第一章 沈む体と青い朝
僕、水上蒼(みなかみ あおい)の朝は、いつも沈むことから始まる。
物理的な意味で、だ。目覚めと共に、見えない鉛が全身に絡みつく。それは僕自身の後悔の重さ。そして、窓の外から流れ込む、他人の後悔の重力。
この街では、誰もが後悔を抱えて生きている。そして僕だけが、その念を物理的な「重力」として感じ取ってしまう。後悔が強い人間ほど、その周囲の空間は蜜のように粘性を増し、時には光さえ歪めてしまう。
「蒼、早くしないと遅刻するよ!」
階下からの声に、僕は重い体を無理やり起こした。幼馴染の月島陽菜(つきしま ひな)だ。彼女の後悔は、いつも春の小川のように軽やかで、ほとんど重力を生まない。だが、ごく稀に、その流れの底に小さな石が沈んでいるのを感じることがあった。彼女が決して口にしない、小さな翳り。
制服に着替え、玄関のドアを開けると、学園を包む『希望の青』が目に飛び込んできた。僕たちの通うアークライト学園は、奇妙な法則に支配されている。日中の時間帯によって、敷地内に満ちる「感情の色彩」が変化するのだ。朝の光はどこまでも透き通った青色を帯び、それは生徒たちの胸に強制的に希望を芽生えさせる。
「今日の青は、なんだか特別きれいだね」
陽菜は空を見上げて、屈託なく笑う。彼女の周囲だけ、重力がほんの少しだけ軽い。その笑顔に救われるように、僕の足取りもわずかに浮き上がる。だが、学園に近づくにつれて、生徒たちの群れから発せられる複合的な重力が、再び僕の肩にのしかかってくるのだった。誰もが希望の青に染められながら、その奥底に消えない後悔を沈めている。その矛盾こそが、僕にとっての世界の日常だった。
第二章 寂寥の黄と禁忌の書庫
放課後を告げるチャイムが鳴り響くと、世界は蜂蜜を溶かしたような『寂寥の黄』に染め上げられる。窓から差し込む光が、教室の机や椅子に長い影を落とし、生徒たちの心に言いようのない孤独感を植え付ける。誰もが口数を減らし、自分の内側へと沈んでいく時間。
「ねえ、蒼。ちょっと付き合ってほしいところがあるの」
皆がそそくさと帰り支度を始める中、陽菜が僕の袖を引いた。彼女の瞳には、いつもの快活さとは違う、真剣な光が宿っている。彼女が発する微かな重力の源が、今日は少しだけ存在を主張しているように感じた。
連れてこられたのは、学園の最上階、西の塔にある「禁忌の書庫」。埃と古い紙の匂いが鼻をつく、忘れ去られた場所だ。軋む床板に足音を忍ばせながら、陽菜は書架の間を迷いなく進んでいく。まるで、見えない何かに導かれているかのように。
「ここにあるはずなんだ。ずっと……夢で見ていた本が」
彼女が指し示したのは、学園史をまとめた区画。その中で一冊だけ、装丁が明らかに異質な黒い革張りの本があった。陽菜がそっとそれを引き抜くと、ページの間から、ぱらりと何かが床に落ちた。
それは、一枚の栞。
七色の光を鈍く反射する、不思議な栞だった。陽菜がそれを拾い上げようとするより先に、僕は無意識に手を伸ばしていた。
第三章 虹色のフラッシュバック
指先が「虹色の栞」に触れた瞬間、世界が砕け散った。
音が消え、色が消え、重力が消えた。代わりに、僕の意識は奔流に呑み込まれる。
―――叫び声。笑い声。泣き声。憎悪。歓喜。絶望。あらゆる感情が境界なく混じり合い、渦を巻いている。それは青でも赤でも黄でもない、全ての色彩が溶け合った、眩暈のするような混沌の光景だった。生徒たちが、剥き出しの感情をぶつけ合い、学園が音を立てて崩れていく。秩序など、どこにもない。
「……蒼! しっかりして、蒼!」
陽菜の悲鳴に近い声で、僕は現実へと引き戻された。ぜえぜえと肩で息をし、冷たい汗が背中を伝う。陽菜が心配そうに僕の顔を覗き込んでいた。
「大丈夫……?」
「今のは……何だ?」
栞は、陽菜の手に握られていた。ただの古い栞にしか見えない。だが、僕にはわかった。あれは、この学園の『感情の色彩』が生まれる前の記憶。完全に歴史から抹消されたはずの、『失われた一年』の断片だ。
なぜ、僕にだけこれが見える?
なぜ、陽菜はこの本の場所を知っていた?
僕の胸の奥深く、ずっと僕自身を沈めていた後悔の核が、この栞に共鳴するようにずくりと痛んだ。
第四章 熱狂の赤と暴走する重力
翌日の昼休み。学園は『熱狂の赤』に支配されていた。空気を満たす深紅の色彩が、生徒たちの感情を沸点まで高め、グラウンドは歓声と怒号で満ち満ちている。普段は穏やかな生徒でさえ、些細なことで言い争いを起こしていた。
中庭で陽菜と昼食をとっていると、その異変は起きた。
ボールの行方を巡る些細な口論が、あっという間に集団での突き飛ばし合いに発展したのだ。生徒たちから噴出する、嫉妬、焦燥、劣等感といった後悔の念が、濃密な重力場となって渦を巻き始めた。
「危ない!」
誰かに突き飛ばされた陽菜が、石段に向かってよろめく。僕は彼女を庇おうと腕を伸ばすが、足が動かない。周囲から集まった無数の後悔の重力が、僕の体を地面に縫い付けていた。守れない。また、この感覚だ。僕自身の過去から続く、無力感という後悔が鉛となって全身に広がり、指一本動かせない。
「―――っ!」
陽菜が目を固く閉じた、その瞬間。
彼女がポケットに入れていた虹色の栞が、太陽光を反射して、閃光のように強く輝いた。
その光が、僕の脳裏に最後の鍵を撃ち込んだ。
鮮明なビジョンが広がる。混沌に満ちた『失われた一年』。暴走する感情の世界で、一人の生徒が、陽菜と瓜二つの少女を守っていた。彼は、この混沌を終わらせるために、たった一つの決断をする。自らの存在と記憶を楔として、暴走する感情を「希望」「熱狂」「寂寥」といった秩序ある色彩へと分解し、世界に定着させる。その代償は、彼の存在そのものの消滅。
その生徒の顔は、鏡で見る僕自身の顔と、寸分違わぬものだった。
そして、彼が世界と引き換えに遺した唯一の感情。
それは、愛する少女を一人、この秩序の世界に遺してしまった、途方もなく重い、たった一つの「後悔」だった。
第五章 失われた一年と君の後悔
僕が感じていた重力の正体。それは、僕自身の後悔ではなかった。
前世の僕が、この世界を構築するために捧げた存在。その彼が、陽菜の前世である少女を守りきれず、一人にしてしまったという、たった一つの、しかし世界そのものよりも重い未練の残滓だったのだ。
僕はこの後悔を背負うために、この学園に、陽菜の隣に、再び生を受けた。
昼休みの喧騒が嘘のように静まり返った最上階の書庫で、僕と陽菜は向かい合っていた。彼女もまた、全てを思い出していた。その瞳は潤み、けれど、そこにはもう後悔の重みはなかった。
「思い出したよ、蒼。あなたは、私のために……」
「君を一人にしたかったわけじゃない」
僕は虹色の栞を手に取る。これこそが、僕が遺した未練の結晶であり、世界の法則を繋ぎとめる楔。これを使えば、『失われた一年』の混沌を解放し、この感情を強制する偽りの秩序を破壊することができる。人々は本当の感情を取り戻すが、世界は再びあの混沌に還るだろう。
あるいは、このまま栞を封じ、犠牲の上に成り立つ平穏な世界を維持することもできる。僕がこの途方もない重力を、永遠に一人で背負い続けることで。
歴史を繰り返すのか。それとも――。
第六章 世界の選択
「あなたが、決めて」
陽菜は静かに言った。
「もう、一人にはしないから。どんなあなたでも、どんな世界になっても、私はあなたのそばにいる」
その言葉は、僕の心を縛り付けていた最後の重力の鎖を、音を立てて砕いた。
僕は空を見上げる。窓の外は、すでに夕方の『寂寥の黄』に染まり始めていた。けれど、その色はもう僕の心を孤独に蝕むことはなかった。隣にいる陽菜の体温が、どんな色彩よりも確かな温もりを伝えてくれるからだ。
孤独を植え付けるはずの色の中で、僕は決して一人ではなかった。
僕は、手の中の虹色の栞を強く握りしめた。混沌の記憶が、指先から熱を持って伝わってくる。
「僕は――」
僕が下した決断を、言葉にする必要はなかった。
ふわり、と。
生まれてからずっと僕の全身を地面に引きずり込んできた、あの鉛のような重力が、嘘のように消え去っていた。体が、心が、信じられないほどに軽い。
僕は陽菜の手を取り、ゆっくりと歩き出す。禁忌の書庫から、僕たちがこれから生きていく世界へ。
窓の外に広がる空の色は、まだ寂寥の黄色だった。
しかし、その空のどこか遠い先に、今まで誰も見たことのない、新しい朝焼けの色が生まれるのを、僕だけは確かに感じていた。