感情のモノクローム

感情のモノクローム

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第一章 選択のパレット

僕らの通うこの海ノ上学園には、一つの絶対的な校則がある。卒業までに、人間が持つ無数の感情の中から、たった一つだけを選び出すこと。そして、選ばれなかった他のすべての感情は、卒業式の前日に執り行われる「感情選択式典」を経て、専門の施術によって脳から完全に消去される。

喜び、悲しみ、怒り、恐怖、驚き、愛情……。卒業生は、生涯を共にするたった一つの感情を胸に、色のない大人になっていく。社会の安定と個人の幸福を最大化するための、合理的で完璧なシステムだと教えられてきた。

高校三年の秋。教室の空気は、その「選択」をめぐる期待と不安で奇妙に色づいていた。

「私はね、絶対に『喜び』にするんだ!」

隣の席の月島陽菜が、昼休みのパンを頬張りながら太陽みたいに笑った。彼女の短い髪が、窓から差し込む光を弾く。

「だって、毎日が楽しかったら最高じゃない? 悲しいことも、辛いことも、全部感じなくなったら、世界はキラキラするはずだよ」

「……そう、かもな」

僕は曖昧に頷きながら、窓の外に広がる灰色の空を見上げた。陽菜の言うことは正しい。合理的だ。でも、僕にはどうしても、その「キラキラした世界」が、のっぺりとした無機質な風景にしか思えなかった。

悲しい映画を観て流す涙の熱さ。理不尽なことへの腹の底から湧き上がる怒り。些細なことで胸を締め付ける、名前のない愛おしさ。それらをすべて失うことが、本当に幸福なのだろうか。僕のパレットは、どの色も捨てがたい、濁った絵の具で埋め尽くされていた。

そんな煮え切らない僕の思考を切り裂くように、冷たい声が響いた。

「くだらない」

声の主は、数ヶ月前に都会から転校してきた桐谷朔。彼は誰とも馴れ合わず、いつも教室の隅で分厚い本を読んでいる。その瞳は、まるで感情というもの自体を軽蔑しているかのように、静かで、底が見えなかった。

「喜びだけなんて、ただの馬鹿だ。悲しみだけなんて、ただの道化だ。一つを選ぶなんて、自ら檻の大きさを決めるのと同じことじゃないか」

「なによ、桐谷くん! 人の選択を馬鹿にしないで!」

陽菜が憤慨するが、朔は気にも留めず、本に視線を戻した。「俺は、何も選ばない。すべて捨てる」

その言葉が、僕の心の奥に小さな棘のように突き刺さった。すべてを、捨てる? それは、僕らが恐れている「無」になることと同義のはずだ。なのに、彼の横顔には、恐怖も絶望も浮かんでいなかった。ただ、深く、静かな諦念が広がっているだけだった。

その日を境に、僕の世界は静かに軋み始めた。卒業という名の終着駅に向かって進む電車の中で、僕だけが違う線路の存在に気づいてしまったような、孤独な感覚。桐谷朔という存在が、僕のありふれた日常を覆す、最初の不協和音だった。

第二章 零度のソナタ

桐谷朔のことが、頭から離れなかった。彼が言う「すべて捨てる」という選択。それはシステムが想定する「ゼロ処置」であり、感情の起伏を完全に失った、社会の歯車として最適化された人間になることを意味する。誰もが忌避するその道を、なぜ彼は自ら選ぼうとするのか。

ある日の放課後、僕は無意識に朔の後を追っていた。彼は人通りのない旧校舎の方へ向かっていく。錆びた蝶番が軋む音を立て、彼は使われなくなった音楽室へと消えていった。僕は息を殺し、埃っぽい廊下で壁に耳を当てる。

やがて、聞こえてきたのはピアノの音色だった。

それは、僕が今まで聴いたどんな曲とも違っていた。喜びのように軽やかでもなく、悲しみのように沈んでもいない。それは、怒りのように激しくもなく、愛情のように甘くもない。いくつもの感情が混ざり合い、溶け合うこともできずにぶつかり合い、それでも一つの旋律を成しているような、矛盾に満ちた音。夕陽が差し込む窓の向こうで、舞い上がる埃がきらきらと光っているのが見えた。その光の粒一つひとつが、彼の音符のように思えた。

演奏が終わり、僕が立ち去ろうとした瞬間、背後から声がかけられた。

「いつまでそこにいるつもりだ」

振り返ると、朔が冷たい瞳で僕を見つめていた。

「……今の曲、すごく……」

言葉が詰まる。綺麗だった、とも、悲しかった、とも言えなかった。

「お前には関係ない」

朔は僕の横を通り過ぎようとする。僕は咄嗟に彼の腕を掴んだ。

「どうして、何も選ばないなんて言うんだ! あんな音を奏でられる君が、感情を全部捨てるなんて、おかしいだろ!」

僕の声は震えていた。掴んだ彼の腕は、驚くほど細く、冷たかった。

朔は僕の手を振り払わず、ただ静かに言った。

「感情は、人間を縛る枷だ。期待し、裏切られ、傷つき、また求める。無限のループだ。そこから解放されるのが、本当の幸福なんだよ、相葉」

「でも……!」

「お前みたいに、どの色も手放せずにいる奴が一番苦しむことになる。中途半端な感傷は、お前を壊すだけだ」

そう言い残し、朔は去っていった。彼の言葉は正論のように響き、僕の迷いをさらに深くした。陽菜が語る「喜び」だけの未来。朔が語る「無」という解放。その両極端の間で、僕の心は振り子のように揺れ続ける。自分という存在が、どんどん希薄になっていくような気がした。

第三章 壊れたクロニクル

朔の言葉が、僕をある行動へと駆り立てた。学園のデータベースに不正アクセスし、彼の過去を調べるという、許されない行為に。彼の言う「解放」の正体を知りたかった。もしそれが真実なら、僕もまた、その道を選ぶべきなのかもしれない。

深夜、自室のベッドの中、タブレットの冷たい光が僕の顔を照らす。いくつかの壁を乗り越え、僕は生徒名簿の深層データにたどり着いた。桐谷朔の名前を検索する。表示された彼の個人ファイルに、僕は息を呑んだ。

『特記事項:三年前に本学園を卒業。コードネーム:被験体07。感情選択において「愛情」を選択するも、施術に失敗。全感情領域に不可逆的な損傷。記憶の大部分を喪失し、感情の断片が暴走する危険性あり。監視下における再教育プログラムに移行。生徒として再編入』

――卒業生? 施術に、失敗?

頭が真っ白になった。朔は、僕らと同じ生徒ではなかった。彼は、このシステムの犠牲者だったのだ。彼が選ぼうとしていた「無」は、解放などではなかった。それは、彼がすでに手に入れてしまった、地獄の別名だった。

彼の弾いていたあのピアノの旋律は、失われた記憶の残響だったのだ。彼がかつて選択しようとした「愛情」。その対象だった誰かとの日々の喜びも、悲しみも、愛おしさも、すべてがごちゃ混ぜになって、音という形で彼の魂から漏れ出していたのだ。彼は感情を捨てたのではなく、奪われたのだ。そして、その事実さえも忘れてしまっている。

僕の価値観が、ガラガラと音を立てて崩れ落ちていく。僕らが信じてきた「合理的で完璧なシステム」は、嘘で塗り固められた巨大な実験場だった。陽菜が夢見るキラキラした未来も、結局はシステムが用意した安全な檻の中でしか成立しない、作られた幸福だったのだ。僕らはモルモットじゃないか。

吐き気がした。タブレットの光が、ひどく醜悪なものに見える。僕はずっと、どの感情を選ぶか、という小さなパレットの上で悩んでいた。だが、問題はそこではなかった。選ぶこと、選ばされること、それ自体が間違っていたのだ。

怒りが、腹の底から湧き上がってきた。システムに対する、静かで、しかしマグマのように熱い怒りが。そして、朔へのどうしようもないほどの同情と、悲しみが。

もう迷いはなかった。僕のパレットは、一つの色に染まっていた。それは「喜び」でも「悲しみ」でもない。それは、僕が僕であるための、譲れない「意志」の色だった。

第四章 はじまりの交響曲

感情選択式典の日が来た。

体育館は、厳粛な雰囲気に包まれていた。純白のローブをまとった卒業生たちが、静かに自分の名前が呼ばれるのを待っている。壇上には、感情を消去するための最新医療機器が、冷たい銀色の光を放っている。

やがて、僕の名前が呼ばれた。

「相葉湊くん。君の選択する感情は?」

司会の教師が、穏やかな声で問いかける。僕はゆっくりと壇上に上がり、マイクの前に立った。体育館中の視線が、僕の一点に集中する。客席の最前列で、陽菜が心配そうに僕を見つめていた。その隣で、朔は相変わらず無表情のまま、まっすぐに僕を見ていた。

僕は深く息を吸い込んだ。マイクの金属の冷たさが、手のひらに伝わる。

「僕は……」

一度、言葉を切る。そして、はっきりと、体育館に響き渡る声で宣言した。

「どの感情も、選びません。そして、どの感情も、捨てません」

会場が、水を打ったように静まり返る。教師たちの顔から血の気が引いていくのが分かった。やがて、どよめきが波のように広がっていく。

「何を言っているんだ、相葉くん!」

「これは、社会の秩序だ! 君一人の我儘は……」

僕は教師たちの制止を無視して、言葉を続けた。

「嬉しい時に笑い、悲しい時に泣き、理不尽に怒る。誰かを愛おしいと思い、美しいものに感動する。その全部が、僕なんです。矛盾だらけで、不完全で、どうしようもなく面倒くさい。でも、それが人間だと、僕は信じたい!」

僕の声は、もう震えていなかった。

「こんなシステムは、間違っている! 僕らは檻の中の鳥じゃない。色を奪われた、モノクロームの世界で生きたくはない!」

警備員たちが壇上に駆け上がってくる。僕の腕が掴まれ、引きずり降ろされようとした、その時だった。

「待って!」

陽菜が立ち上がり、僕の隣に駆け寄ってきた。彼女の瞳は涙で潤んでいたが、その奥には強い光が宿っていた。

「私も、湊と同じ気持ちです! 喜びだけなんて、いらない。悲しみを知っているから、本当の喜びが分かるんだって、今、気づきました!」

陽菜の言葉に呼応するように、ぽつり、ぽつりと、数人の生徒が立ち上がる。その小さな波は、次第に大きなうねりへと変わっていった。システムに疑問を抱いていたのは、僕だけではなかったのだ。

その喧騒の中で、僕は朔の顔を見た。

彼の無表情だった顔に、ほんのわずかな、しかし確かな変化が起きていた。彼の口元が、ほんの少しだけ、緩んでいた。それは笑顔と呼ぶにはあまりに拙く、不確かだったが、僕には分かった。

それは、彼が奪われたはずの、あるいは、彼の中でずっと眠っていた、「希望」という感情の、小さな芽生えだった。

僕たちの抵抗が、この巨大なシステムをすぐに変えることはないだろう。これから僕らは、困難な道を歩むことになるのかもしれない。

けれど、確かなことが一つだけあった。

僕たちの手によって、このモノクロームの世界に、最初の一滴の絵の具が落とされたのだ。不揃いで、不格好で、けれど生命力に満ちた、新しい色が。

僕らの戦いは、そして僕らの本当の人生は、今、始まったばかりだった。

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