忘却の庭、真実の扉

忘却の庭、真実の扉

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第一章 甘美な記憶の綻び

私立暁星学園。そこは、夢のような場所だった。広大な敷地に立つ白亜の校舎は、いつも柔らかな陽光を浴びて輝き、手入れの行き届いた庭園には色とりどりの花が咲き乱れている。生徒たちの顔には、翳りひとつなく、誰もが未来への希望に満ちた笑顔を浮かべていた。彼らは皆、恵まれた家庭に育ち、困難を知らず、輝かしい過去の思い出を語ることに喜びを感じていた。完璧な学園生活、完璧な友人、そして完璧な自分。

しかし、水月悠真だけは違った。

その日も、世界史の試験中にそれは起こった。ペンを握る手が、突然、制御不能な震えに襲われる。目の前の問題文が、視界の端から歪み始めたかと思うと、脳裏に全く異なる情景がフラッシュバックした。砂塵舞う、瓦礫と化した街。燃え盛る残骸。空には煤けた灰が舞い、そこには、聞いたことのない、しかしどこか懐かしい、人々の悲鳴が響き渡っていた。

「水月君、大丈夫?」

隣の席の新堂咲良が、心配そうにこちらを覗き込んだ。彼女の瞳は、太陽のように明るく、その表情には微塵の曇りもない。彼女はいつも、幼い頃に家族と訪れた海外の美しいリゾート地の話や、コンクールで優勝したピアノの思い出を、無邪気な笑顔で語っていた。悠真の心臓は、まだ激しく脈打っていたが、周囲の生徒たちは何事もなかったかのように、鉛筆を走らせている。あの光景は、自分にしか見えなかったのか?

悠真は冷や汗を拭い、どうにか「大丈夫」と答えた。だが、その日から彼の日常は、わずかな、しかし決定的な綻びを見せ始める。

自分の過去を思い出そうとしても、鮮明な記憶はいつもどこか朧げだった。両親の顔は覚えているが、彼らとの具体的な思い出が、なぜか風景画のように感情を伴わない。クラスメイトが語る、完璧で輝かしい過去に、悠真は共感できなかった。まるで、彼らの記憶が、精巧に作られた物語であるかのように感じられたのだ。

「悠真くんって、あんまり昔の話しないよね。何か嫌な思い出でもあるの?」

放課後、咲良がカフェテリアで向かいに座り、蜂蜜色の瞳を瞬かせた。パンケーキに刺さった小さな旗を揺らしながら、彼女は微笑む。

「別に、そんなことはないんだけど……」

悠真は言葉を濁した。嫌な思い出がないわけではない。ただ、思い出そうとすると、決まってあの瓦礫の街の光景が頭をよぎり、それ以上思考が進まないのだ。

咲良は、そんな悠真の様子をじっと見つめ、そっと手を差し伸べた。

「私、悠真くんの悩み、聞くからね。いつでも頼って」

彼女の温かい手が、悠真の冷え切った心に、ほんの少しの温もりを与えた。しかし、その温もりもまた、底知れない違和感の深淵へと、彼を誘うように感じられた。この完璧な世界に、自分だけが置き去りにされているような孤独感。悠真は、自分の記憶が不確かであることに、言いようのない恐怖を覚えていた。彼は、図書館の片隅で、古い心理学の文献や、記憶に関する資料を読み漁るようになっていた。

第二章 偽りの楽園の響き

悠真の違和感は日を追うごとに募っていった。学園の生徒たちは皆、過去の記憶を語ることが得意だった。入学式での感動、初めての旅行、両親に褒められた出来事。それらはあまりにも完璧で、まるでテンプレートに沿っているかのようだった。誰一人として、過去に後悔や不満を抱く者がいない。それは、幸福な世界を謳歌する彼らにとって、ごく自然なことなのかもしれない。しかし、悠真には、その完璧さが、逆に不自然に感じられた。

学園の設備にも、疑問を抱くようになった。暁星学園は名門と謳われながら、外部との交流は極めて少ない。SNSやネットの情報も、この学園に関しては妙に限定的で、まるで壁で隔てられているかのようだった。さらに、生徒たちは毎日決まった時間に、全員で「瞑想の時間」を設けていた。薄暗いホールに集められ、ヒーリングミュージックが流れる中、目を閉じて座る。皆は安らかな表情を浮かべていたが、悠真には、それが何かの「調整」のように思えてならなかった。

「最近、悠真くん、元気ないね。何かあった?」

咲良が、心配そうに声をかけてきた。彼女は、変わらず明るく、学園生活を楽しんでいる。悠真が抱える違和感を、どう伝えればいいのか分からなかった。

「みんなの記憶って、本当に全部本当なのかな?」

悠真は、訥々と尋ねた。咲良は、きょとんとした顔で首を傾げる。

「どういうこと? 私のピアノの発表会の記憶も、家族旅行の記憶も、全部本当だよ?」

彼女の瞳には、一切の疑念も曇りもない。その純粋な眼差しが、悠真の心をさらに孤独にした。この学園で、自分だけが「おかしい」のかもしれない。

担任の五十嵐先生は、そんな悠真の様子を察してか、時折、彼に優しく声をかけてきた。

「水月、何か悩みがあるなら、いつでも私に話しなさい。君は真面目だから、一人で抱え込みがちだ」

五十嵐先生は、生徒思いの温厚な教師だった。いつも微笑みを絶やさず、生徒一人ひとりに心を配っている。しかし、悠真は、その眼差しの奥に、どこか探るような、あるいは監視するような光を感じ取っていた。まるで、自分の行動の一つ一つが、見定められているかのように。

ある日、悠真は学園の図書室で、ふと、古びた地図を見つけた。それは、学園の初期の設計図らしきもので、そこには「旧校舎」と記された、現在立ち入り禁止となっている建物の存在が描かれていた。地図の隅には、小さな文字で「精神干渉システム中枢」という、不穏な記述があった。その瞬間、彼の脳裏に、再びあの瓦礫の街と、人の悲鳴がフラッシュバックする。そして、耳の奥で、微かにノイズ混じりの電子音が響いた。悠真は、その旧校舎に、すべての謎が隠されていることを直感した。

第三章 深層に沈む真実の扉

その日の夜、悠真は決心した。学園が静まり返った頃を見計らい、彼は旧校舎へと向かった。月明かりに照らされた旧校舎は、昼間の白亜の校舎とは対照的に、不気味な影を落としていた。蔦が絡まる外壁、錆びついた扉。立ち入り禁止の札が、風に揺れて軋む音を立てる。

悠真は、用心深く鍵のかかっていない裏口を見つけ、旧校舎へと足を踏み入れた。内部は、埃とカビの匂いが充満し、ひんやりとした空気が肌を刺す。そこには、教室の残骸や、古びた実験器具のようなものが散乱していた。奥へ進むにつれて、ノイズ混じりの電子音が次第に大きくなっていく。

突き当りの部屋の扉を開くと、そこにはまるでSF映画のような光景が広がっていた。壁一面にびっしりと並んだ巨大なサーバーラック。複雑に絡み合うケーブルの群れが、脈打つ血管のように壁や天井を這っている。青白い光を放つモニターがいくつも点滅し、重厚な機械音が部屋全体に響き渡っていた。

悠真は、その異様な光景に息をのんだ。これが、学園の、そして自分たちの真実に関わる場所なのだろうか? 彼は、無意識に奥へと引き寄せられ、一台の古びたモニターの前に辿り着いた。震える指で電源ボタンを押すと、画面がノイズと共に明滅し、やがて文字が流れ始めた。

そこには、学園の生徒たちの名前と、それぞれの横に「インプラントされた過去の記憶データ」の一覧が表示されていた。

『新堂咲良:ピアノコンクール優勝、家族旅行(ハワイ)、名門私立小学校首席卒業…』

『高橋健太:サッカー部全国大会出場、幼少期から英才教育…』

どの生徒のデータも、完璧で輝かしい過去で満たされている。そして、最下段に表示された自分の名前を目にしたとき、悠真の心臓は凍りついた。

『水月悠真:記憶インプラント:不完全』

その赤い文字は、まるで悠真の存在そのものがエラーであるかのように、異様な光を放っていた。

さらに、画面をスクロールしていくと、「完璧な過去を維持するための精神干渉サイクル」という言葉と、何らかの実験記録らしきログが目に飛び込んできた。そのログに紛れて、過去のニュース映像の断片が、一瞬だけ、走馬灯のように映し出された。

『大規模災害、地球環境の激変…』

『文明の崩壊、人類の存続危機…』

『最後の希望、方舟計画始動…』

断片的な映像と、その不穏なキーワードが、悠真の脳裏でパズルのピースのように結合していく。

この学園は、崩壊した世界で生き残った人々、あるいはその子孫に、幸せな過去を「与える」ことで精神を安定させ、新たな文明を築くための「方舟」のような施設だったのだ。生徒たちは、悲惨な過去の記憶を消され、新しい幸福な記憶を植え付けられた、文字通りの「実験体」。そして自分は、そのインプラント手術中に何らかの異常で覚醒し、システムにエラーを起こした、唯一の例外だったのだ。

瓦礫の街のビジョン。あの悲鳴。それは、自分がインプラントされる前の、この世界の、本当の姿だったのだ。悠真は、膝から崩れ落ちた。甘美な嘘に守られていた楽園が、一瞬にして、残酷な真実の牢獄へと変貌した。

第四章 選択の光、そして別れ

真実を知った悠真の心は、絶望と混乱の渦に飲み込まれた。自分が生きてきた世界は、すべてが作り物だったのか? 自分たちは、ただの実験動物だったのか? しかし、その絶望の底で、小さな、しかし確かな使命感が芽生えた。この偽りの幸福を、皆に伝えるべきか? しかし、真実を知れば、彼らは耐えられるのか? この楽園の壁が崩れた時、彼らは生き残れるのか?

「やはり、ここまで辿り着きましたか、水月君」

背後から聞こえた声に、悠真は飛び上がった。振り返ると、そこには五十嵐先生が立っていた。いつもの温厚な微笑みは消え失せ、その表情はどこか冷徹な科学者のようだった。

「先生…これは、どういうことですか?」

悠真の声は震えていた。

五十嵐先生は、ゆっくりと歩み寄り、モニターに表示された悠真の名前と「不完全」の文字をじっと見つめた。

「君は、我々の計算外の『エラー』です。しかし、そのエラーが、この計画に新たな問題提起をもたらしたのも事実」

先生は、学園の真の目的を語り始めた。かつて、地球は大規模な災害に見舞われ、文明は崩壊寸前にまで陥ったこと。生き残った人々は、過去のトラウマと絶望に苛まれ、精神的に崩壊していったこと。そして、希望を見出すために、この「暁星計画」が立ち上げられたのだと。

「我々は、人類が真に幸福な未来を築くためには、過去の悲惨な記憶を断ち切るしかない、と結論付けた。この学園は、そのための『揺りかご』であり、『方舟』なのです」

先生の言葉は、まるで歴史の教科書を読み上げるかのように淡々としていた。

「しかし、それは、彼らの『人生』を奪うことではありませんか!」

悠真は叫んだ。先生は静かに首を振る。

「彼らにとって、これこそが真の『人生』です。苦痛なき幸福な記憶。偽りだとしても、彼らの心は満たされている。それが、人類が次代へ進むための、究極の選択だったのです」

悠真は、先生の言葉を受け入れられなかった。偽りの幸福の上に築かれた未来など、本当の未来ではない。彼は、咲良に、他の生徒たちに、真実を伝えようと決意した。

翌日、悠真は咲良を旧校舎に呼び出した。モニターの画面を、そしてニュース映像の断片を見せた。

「咲良、僕たちの過去は、本当はこんなものだったんだ…」

咲良は、最初は信じようとしなかった。彼女にとって、ピアノコンクールで優勝した記憶も、家族旅行の思い出も、あまりにも鮮やかで、本物だったからだ。彼女は涙を流し、悠真を拒絶した。

「嘘よ! 悠真くんが、私を騙しているのよ! 私の幸せを壊そうとしている!」

その言葉は、悠真の胸を深く抉った。しかし、彼は諦めなかった。

「これが、君の、僕たちの本当の姿だ!」

悠真は、学園のシステムが映し出す、インプラント前の咲良のデータの一部を、無理やり彼女に見せた。それは、瓦礫の中で泣き崩れる幼い少女の姿と、深い悲しみを湛えた両親の姿だった。

咲良は、頭を抱え、絶叫した。彼女の美しい顔が、苦痛に歪む。あまりにも鮮烈な、そして痛々しい真実の記憶が、彼女の脳内で、幸福な偽りの記憶と衝突し始めたのだ。

長い時間、苦しみに喘いだ後、咲良はゆっくりと顔を上げた。その瞳には、かつての輝きはなかったが、強い決意の光が宿っていた。

「…信じるわ、悠真くん。もし、これが偽りなら、私は…真実を生きたい」

その瞬間、学園全体が揺れた。警告音が鳴り響き、校舎の照明が点滅を繰り返す。真実を知った咲良の精神状態が、インプラントシステムに過負荷を与え、学園全体に影響を及ぼし始めたのだ。五十嵐先生が焦った表情で現れた。

「水月君! これ以上システムに負荷をかけるのはやめてください! 全員が危険に晒される!」

システムは暴走し始め、校舎のあちこちで火花が散る。偽りの楽園が、今、その維持システムと共に崩壊しようとしていた。

第五章 未来へ繋ぐ、不確かな希望

システムは完全に暴走状態に陥っていた。警報音は耳をつんざくほどになり、学園全体が激しい揺れに見舞われる。かつて完璧だった校舎の壁には亀裂が走り、天井から粉塵が舞い落ちてくる。五十嵐先生は、必死にメインパネルを操作し、システムを沈静化しようとしていたが、もはや手遅れだった。学園の「幸福な記憶」を維持するための精神干渉フィールドが、制御を失い、かえって生徒たちの精神を破壊し始めていた。悲鳴が、あちこちから聞こえてくる。

「水月君、もう止められない…! システムが完全に崩壊する!」

五十嵐先生が絶望的な顔で叫んだ。

悠真は、咲良の手を強く握りしめた。

「制御室はどこですか!?」

先生は、悠真の強い眼差しに一瞬怯んだが、それでも指し示した。旧校舎の最深部、地下へと続く隠された通路。そこには、このシステムを完全に停止させるための最終手段があるという。しかし、それを実行すれば、すべての生徒が、植え付けられた幸福な記憶を失い、元の悲惨な記憶を取り戻すことになる。そして、この学園は「方舟」としての機能を完全に失う。人類の「再生」という、壮大な計画は失敗に終わるだろう。

悠真は葛藤した。偽りの幸福を享受させるか、痛みを伴う真実を受け入れさせるか。しかし、偽りの上に築かれた未来は、本当の未来ではない。苦痛から目を背けて得た平和は、真の平和とは呼べない。彼は、自分たちの手で、本当の未来を切り開くことを選んだ。

咲良と共に、崩れかけた通路を走り、悠真は地下の制御室に辿り着いた。そこには、赤く点滅する巨大な停止ボタンがあった。悠真は深く息を吸い込み、迷いなくそのボタンを強く押し込んだ。

瞬間、すべてが静寂に包まれた。耳を劈いていた警報音は止み、機械の唸り声も途絶える。校舎の揺れも止まった。しかし、その静寂は、新たな混乱の前触れだった。

学園のあちこちから、悲鳴が、泣き声が響き渡る。生徒たちは、失われた幸福な記憶と、突然フラッシュバックした悲惨な過去の記憶の狭間で、混乱し、絶望に打ちひしがれている。中には、あまりの衝撃に、意識を失う者もいた。

悠真は、咲良と互いの手を握りしめた。咲良の目にも涙が溢れていたが、その瞳には、以前とは異なる、強い光が宿っていた。

「怖くない?」悠真は尋ねた。

「…怖い。でも、これは、私たちが選んだ道だから」咲良は震える声で答えた。

学園のメインゲートが、ゆっくりと、しかし確実に開き始めた。そこには、かつて見た瓦礫の街はなかったが、荒涼とした、しかし確実に「現実」の荒野が広がっていた。そこには、何の保証もない、不確かな未来が待っていた。

悠真は、学園の門から外の荒野を眺める。彼の内面は、偽りの楽園で守られていた無知な少年から、真実を直視し、困難に立ち向かう強さを手に入れた青年へと変化していた。彼は咲良と共に、そして、やがて目覚めるであろう他の生徒たちと共に、記憶の痛みと向き合いながら、本当の自由と未来を切り開くことを決意する。

彼らの旅は始まったばかりだ。この選択が正しかったのか、誰も知らない。しかし、彼らはもう、過去の幻想に囚われることはない。荒野の向こうに広がる地平線に、やがて、本物の「暁(あかつき)」が昇ることを信じて。彼らの瞳には、かつてないほど強い希望の光が宿っていた。

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