた。もう、温もりはほとんど残っていなかった。
「蒼くん……あなたの心晶、本当は、とてもきれいだよ。夜空みたいに……深くて、静かで……私は、好きだったよ……」
それが、彼女の最後の言葉だった。僕の腕の中で、彼女は完全に光となり、風に溶けて消えていった。後には、小さな虹色の光のかけらが舞うだけだった。
呆然と立ち尽くす僕の頬を、一筋の涙が伝った。そして、ぽろり、と。僕の胸から、何かが零れ落ちた。それは、どこまでも透明で、陽菜が遺した光を映して七色に輝く、美しい瑠璃色の結晶だった。僕が初めて、誰のためらいもなく流した『悲しみ』の涙。
僕はその心晶を、そっと手のひらに包んだ。冷たいはずのそれは、陽菜の温もりを宿しているかのように、温かかった。
僕は陽菜が守ったこの世界で、生きていく。僕の心から生まれる、醜い感情も、美しい感情も、すべて。それらすべてが僕自身であり、彼女が愛してくれた僕の一部なのだから。
僕の手の中には、僕自身の悲しみの心晶が、陽菜が遺した愛の光を映して、静かに、そして力強く輝き続けていた。それは、失われた少女への誓いであり、僕がこれから紡いでいく、新しい物語の始まりの光だった。