影写師 勘三郎覚え書き

影写師 勘三郎覚え書き

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第一章 墨染めの忘却

神田の裏通り、陽の光さえ届くのをためらうような細い路地に、勘三郎の住まいはあった。元は武家屋敷の物置だったというその家は、煤と古びた木の匂いが染みつき、訪れる者を拒むかのように静まり返っている。勘三郎の生業は「影写師」。人の記憶を、和紙の上に墨の濃淡として写し取る、この世ならざる稼業だ。

その日、戸を叩いたのは、上質な縮緬の着物を着た、見るからに裕福そうな若者だった。顔色は土気色で、整った目鼻立ちが恐怖に歪んでいる。日本橋の大店「越後屋」の若旦那、伊之助と名乗った。

「どうか、お助けくだされ。私の記憶を…写し取っていただきたい」

絞り出すような声だった。聞けば、三日前の晩からの記憶が、まるで墨をこぼしたように真っ黒に抜け落ちているのだという。目を覚ましたら自室の布団の上で、何があったのか誰に聞いても要領を得ない。そして何より、彼の許嫁であるお琴という娘が、同じ日から忽然と姿を消していた。

「私が…私がお琴を、どうにかしてしまったのではないかと…。そう思うと、恐ろしくて…」

伊之助の目は潤み、震える手で畳を掴んだ。勘三郎は、感情のない目で彼を見下ろした。人の記憶など、覗いて面白いものではない。嫉妬、憎悪、欲望。どす黒い感情の渦が、墨となって紙に広がるのを、彼はこれまで幾度となく見てきた。それは、魂をすり減らす作業だ。

「代金は高くつく。それでも構わぬか」

「はい。店にある金子、いくらでも…」

「金子ではない」

勘三郎は、壁に立てかけてあった一枚の板を指さした。そこには、精緻な筆致で描かれた、名も知らぬ山の風景画があった。

「あんたの店が扱っている、舶来の『ぷるしあんぶるう』という顔料が欲しい。それも、ありったけだ」

伊之助は一瞬戸惑ったが、すぐにこくりと頷いた。勘三郎にとって、人の醜い記憶を写し取った後に、この世で最も美しいと感じる青色で、誰もいない静かな風景を描くことだけが、唯一の救いだった。

「よかろう。では、始めるとするか」

勘三郎は、伊之助を部屋の中央に座らせ、蝋燭の灯りを一つだけにした。懐から取り出したのは、漆黒の墨と、月光を漉き込んだかのように青白く光る特殊な和紙。これは、人の想念に感応する霊木から作られたものだ。

「心の中を、空にするのだ。思い出そうとせず、ただ、流れに身を任せよ」

冷たい声で告げると、勘三郎は伊之助の額にそっと指を触れた。指先から、冷気が流れ込むような感覚。勘三郎は目を閉じ、意識を集中させた。筆が、意思を持った生き物のように和紙の上を滑り始める。

やがて紙の上に現れたのは、混沌としたイメージの断片だった。泣き叫ぶお琴の顔。伊之助自身の、怒りに歪んだ表情。そして、闇の中にきらりと光る、血に濡れた珊瑚のかんざし。最後に浮かび上がったのは、見知らぬ男の冷たい目元と、その口元にあった大きな黒子だった。

「…これは」

伊之助は、紙の上に広がる悪夢のような光景に息を呑んだ。やはり自分が、お琴を…。絶望が彼の顔を覆う。だが、勘三郎は違和感を覚えていた。写し取られた記憶の感触が、いつもと違う。まるで、他人の着物を無理やり着せられたような、奇妙なズレがあった。これは、本当に伊之助自身の記憶なのだろうか。勘三郎の心に、これまで感じたことのない疑念の種が蒔かれた。

第二章 影が囁く断片

翌日から、勘三郎の奇妙な調査が始まった。影写師として得た記憶の断片――血濡れのかんざしと、口元に黒子のある男――だけが唯一の手がかりだ。彼はまず、お琴が姿を消したという越後屋の周辺を洗った。

聞き込みで分かったのは、お琴という娘が、評判の働き者で心根の優しい娘だったということ。伊之助との仲も睦まじく、誰もが二人の祝言を心待ちにしていたという。伊之助が彼女に手を上げるなど、到底考えられないことだった。

「若旦那は、少し気が弱いところはありますが、虫も殺せないようなお優しい方ですよ」

番頭はそう言って首を傾げた。だが、勘三郎が店の内情について探りを入れると、少し空気が変わった。伊之助の叔父にあたる番頭の弟が、最近、素性の知れぬ商人たちと頻繁に会っているという。その商人というのが、口元に大きな黒子を持つ男だという噂だった。

勘三郎は、かつて自分が武士だった頃を思い出していた。彼の家は、代々藩主の密命を受け、人の心を操る術を研究していた。その一環として受け継がれてきたのが、この「影写し」の能力だ。しかし、勘三郎はこの力を忌み嫌っていた。人の記憶は、美しいものばかりではない。醜い秘密、裏切り、癒えぬ憎しみ。それらに触れ続けるうちに、彼の心は凍てつき、人を信じることができなくなった。ある任務で親友の裏切りを知ってしまったことをきっかけに、彼は刀も身分も捨て、影のように生きることを選んだのだ。

だから、今回の依頼も、金と顔料のためと割り切っていたはずだった。だが、伊之助の記憶に感じたあの奇妙な「ズレ」が、勘三郎の心を離れなかった。まるで、誰かが無理やり押し込んだような、借り物の記憶。そんなことがあり得るのだろうか。

その夜、勘三郎は再び伊之助を呼び出した。

「もう一度、写させてもらう。今度は、もっと深く…あんたの魂の底まで潜る」

「しかし、これ以上何が…」

「黙って座れ。真実が知りたいのだろう」

勘三郎の気迫に押され、伊之助は再び彼の前に座った。二度目の影写し。一度目よりも深く、長く、勘三郎は伊之助の意識の深淵へと潜っていった。墨が、悲鳴を上げるように紙の上を走る。伊之助の苦悶の息遣いが、薄暗い部屋に響いた。

そして、勘三郎は見た。それは、伊之助の記憶の、さらに奥底に封じられていた、もう一つの記憶だった。

第三章 写し鏡の真実

和紙の上に広がった光景は、衝撃的だった。それは、伊之助の視点ではなかった。震える小さな体、恐怖に見開かれた瞳。それは、許嫁であるお琴の視点だった。

記憶の中で、お琴は店の蔵に隠れ、息を殺していた。聞こえてくるのは、伊之助の叔父と、あの黒子のある男の声。彼らは、越後屋の財産を乗っ取るための悪辣な計画を練っていた。帳簿をごまかし、伊之助に濡れ衣を着せ、店を乗っ取る算段だった。

「あの若造は、人が良すぎるのが命取りよ」

「事が済んだら、娘ごと消してしまえばいい」

卑劣な会話を聞いてしまったお琴は、その場から逃げ出そうとして物音を立ててしまう。男たちに見つかり、追い詰められた。蔵の隅で、彼女は必死に抵抗した。伊之助から贈られた珊瑚のかんざしを抜き、男の腕に突き立てる。しかし、非力な彼女はすぐに組み伏せられ、刃物で深く斬りつけられてしまった。

朦朧とする意識の中、お琴はただ一点、愛しい伊之助のことだけを想っていた。「あの方を守らなければ」。その強い、あまりに強い想いが、奇跡を起こした。

遠くから駆けつけてきた伊之助が、倒れているお琴を見つける。息も絶え絶えのお琴は、最後の力を振り絞り、伊之助の額に自分の手を当てた。その瞬間、彼女が見たすべての光景――叔父たちの密談、犯人の顔、自らの絶望――が、奔流となって伊之助の意識の中へ流れ込んだのだ。

「伊之助様…お逃げください…」

それが、彼女の最後の言葉だった。あまりに強烈な記憶の流入に耐えきれず、伊之助は気を失った。そして、お琴の最後の願いが、彼の記憶に蓋をした。彼女の記憶を封じ込めることで、彼自身が犯人たちの次の標的になることを防ごうとしたのだ。

勘三郎が写し取っていたのは、伊之助自身の失われた記憶ではなかった。それは、伊之助の中に移植された、お琴の「最期の記憶」だったのだ。

「…そうか」

勘三郎は、筆を置いた。全身から力が抜けていく。影写しの能力を持つ者、あるいはそれに近い素養を持つ者が、極限状態において、強い想いを持つ相手と記憶を交わしてしまうことがある。古文書で読んだだけの、伝説のような現象だった。伊之助にもまた、自分と同じ呪われた力が眠っていたのだ。

「お琴さんは…あんたを、守ろうとしたんだ」

勘三郎の言葉に、伊之助は和紙に描かれた真実を見つめ、わっと泣き崩れた。それは、恐怖や混乱の涙ではなかった。守られたことへの感謝と、守れなかったことへの悔恨、そして愛する人を失った深い悲しみが入り混じった、慟哭だった。

第四章 残された言の葉

凍てついていたはずの勘三郎の胸の奥で、何かが音を立てて軋んだ。これまで彼が写し取ってきた記憶は、憎悪や欲望に満ちたものばかりだった。だが、今、目の前にあるのは、己の命を賭して愛する者を守ろうとした、気高い魂の記録だった。

人の記憶は、醜いだけではなかった。こんなにも温かく、切なく、そして強い光を放つことがあるのか。

「伊之助殿」

勘三郎の声は、いつになく穏やかだった。

「あんたの中に、お琴さんは生きている。彼女の記憶が、想いが、確かにある。どうするかは、あんた次第だ」

彼は、ただ事実を告げるだけだった。裁きを下すのは、自分ではない。お琴の想いを受け取った、伊之助自身なのだ。

翌日、伊之助は変わった。かつての気弱な若旦那の面影はない。その目には、覚悟の光が宿っていた。彼は、勘三郎が写し取った記憶の絵図を懐に、叔父と黒子の商人の前に立った。

「すべて、知っております」

伊之助が静かに告げると、男たちの顔色が変わった。彼は、お琴の記憶が見せた通りの隠し帳簿の場所を指摘し、彼らの悪事を暴き立てた。それは、まるで亡きお琴が、伊之助の口を通して語っているかのようだった。観念した叔父たちは捕吏に引き渡され、越後屋は守られた。

事件が落着した数日後、勘三郎の住まいに、約束の「ぷるしあんぶるう」が届けられた。箱の中には、顔料と共に一通の文が添えられていた。

『勘三郎様。あなた様のおかげで、私は道を見失わずに済みました。私は、お琴の記憶と共に生きていきます。この力は呪いではなく、彼女が私に遺してくれた絆なのだと、今は思えます。いつか、この力で誰かを救える人間になりたい。心より、感謝申し上げます』

勘三郎は、その文を静かに読んだ。彼は返事も書かず、受け取ったばかりの鮮やかな青を絵皿に溶いた。そして、新しい和紙に向かい、筆を走らせる。

彼が描いたのは、いつものような誰もいない風景ではなかった。夕暮れの橋の上、寄り添って立つ若い男女の姿があった。男は優しい眼差しで女を見つめ、女は幸せそうに微笑んでいる。それは、勘三郎が見たこともない、伊之助とお琴の、あり得たかもしれない未来の姿だった。

絵を完成させた勘三郎は、縁側に座り、暮れていく空を眺めた。人の記憶に触れることは、やはり魂を削る。だが、それはただ苦痛なだけではない。時には、こうして救われることもあるのだ。愛も、悲しみも、強い想いも、すべては人の記憶の中に宿り、誰かに受け継がれていく。

自分はこれからも、影を写す者として生きていくだろう。だが、その瞳に宿る色は、もう虚無の灰色ではなかった。それは、夕焼けの空に溶けていく、あの切なくも美しい青の色を、微かに含んでいるように見えた。

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