サイレント・ビートを聴かせて

サイレント・ビートを聴かせて

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第一章 不協和音と転校生

私立音響(おんきょう)学園。その門をくぐる者すべてが、固有の「音」を持つことを義務付けられた場所。誰かはヴァイオリンの旋律、誰かは風が木々を揺らす音、また誰かは夏の夕立の音。その「音」は魂の響きそのものであり、自己の証明だった。卒業までに自分だけの音を見つけられなかった者は「無音(サイレント)」と呼ばれ、社会から認識されない存在になる。それが、この学園の絶対的なルールだった。

高校二年生の水瀬響(みなせひびき)は、その「無音」に最も近い生徒だった。

中庭に聳え立つ、古びた「調律の鐘」。月に一度、全校生徒の「音」と共鳴し、学園の調和を確認するために鳴らされる。今、その鐘が重々しく鳴り響いている。響の親友、橘奏(たちばなかなで)の身体からは、深く、包み込むようなチェロの音色が溢れ、鐘の音と美しく溶け合っていた。周囲の生徒たちからも、ピアノのアルペジオや小鳥のさえずり、様々な音が生まれ、壮大なシンフォニーを奏でている。

だが、響の耳には、そのすべてが耳障りな金属音と不快なノイズの洪水にしか聞こえなかった。自分の内側を探っても、そこにあるのは深淵のような静寂だけ。焦燥が冷たい手で心臓を鷲掴みにする。

「響、大丈夫?」

奏が心配そうに響の顔を覗き込む。彼女のチェロの音が、優しく響の肩を撫でるようだった。

「うん、平気。ちょっと、鐘の音が大きくて……」

嘘だった。本当は、音のない自分がこの場所にいることが、たまらなく怖かった。

そんな不協和音が響の世界に満ち始めた頃、彼がやってきた。

HRの時間、担任が紹介した転校生――時雨(しぐれ)という名の少年。彼は、教室に入ってきた瞬間から異質だった。生徒たちの好奇の視線が放つ様々な「音」のシャワーを浴びても、彼は全く動じない。それどころか、彼自身からは何の「音」も聞こえてこなかったのだ。それは響が抱える「無」とは違う、まるで高密度の真空のような、あらゆる音を吸収してしまうかのような絶対的な静寂だった。

彼が教室に現れてから、奇妙な現象が起こり始めた。完璧なハーモニーを誇っていた学園の「音」が、僅かに、しかし確実に乱れ始めたのだ。それはまるで、完璧な調律のオーケストラに、たった一つ、狂った音叉が持ち込まれたかのような、不気味な変化だった。

第二章 静寂のヘッドフォン

時雨は誰とも交わろうとしなかった。休み時間のほとんどを、屋上で大きなヘッドフォンをつけて空を眺めて過ごしていた。彼が何を聴いているのか、生徒たちの間では噂が飛び交った。誰も知らない異国の音楽だとか、未来の音だとか。しかし、誰も彼に話しかける勇気はなかった。彼の纏う静寂が、見えない壁のように他者を拒絶していたからだ。

響は、自分の「音」を見つけるために必死だった。図書室で古い詩集をめくり、放課後の美術室でキャンバスに向かい、誰もいない音楽室でピアノの鍵盤に触れてみた。だが、何も生まれなかった。ページをめくる乾いた音、絵の具が掠れる音、調律の狂ったピアノの音。それらは全て外部の音であり、響の内側から湧き出てくるものではなかった。

「無音」になった先輩の噂が、亡霊のように廊下を彷徨っていた。卒業後、家族からも忘れられ、その存在が世界からゆっくりと消えていったのだという。その恐怖が、響の喉を締め付けた。

ある日の放課後、響は衝動的に屋上へ向かった。時雨はいつものようにフェンスに背を預け、ヘッドフォンで耳を塞いでいる。何かを確かめなければならない。そんな強迫観念に駆られて、響は震える声で彼に話しかけた。

「あの……何を、聴いているの?」

時雨はゆっくりと顔を上げた。夕陽を反射する彼の瞳には、何の感情も浮かんでいないように見えた。彼は何も言わずにヘッドフォンを外し、響の頭にそっと被せた。

響は息を呑んだ。ヘッドフォンから聴こえてきたのは、音楽ではなかった。音そのものが、なかった。完全な「無音」。それは、外部の音を遮断する、ただのノイズキャンセリング機能だった。

「どうして……」

「うるさいから」

時雨は短く答えた。「君たちの音は、全部同じに聞こえる。他人の顔色を窺って、周りに合わせようとするだけの、中身のない模倣の音だ」

その言葉は冷たい刃物のように響の胸を刺した。図星だったからだ。自分の音がないことを恐れるあまり、誰かの素敵な音を真似できたら、と何度思ったことか。

響が何も言えずにいると、時雨はヘッドフォンを奪い返し、再び自分の耳を塞いだ。だが、その一瞬。彼がヘッドフォンから手を離した、ほんの一瞬だけ、響は確かに聞いた。

――チリ、……カラン。

壊れたオルゴールのような、ひどく悲しくて、か細い音。それはすぐに彼の絶対的な静寂に飲み込まれて消えたが、響の鼓膜に、確かに焼き付いていた。

第三章 調律師の告白

学園の不協和音は、日増しに深刻になっていった。生徒たちの「音」は互いにぶつかり合い、苛立ちや対立を生んだ。完璧だったハーモニーは見る影もなく、誰もが自分の音の乱れを、謎の転校生である時雨のせいにした。彼は「音を持たない疫病神」と囁かれ、遠巻きにされ、敵意の視線を向けられた。

響は時雨を庇おうとした。彼から聞こえた、あの悲しい音のことが忘れられなかったからだ。しかし、そのせいで響自身も孤立を深めていった。親友の奏でさえ、「お願いだから、彼と関わらないで。あなたの存在までが、乱れてしまう」と涙ながらに訴える始末だった。

追い詰められた響は、再び屋上へと向かった。雨上がりの空気が澄み渡り、濡れたコンクリートの匂いがした。時雨は、初めて見る苦しげな表情で空を見上げていた。

「君のせいだって、みんな言ってる」

「……知ってる」

「どうして、何も言わないの」

響が問い詰めると、時雨は長い沈黙の後、重い口を開いた。

「僕が、君たちの言う『音』を持っていないのは事実だからだ」

彼の声は、諦めているようで、どこか安堵しているようにも聞こえた。

「僕は、人間じゃない。この学園の調和を維持するために創られた、システムの一部……『調律師』だ」

響は言葉を失った。調律師? システム?

「本来、僕は全ての生徒の音を聞き、全体のハーモEニーを微調整する役割を担っていた。だが、いつからか、君たちの音は個性を失い始めた。他者と違うことを恐れ、評価される音、好かれる音ばかりを模倣し、誰もが同じような綺麗な音を奏でようとする。その結果、全体のハーモニーは多様性を失って歪み、システムそのものが悲鳴を上げ始めたんだ」

壊れたオルゴールの音。あれは、彼の音ではなく、学園全体の悲鳴だったのだ。

「僕が転校生としてここに来たのは、この歪みの原因を取り除くためだ。ヘッドフォンをしていたのは、君たちの苦しみに満ちた歪んだ音の洪水から、自分を守るためだった」

時雨は真っ直ぐに響を見つめた。彼の瞳には、初めて感情の光が宿っていた。

「このままでは、システムは崩壊し、学園に存在する全ての『音』がリセットされる。君たちの記憶も、個性も、全てが消える。それを防ぐ方法は一つしかない」

彼は続けた。

「誰にも染まらず、何にも模倣されていない、全く新しい『原初の音』。それだけが、この歪んだハーモニーを正常に戻すことができる。僕は、その可能性を……まだ何色にも染まっていない、自分の『音』を持たない君に、見ているんだ」

第四章 私の心臓の音

年に一度の「大調律祭」。講堂に設置された巨大なクリスタルの鐘が、全生徒の「音」を集め、一年間の学園の調和を決定づける最も重要な日。もし、この日までに「原初の音」が見つからなければ、システムは強制リセットされる。全ての音が、消える。

ステージ袖で、響は自分の身体が氷のように冷たくなっていくのを感じていた。世界の命運を背負わされたような、途方もないプレッシャーが全身を押し潰そうとしていた。怖い。逃げ出したい。でも、時雨の切実な瞳と、最後まで「あなたを信じてる」と言ってくれた奏の言葉が、響の足をこの場所に繋ぎ止めていた。

自分の名が呼ばれ、響は覚束ない足取りでステージの中央へと進んだ。ざわめきと、不協和音の渦。嘲笑と、訝しむ視線。響は、ゆっくりと目を閉じた。

他人の音、期待、恐怖、焦り……。全ての外部からの情報を遮断する。時雨がヘッドフォンでそうしていたように。自分の内側へ、もっと深くへ。そこにあるのは、相変わらずの静寂。でも、もう怖くはなかった。この静寂こそが、自分自身なのだから。

その、どこまでも広がる静寂の海の中で、耳を澄ます。

すると、聴こえた。

ドクン。ドクン。

それは、ずっとそこにあった音。生まれてから一度も止まることなく、響の身体の中で鳴り続けていた音。誰に聞かせるでもなく、誰の真似でもない、生命そのもののリズム。

――私の、心臓の音。

これだ。これが、私の「音」だ。

響はマイクスタンドに近づき、そっと胸に手を当てた。その手に意識を集中させる。増幅された心臓の鼓動が、スピーカーを通して講堂全体に響き渡った。

トクン、トクン、という、力強くも穏やかな、根源的なビート。

その瞬間、講堂を埋め尽くしていた不協和音が、ぴたりと止んだ。全ての生徒が、まるで初めて聞く音であるかのように、そのシンプルなリズムに聴き入っていた。

すると、一つの音が応えた。奏のチェロの音色が、響の心音に優しく寄り添うように重なる。それを皮切りに、ピアノが、ヴァイオリンが、風の音が、波の音が、次々とそのビートに引き寄せられるように、それぞれの個性を保ったまま、新たなハーモニーを奏で始めた。それは、無理に調和させられた画一的な音楽ではない。一つ一つの音が輝きながらも、互いを尊重し、受け入れ合うような、壮大で、生命力に満ちたシンフォニーだった。

ステージの袖で、時雨が穏やかに微笑んでいた。彼の身体が、足元からゆっくりと光の粒子となって崩れていく。彼の役目は終わったのだ。

「君の音は、世界を調律する」

唇が、そう動いたように見えた。ありがとう、と響が心の中で呟いたとき、彼の姿は完全に消え、後には優しい光の余韻だけが残されていた。

数年後。卒業した響は、雑踏の交差点の真ん中に立っていた。車のクラクション、人々の話し声、店の音楽。世界は、かつて彼女が恐れた音の洪水で満ちている。だが、彼女はもう迷わない。胸に手を当てれば、いつでもそこに、変わらない自分の「音」があることを知っているからだ。

あの学園は、特別な「音」を見つける場所ではなかった。誰もが既に持っている、自分だけの「音」の聴き方を学ぶ場所だったのだ。

ふと、空を見上げる。吹き抜ける風の中に、一瞬だけ、壊れたオルゴールのような、どこか懐かしくて優しい音が聞こえた気がした。

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