第一章 忘却の島の卒業条件
海霧に縁取られた孤島に、僕の通う全寮制高校「私立碧凪(あおなぎ)学園」は、まるで世界から忘れ去られたように建っている。本土とを結ぶ船は週に一度。生徒たちは皆、卒業までの三年間をこの島で過ごす。
卒業を二ヶ月後に控えた僕は、言いようのない焦燥に駆られていた。この学園には、一つだけ奇妙で、そして絶対的な卒業条件が存在するからだ。それは、「三年間で最も価値のある思い出を、一つだけ提出すること」。
提出された思い出は「追憶の結晶」と呼ばれる手のひらサイズの宝石に変換され、学園の書庫に永久保管される。そして、提出した生徒は、その思い出に関する一切を、感情も、情景も、完全に忘却する。馬鹿げたシステムだ。まるで、青春の美しい部分だけを抜き取って売り払うような行為じゃないか。
「湊(みなと)はもう決めた? どの思い出にするか」
放課後のラウンジで、クラスメイトの陽菜(ひな)が屈託のない笑顔で尋ねてきた。彼女の周りだけ、陽だまりができているように明るい。
「さあな。俺には提出できるような、キラキラした思い出なんてないから」
僕はコーヒーカップに視線を落としたまま、ぶっきらぼうに答えた。事実だった。この学園での三年間、僕は意識的に人との深い関わりを避けてきた。傷つくのも、傷つけられるのもごめんだった。思い出なんて、後で感傷に浸るための厄介な代物でしかない。
「そんなことないよ! 体育祭のとき、リレーでアンカーだった湊、すっごく格好良かったもん! あれは最高の思い出だよ!」
「あれは足を捻った先輩の代理だ。それに、結局二位だった」
「じゃあ、合唱コンクールで、男子パートを一人で支えてたじゃない!」
「風邪で欠席者が多かっただけだ」
僕が何を言っても、陽菜は太陽のような笑顔でポジティブな思い出を掘り起こしてくる。彼女は、提出する思い出が多すぎて選べないのだと、贅沢な悩みを抱えていた。友達と笑い合った文化祭、初めて満点を取ったテスト、夕暮れの海岸で見た虹。そのどれもが彼女にとっては宝物で、忘れることなんてできないのだという。
「思い出を失うって、どんな気持ちなんだろうね」
陽菜の呟きが、やけに心に引っかかった。
僕は、彼女の存在そのものが眩しくて、いつも少しだけ距離を置いていた。そんなある日のことだ。僕は例の卒業課題から逃げるように、学園で最も静かな場所、巨大な書庫の最奥へと足を運んだ。歴代の卒業生たちが残した「追憶の結晶」が、ステンドグラスのように壁一面の棚で輝いている。青は悲哀、赤は情熱、金は歓喜。結晶に触れると、持ち主が忘れたはずの感情の残滓が、微かに伝わってくる。
その無数の輝きの中で、僕は一つだけ異質なものを見つけた。どの色にも染まらず、ただ、空虚なほどに透明な結晶。まるで、何も入っていないガラス玉のようだった。ラベルには、名前も日付も記されていない。ただ、「空白」とだけ。
好奇心に抗えず、そっと指でそれに触れた瞬間だった。
───キィン、と耳鳴りのような音がして、頭の中に直接、知らないはずの少女の笑い声が響いた。鈴が転がるような、澄んだ声。それは一瞬の幻聴で、すぐに書庫の静寂が戻ってきた。しかし、僕の心臓は、これまでにないほど激しく鼓動していた。
これは、なんだ? 誰の記憶でもない、「空白」の思い出とは。そして、この声は一体、誰なんだ? 僕の退屈だったはずの日常が、その瞬間、音を立てて軋み始めた。
第二章 二人で見つけた仮説
あの奇妙な体験以来、僕の頭は「空白の結晶」のことで一杯になった。あれは一体何なのか。誰が、何を思って、あんなものを残したのか。授業も上の空で、僕は暇さえあれば書庫に通い、古い記録を漁った。
そんな僕の異変に、最初に気づいたのは陽菜だった。
「最近、ずっと難しい顔してる。また思い出のことで悩んでるの?」
「……まあ、そんなところだ」
「よかったら、私に話してくれないかな。一人で悩むより、二人の方がいい考えが浮かぶかもよ?」
彼女の真っ直ぐな瞳に見つめられ、僕は観念して「空白の結晶」の一件を打ち明けた。僕の突拍子もない話を、陽菜は真剣な眼差しで聞いてくれた。そして、僕が幻聴だと思っていた少女の笑い声の話をすると、彼女はハッとしたように言った。
「それって、もしかして……思い出が『入る前』の結晶なんじゃないかな」
「入る前?」
「うん。私たちの思い出って、この学園に来てから作ったものでしょ? でも、もし学園に来る前の思い出を提出しようとしたら……? でも、それはできない。ルール違反だから。だから、何か特別な事情で、思い出を入れられなかった人の『器』だけが、そこに残ってる……とか?」
陽菜の仮説は、荒唐無稽に聞こえた。だが、なぜか妙な説得力があった。僕たちは二人で、その仮説を証明するために動き始めた。放課後、僕たちは書庫で過去の卒業生名簿を調べ、夕食後にはラウンジで情報交換をする。そんな日々が続いた。
皮肉なことに、思い出作りを避けてきた僕が、陽菜と共に「謎を解く」という、忘れがたい時間を作っていた。夕暮れの図書館で、西陽が差し込む中、古い羊皮紙の匂いに包まれながら二人で顔を寄せ合ったこと。深夜、寮を抜け出して、満天の星空の下で他愛もない話をしたこと。冷たいと思っていた学園の空気が、陽菜といるだけで、どこか温かく感じられた。
「ねえ、湊」ある日、海岸で並んで座っていると、陽菜が言った。「もし、この時間が私の『一番の思い出』になっちゃったら、どうしよう。卒業するために、湊とのこと、忘れなきゃいけなくなっちゃうのかな」
その言葉に、僕の心臓は冷水を浴びせられたように凍りついた。考えたくなかった。陽菜と過ごしたこの輝くような時間を、卒業と引き換えに失うことなど。陽菜が、僕に関する記憶を失ってしまうことなど。
「……そんなの、俺が許さない」
気づけば、声が漏れていた。自分でも驚くほど、強い口調だった。陽菜が目を丸くして僕を見る。
「思い出なんて価値がないと思っていた。でも、今は違う。陽菜といるこの時間は、絶対に失くしたくない」
僕の中で、何かが明確に変わった瞬間だった。この学園の、思い出を奪うシステムへの、静かな怒りが込み上げてきた。守りたいものが、僕にもできてしまったのだ。陽菜の笑顔も、二人で過ごした時間も、そのすべてを。
第三章 反転する世界の意味
僕たちの調査は、学園の創設者である初代理事長の名前に辿り着いた。彼は著名な脳科学者であり、同時に、最愛の娘を事故で亡くしていた。その娘は、事故のショックで、事故そのものだけでなく、家族との幸せな記憶のすべてを失ってしまったという。
その事実が、僕の中でバラバラだったピースを繋ぎ合わせた。雷に打たれたような衝撃と共に、一つの恐ろしい、そしてあまりにも切ない真実が姿を現した。
僕はラウンジで待つ陽菜の元へ走った。息を切らしながら、僕は組み立てた仮説を彼女に伝えた。
「陽菜、俺たちは勘違いしていた。根本的に、すべてを間違えていたんだ」
「どういうこと?」
「この学園は、『思い出を失わせる』場所じゃない。逆だ。『失われた思い出を取り戻させる』ための場所だったんだ」
僕の言葉に、陽菜は息を呑んだ。
「ここにいる生徒は全員、入学前に、人生における何か決定的に大切な記憶を、事故やトラウマで失っているんだ。初代理事長の娘さんのように。だから僕たちは、自分の過去が思い出せない。僕が『価値のある思い出がない』と感じていたのは、本当に無かったからなんだ。一番大切な部分が、ごっそりと抜け落ちていたからだ」
学園の風景が、ぐにゃりと歪んで見えた。そうだ、思い返せばおかしかったのだ。どの生徒も、中学以前の具体的な思い出話をしない。皆、どこか自分の過去に対して希薄だった。
「『最も価値のある思い出の提出』は、記憶を消すための儀式じゃない。この学園で新しく作った最高の思い出を、失われた過去の空白部分に『上書き』して、心の核として定着させるための、卒業試験なんだ。だから、提出した思い出は忘れない。むしろ、その思い出を支えにして、社会に戻っていくためのリハビリテーション……それが、この学園の本当の目的だったんだよ」
陽菜は呆然と僕を見つめている。
「じゃあ、あの空白の結晶は……?」
「……あれは、僕自身のものだ」
僕は、確信を持って告げた。
「僕がこの学園に入学した時、失った思い出が入るはずだった『器』そのものなんだ。僕が忘れてしまった、あまりにも大切だった何かのための……。あの時聞こえた笑い声は、幻聴じゃない。僕が忘れてしまった、妹か誰かの声だったんだ」
真実の重みに、立っていられなくなりそうだった。僕が皮肉屋で、人を遠ざけていたのは、性格なんかじゃなかった。ただの喪失感だったのだ。心の真ん中にぽっかりと空いた穴を、どう埋めればいいか分からなかっただけなのだ。
世界が反転する。悲劇だと思っていた卒業条件は、実は最大の救済だった。僕たちは、失うことを恐れていたのではなく、得るためにここにいた。陽菜も、僕も、ここにいる誰もが、失われた自分の物語を取り戻すために、必死に新しい物語を紡いでいたのだ。
第四章 未来を選ぶための記憶
卒業の日。講堂には厳かな空気が満ちていた。生徒たちは一人ずつ名前を呼ばれ、壇上で自分の「追憶の結晶」を提出していく。それは、悲しい別れの儀式ではなかった。新しい自分を定義し、未来へ踏み出すための、祝福の儀式だった。
陽菜の番が来た。彼女は僕を見て、小さく、しかし力強く頷いた。彼女が提出したのは、燃えるような夕焼け色に輝く結晶だった。
「私が提出するのは、湊君と出会って、空白の結晶の謎を追いかけた、この数ヶ月のすべての思い出です」
彼女の声は、凛と響いた。
「失うためじゃありません。この温かい時間を、私の人生の始まりにするためです。これから先、どんなことがあっても、この輝きを胸に生きていくと、誓うためです」
彼女はもう、何も恐れていなかった。喪失を受け入れ、その上で新しい希望を掴み取っていた。
そして、僕の番が来た。壇上に上がり、眼下に並ぶ生徒たちと、誇らしげに見守る教師たち、そして、真っ直ぐに僕を見つめる陽菜の姿を見る。
僕の手の中には、あの「空白の結晶」が握られていた。
選択肢は二つ。一つは、陽菜と共に過ごした、僕の人生で初めて他者を必要だと感じた、あのかけがえのない時間の思い出を提出すること。そうすれば、僕の過去の空白は、その温かい記憶で満たされるだろう。
もう一つは。
僕はマイクの前に立ち、深く息を吸った。
「僕が提出するのは、思い出ではありません」
講堂がざわめく。
「僕が提出するのは、『決意』です」
僕は、透明な結晶を高く掲げた。
「失われた過去が何だったのか、僕は知りません。それを取り戻すことも、もう望みません。僕は、過去ではなく、未来を選びます。陽菜と出会い、この学園の真実を知り、これから彼女と共に、この空白を遥かに凌駕するほどの新しい思い出を作っていくと決めた、たった今の、この瞬間の決意を、僕の核にします」
過去の空白は、空白のままでいい。それは喪失の証なんかじゃない。これから二人で満たしていくための、未来への余白だ。
僕がそう宣言した瞬間、手にしていた透明な結晶に、内側から淡い、しかし力強い光が灯った。それは、夜明けの空のような、始まりの色をしていた。
卒業式の後、僕と陽菜は、本土へ向かう船に乗るために桟橋に立っていた。
「私のこと、忘れなくてよかった」
陽菜が、いたずらっぽく笑う。
「当たり前だ。これから、もっとたくさんのことを覚えなきゃいけないんだから」
僕たちは、どちらからともなく手をつないだ。肌寒い海風が、今は心地よかった。
「どこへ行こうか」と僕が尋ねる。
「どこへでも」と陽菜が答える。「これから全部が、私たちの思い出になるんだから」
僕らが忘れた過去が何だったのか、もう重要ではなかった。大切なのは、何を失ったかではない。これから、何を記憶していくかだ。僕たちの本当の物語、空白だったクロニクルは、今、まさに最初のページが開かれたのだから。