第一章 響きの錯覚
ミナトの指先で、銀色の音叉が澄んだ音を立てた。キィン、という金属音が空間を震わせると、机の上のガラスペンがわずかに浮き上がり、空中で静止する。周囲の生徒たちから、感嘆とも呆れともつかない溜息が漏れた。
「またやってるよ、ミナトの『錯覚アート』」
誰かが囁く声が耳に届く。彼らはこれを、精巧に計算された音響と光の屈折が生み出す幻覚、一種の芸術だと信じている。教師でさえ、「君の才能は素晴らしいが、物理法則の基礎を忘れてはならない」と、困ったような笑みを浮かべるだけだった。
だが、ミナトにとってこれは現実だった。彼が長年探求してきた「共振理論」。万物は固有の周波数を持ち、完璧な共振を生み出せば、その存在を一時的に書き換えることができる。ペンを浮かせることも、水の分子構造を組み替えて一瞬だけ氷に変えることも、彼にとっては数式で証明可能な、紛れもない現実なのだ。
しかし、その現実を共有できる者は、このエウレカ学園には誰一人いなかった。孤独が彼の影を濃くする。
近頃、学園には奇妙な「忘却の霧」が立ち込めることが増えていた。乳白色のそれは視界を奪うだけでなく、人々の記憶を曖昧にする。昨日の夕食の献立、親しい友人の名前、ついさっきまで覚えていたはずの公式。些細な記憶の断片が、霧に触れると淡雪のように溶けていく。人々はそれを気圧の変化か何かのせいだと片付けたが、ミナトは霧の中に、何か法則性のない、不気味な静けさを感じ取っていた。
第二章 霧の中の扉
「なあミナト、昨日の約束、覚えてるか?」
昼休み、カケルが少し拗ねたように話しかけてきた。ミナトは首を傾げる。約束なんてしただろうか。カケルの顔を見つめるが、何も思い出せない。彼の眉が悲しそうに下がるのを見て、ミナトの胸がちくりと痛んだ。
忘却の霧は、確実にミナトの記憶をも蝕み始めていた。焦りが募る。失われていくのは、ただの知識ではない。カケルと笑い合った時間、何気ない日常の輝き。それらが指の間から零れ落ちていく感覚は、耐え難い恐怖だった。
その日の放課後、ミナトは誰もいない物理実験室に籠っていた。彼は衝動に駆られるように、大きさの違う十数本の音叉を並べ、複雑な和音を奏で始めた。それは単一の物質を対象とする共振ではなかった。空間そのもの、世界そのものを震わせる、禁じられた調律。
「もっと深く、もっと根源へ――」
彼が最後の音叉を打ち鳴らした瞬間、世界から音が消えた。いや、全ての音が一つの完璧なハーモニーに収斂し、静寂となったのだ。それは彼が追い求めてきた「学びの極意」――万物照応の共振――に触れた瞬間だった。
そのとき、奇跡が起きた。濃密な霧が立ち込めていた窓の外、その一角だけが嘘のように晴れ渡り、これまで存在しなかったはずの、蔦の絡まる重厚な木製の扉が、夕陽を受けて静かに佇んでいた。扉には鍵穴も取っ手もなく、ただそこにあるという事実だけが、圧倒的な存在感を放っていた。
第三章 白紙の頁が囁くとき
何かに導かれるように、ミナトは扉に近づいた。彼がそっと表面に触れると、扉は音もなく内側へと開く。吸い込まれるように足を踏み入れると、ひんやりとした空気と、古い紙の匂いが彼を包んだ。
そこは、ドーム状の高い天井を持つ巨大な図書館だった。無数の書架が迷宮のように並んでいるが、奇妙なことに、どの本にも背表紙がなく、手に取って開いても、中はただ真っ白なページが続くだけだった。
不思議なことに、この空間にはあの忘却の霧が一切存在しない。むしろ、失いかけていた記憶の輪郭が、少しずつ鮮明になっていく感覚があった。
図書館の中央、大理石でできた巨大な書見台の上に、一冊だけ開かれた本があった。それもまた、白紙。表紙すらない、ただの白い紙の束だ。ミナトが恐る恐るそのページに指を触れた、その時だった。
インクが滲み出すように、彼の指が触れた場所から、美しい数式と幾何学模様がひとりでに現れ始めた。それは、彼が先ほど掴んだばかりの「万物照応の共振」に関する、彼自身もまだ言語化できていなかった理論体系そのものだった。
「これは……僕の学びが、ここに……?」
白紙の教科書。それは、学ぶ者の魂を写し取る鏡だった。
第四章 集いし創造主候補
「君も、呼ばれたんだね」
背後からの声に、ミナトは弾かれたように振り返った。そこに立っていたのは、光を操る色彩理論の使い手だという少女、アカリ。そして、局所的に熱を奪い時間を遅延させる熱力学の探求者、ソウヤ。彼らもまた、自らの「学びの極意」を掴んだことで、この「忘れられた図書館」への扉を顕現させたのだという。
「僕の絵の具は、光そのものを混ぜ合わせる。でも、みんなはただのトリックだっていうんだ」
「時間の流れが歪むのを感じる。だが、誰も信じてはくれない」
彼らの瞳には、ミナトと同じ孤独の色が浮かんでいた。自分たちの信じる現実を「錯覚」と断じられ、世界から切り離されてきた者たち。この図書館だけが、彼らの学びを真実として受け入れてくれる場所だった。
白紙の教科書には、アカリが触れると光のスペクトルに関する法則が、ソウヤが触れるとエントロピーを覆す方程式が、次々と書き込まれていく。ページが埋まるたびに、図書館の空気がわずかに震え、世界の根幹が書き換えられていくような荘厳な感覚があった。
彼らは気づいていた。この図書館の奥には、まだ何か重大な秘密が隠されている。そして、学園を蝕む忘却の霧の正体も、きっとここにあるはずだと。彼らは顔を見合わせ、無言のまま頷き合うと、図書館のさらに深淵へと続く通路へ、共に歩を進めた。
第五章 忘れられた設計図
図書館の最深部へ進むにつれて、空気は重く、冷たくなっていった。壁には、見たこともない星座や、理解不能な数式がびっしりと刻まれている。そして彼らは、ついに忘却の霧の源泉へとたどり着いた。
それは、巨大な水晶のような塊だった。その内部で、無数の光景が生まれては消えていく。それは、誰かが見た夢、誰かが語った物語、そして、かつて存在したかもしれない「世界」の断片だった。
忘却の霧とは、「忘れられた記憶」そのものだったのだ。
壁に描かれた一枚の巨大な壁画が、全ての答えを示していた。この世界は、始まりから終わりまで、何度も「学び」によって創造され、そして「忘れられ」てきた。エウレカ学園とは、次の世界を創造するための法則を記述する「創造主候補」たちを育てるための苗床。そして「学びの極意」とは、新たな世界の物理法則を一つ、その身に刻み込む儀式だった。
白紙の教科書が全ての極意で埋め尽くされたとき、それは新たな世界の「設計図」として完成する。そして、旧世界である今の世界は、そこに生きた人々の記憶もろとも、「忘れられた物語」として霧の中に溶け、完全にリセットされるのだ。
ミナトは戦慄した。では、極意を掴めなかった他の生徒たちは? カケルは?
答えは、霧の中に揺らめいていた。カケルの笑顔、他の友人たちの姿。彼らの存在はすでに希薄になり、輪郭がぼやけ始めている。彼らは「忘れられ」かけているのだ。自分たちが教科書を完成させることが、彼らを完全に消し去る引き金になる。その事実に、ミナトは息を呑んだ。
第六章 創造主の選択
白紙の教科書は、最後の見開きを残すのみとなっていた。それを埋めるのは、最初に扉を開いたミナトの役目だった。彼が「万物照応の共振」の最後の数式を書き込めば、設計図は完成する。
そのとき、図書館の静寂を破り、声が響いた。それは特定の個人から発せられるものではなく、図書館そのもの、いや、世界の意志とでもいうべき、冷徹で深遠な響きだった。
《選択の時です、最後の創造主よ》
《この不完全で、いずれ霧に飲まれる世界を完成させ、忘れ去ることで、完璧な法則に満ちた新たな世界を創造なさい。それは、あなた方の学びが生み出す、理想の世界です》
《あるいは――》
声は続けた。
《創造を放棄し、この曖昧で、記憶が失われゆく世界と共に、緩やかな崩壊を受け入れるか。友の記憶と共に、忘れられる存在となるか》
アカリとソウヤが、苦悶の表情でミナトを見つめる。新しい世界の創造主となる栄光か。消えゆく友との絆を守る滅びか。究極の選択が、たった一人の少年の肩にのしかかっていた。ミナトは固く目を閉じ、震える手で音叉を握りしめた。カケルの「約束、覚えてるか?」という声が、耳の奥で木霊していた。
第七章 君の音を忘れない
ミナトはゆっくりと目を開けた。その瞳に、もう迷いはなかった。
彼は白紙の教科書には向かわず、忘却の霧が渦巻く源泉――巨大な水晶の前へと歩み出た。そして、懐から取り出した一本の音叉を、静かに打ち鳴らす。
キィィン……。
その音は、新たな世界の法則を記述するものではなかった。それは、カケルと交わした他愛ない会話の響き。学園の廊下を駆け抜ける足音。木漏れ日の中で聞いた鳥のさえずり。不完全で、矛盾だらけで、それでも愛おしい、彼が生きてきた世界の「音」だった。
「新しい世界なんて、いらない」
ミナトは囁き、次々
と音叉を鳴らしていく。彼の指先から紡ぎ出されるのは、複雑で、どこか不協和音を奏でるメロディ。それは、忘れられゆく友人たちの、一人一人の「存在の周波数」だった。
「僕が憶えている。僕が、この世界を忘れない」
彼は教科書を完成させる代わりに、自らの極意の全てを使い、霧に溶けかかった仲間たちの存在を、この世界に「共振」させ、繋ぎ止めようと試みたのだ。それは、世界の理に抗う、あまりにも無謀な調律だった。
図書館全体が、彼の奏でる音に呼応して激しく震え始める。天井から埃が舞い、書架の本が崩れ落ちる。世界の創造を放棄した代償か、あるいは新たな希望の産声か。
やがて、ミナトの背後で、彼が入ってきた扉がゆっくりと閉じ始めた。
彼の選択がどのような結末をもたらすのか、誰にも分からない。世界は救われたのか、それとも緩やかな終焉に向かうだけなのか。
ただ、閉ざされていく扉の隙間から、忘却の霧に満ちた学園へと、澄んだ音叉の音が、いつまでも、いつまでも響き渡っていた。それは、大切な何かを忘れまいとする、切なる祈りのようだった。