空白のクロニクル
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空白のクロニクル

第一章 灰色の輪郭

僕らの世界は、灰色から始まる。

個性育成学園の廊下は、磨き上げられた床に生徒たちの影を長く引き伸ばしていた。誰もが同じ、彩度の低い制服を身にまとい、その表情はまだキャンバスのように空白だ。ここで僕らは「個性」を与えられる。卒業するその日までは、誰もが名もなきシルエットに過ぎない。

「ユウキ、今日の講義、難しかったね」

隣を歩く少年が話しかけてくる。僕は頷きながら、彼の顔を懸命に記憶に留めようとした。だが、陽炎のようにその輪郭は揺らぎ、声だけが空虚に響く。いつもこうだ。誰かと親しくなろうとしても、次の日にはその存在が薄霧のように曖昧になってしまう。僕の記憶力が、人より少しだけ劣っているのだろう。そう思うことにしていた。

教室に戻ると、一人の少女が窓辺に立っていた。リナ。彼女だけは、なぜか僕の記憶からはっきりと消えない。黒曜石のような瞳が、僕をまっすぐに捉える。

「昨日も、そこに座ってたよね?」

彼女の問いかけに、僕は小さく頷いた。他の誰もが僕の定位置を意識しない中で、彼女だけが僕の存在の座標を確かめるように、いつも言葉を投げてくれる。その声は、色を失った世界で唯一、確かな手触りを持っていた。

第二章 零れ落ちる色彩

リナと話す時間が増えるにつれて、僕の世界に微かな亀裂が入り始めた。彼女はよく「個性」の話をした。図書室の片隅で、古い本のインクの匂いに包まれながら、彼女は目を輝かせて語るのだ。

「私はね、『音を色彩で見る』個性が欲しいの。ベートーヴェンはきっと深い藍色で、モーツァルトはきらめく黄金色のはずだから」

その言葉を聞いた瞬間、僕の脳裏に、知らないはずの光景が閃いた。白と黒の鍵盤を滑る自分の指。そこから溢れ出す、七色の音の粒子。それは僕の記憶ではない。なのに、どうしようもなく懐かしい。

ある日の放課後、美術室の前を通りかかった。油絵の具のツンとした匂いが鼻をつく。その途端、今度は別の感覚が僕を襲った。キャンバスに深紅を塗り重ねる高揚感。モデルの肌の柔らかな陰影を捉えようとする指先の集中。

「どうしたの? 顔色が悪いよ」

リナが僕の腕にそっと触れた。彼女の指先の温もりが、僕を現実へと引き戻す。

「……ううん、なんでもない」

僕は嘘をついた。他人の記憶が、砂時計の砂のように僕の中から零れ落ちていく一方で、どこかから流れ込んできた誰かの記憶が、僕という器を満たし始めている。そのことに、僕はまだ気づいていなかった。リナの眉間に刻まれた憂いの意味も、理解できずにいた。

第三章 空白の卒業証書

卒業の日が近づくにつれ、学園の空気は期待と不安が入り混じった独特の熱を帯びていった。生徒たちは、授与される「個性」の最終調整のために、個別に呼び出されていく。

僕は学園長室の前に立っていた。理由はわからないが、代表として卒業証書を先に見せてもらえるのだという。重厚な扉を開けると、穏やかな笑みを浮かべた学園長が、一枚の羊皮紙を手にしていた。

「これが、君たちの未来を証明する『卒業証書』だ」

差し出されたそれを受け取る。だが、そこには何も書かれていなかった。名前も、与えられるはずの個性も。ただ、上質な紙の冷たさと重みだけが、手のひらに伝わってくる。

「卒業式の日に、君たち一人ひとりの個性がここに刻まれる。世界にただ一つの、君だけの証としてね」

学園長の言葉は滑らかだったが、僕の胸には奇妙な違和感が澱のように溜まった。まるで、大事な何かを強制的に上書きされるような、そんな予感。

その夜、リナが僕を待っていた。

「約束して」

彼女は僕の手を強く握った。その手は微かに震えている。

「何があっても、私のことを忘れないで。あなた自身のことも」

彼女の切実な声が鼓膜を震わせた瞬間、またあの奔流が僕を襲った。幼いリナが、祖母の弾くピアノの音色に聴き入っている。その旋律は、優しくて、悲しくて、彼女の世界のすべてだった。流れ込んでくる彼女の記憶の熱量に、僕は自分の輪郭が溶けていくような錯覚を覚えた。

第四章 システムの心臓

「おかしいよ、この学園は。みんな、何かを奪われてる」

卒業式前夜。リナは僕の手を引いて、月明かりの下を走っていた。目指すは、生徒の立ち入りが固く禁じられている中央管理塔。彼女の横顔は、これまで見たことがないほど固い決意に満ちていた。

塔の最深部で僕らが見たのは、およそ人の手によるものとは思えない光景だった。ドーム状の広大な空間の中心に、巨大な水晶のような装置が鎮座している。その内部では、無数の光の糸が脈打ち、まるで心臓のように蠢いていた。光の糸は、学園の隅々にまで伸びている。生徒たちの頭上にも。

「これは……」

「世界の安定のためだ」

静かな声に振り返ると、そこに学園長が立っていた。

「予測不能な個性は、時に世界を混乱させる。だから我々は、生徒たちの内に眠る可能性の原石――『存在の記憶』をここで一旦回収し、社会に有益な、制御された『個性』として再分配しているのだよ」

彼は僕をまっすぐに見据えた。その目に、初めて憐憫ではない、冷たい光が宿る。

「だが、君はシステムの想定外だった。調整漏れのバグだ。本来なら回収されるべき他者の『存在の記憶』を、その空っぽの器に溜め込みすぎた」

初めて、僕という存在の真実が告げられた。僕が誰かを忘れてしまうのではない。僕が、彼らの存在そのものを、無意識に吸い上げてしまっていたのだ。

第五章 記憶の解放

学園長が静かに手を上げる。僕の存在を「エラー」として消去するつもりなのだ。僕の背後で、リナが息を呑むのが分かった。

だが、恐怖はなかった。むしろ、パズルの最後のピースがはまったような、不思議な安堵感があった。僕の中に渦巻く、数え切れないほどの夢や情熱。ピアノを奏でたかった少年の指。キャンバスを彩りたかった少女の瞳。空を夢見た誰かの翼。それらはすべて、本物だったのだ。

僕は、リナにだけ聞こえるように囁いた。

「ありがとう。君がいたから、僕がここにいる意味が分かった」

学園長の制止を振り切り、僕はシステムのコア――脈打つ光の心臓へと歩み寄った。これが、皆から奪われた記憶の集合体。僕が、知らずに飲み込んできたものたちの墓標。

そっと、それに触れた。

瞬間、僕の身体から光が迸った。何百、何千という生徒たちの失われた記憶が、濁流となって世界に溢れ出す。それは悲鳴であり、歓喜の歌であり、生まれ落ちる前の産声だった。僕という器は砕け散り、奔流に溶けていく。意識が薄れゆく中、最後にリナの顔が見えた気がした。彼女の瞳には、生まれて初めて見る、鮮やかな色彩が映っていた。

第六章 生まれたての色彩

システムは崩壊し、学園を覆っていた灰色の空は晴れ渡った。光の雨が、全ての生徒たちに降り注ぐ。

呆然と立ち尽くす彼らの身体に、失われたはずの記憶の欠片が染み込んでいく。それは、与えられるはずだった偽りの「個性」ではない。忘れ去られていた、自分自身の本当の願い。

一人の少年が、おそるおそる手のひらを見つめる。その指先から、小さな炎が生まれた。それは教科書に載っているような制御された力ではなく、彼の心臓の鼓動と同じリズムで揺らめく、荒削りで、しかし力強い炎だった。

どこかから、澄み切った歌声が響く。声は窓ガラスを震わせ、新しい世界の始まりを告げているようだった。生徒たちは、初めて自らの意志で、自らの個性を創造し始めたのだ。

リナは、降り注ぐ光の雨を見上げていた。全ての音が、色を持っていた。風の音は柔らかな緑に、誰かの笑い声は弾けるようなオレンジに見える。ずっと夢見ていた世界。

だが、その色彩豊かな世界のどこを探しても、もう彼の姿はなかった。

隣にあるはずの温もりは、もうない。

第七章 君がいた証

彼の名前を覚えている者は、もう誰もいない。ユウキという少年がいた記録も、記憶も、この世界のどこにも残らなかった。

しかし、世界は確かに変わった。人々は与えられた個性に安住するのではなく、自らの内なる声に耳を澄まし、自分だけの色を紡ぎ出すようになった。灰色だった学園は、今では数え切れないほどの色彩で溢れている。

ある晴れた日の午後、リナは生まれ変わった学園の庭で、一枚の羊皮紙を拾った。それは、誰にも渡されることのなかった「空白の卒業証書」だった。

風が吹き、証書に陽光が当たった瞬間、その空白の表面に、一瞬だけ、全ての色彩を内包したような虹色の輝きが浮かび上がった。

リナは空を見上げて、そっと微笑む。

彼の存在は、誰の記憶にも残らないほど希薄になってしまった。でも、彼がいたからこそ、この色とりどりの世界がある。彼は、この世界の全ての個性の源――名もなき「記憶の源流」そのものになったのだ。

空白は、無ではない。

それは、これから描かれる無限の可能性を秘めた、始まりの色なのだから。

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