忘却の揺り籠と、明日のインク

忘却の揺り籠と、明日のインク

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第一章 昨日のインク、明日の白紙

朝の光が薄いカーテンを透かし、部屋に縞模様の影を落とす。水島蓮(みずしま れん)はゆっくりと目を開けた。意識が浮上するたびに、頭の中に広がるのは、霧のような空白。昨日の自分が、まるで他人のようだ。これは、この学園の生徒にとって、毎朝繰り返される儀式だった。

蓮はベッドから起き上がると、机に置かれた黒い革張りのノートに手を伸ばした。表紙には金の箔押しで『記憶日誌』と記されている。ページをめくる指先が微かに震えた。昨日の日付のページ。そこには、見慣れた自分の、しかしどこか知らない熱を帯びた筆跡があった。

『五月十日。曇りのち晴れ。物理の小テストは散々だった。でも、どうでもいい。放課後、図書室で月島栞と話した。俺が読んでいた古い詩集について、彼女が声をかけてきた。彼女の目が、夕陽に照らされて蜂蜜色にきらめいたのを覚えているか? 初めて、俺に向けて笑ってくれた。あの声、あの表情。絶対に、絶対に忘れるな』

最後の「忘れるな」という文字は、インクが滲むほど強く書きつけられていた。蓮はその文章を何度も読み返した。だが、脳裏に浮かぶのは、蜂蜜色の瞳ではなく、ただの活字としての「蜂蜜色」という言葉だけ。彼女が笑った時の空気の震えも、胸に灯ったはずの温もりも、綺麗に削ぎ落とされてしまっていた。まるで、物語のあらすじだけを読まされているような、もどかしい空虚感が胸を満たす。

この天海(てんかい)学園では、生徒たちは毎晩眠りにつくと、前日の記憶の一部を失う。特に、感情を強く揺さぶった出来事や、他者との関係における重要な記憶ほど、その対象になりやすいという奇妙な法則があった。だから、僕らは書く。失われることを前提に、昨日の自分を、今日の自分に引き継ぐために。

制服に着替え、日誌を鞄にしまい、蓮は教室へ向かった。廊下ですれ違う生徒たちも、皆どこか探るような、ぎこちない空気をまとっている。彼らもまた、日誌に書かれた「友人」や「恋人」との関係性を、今朝、再インストールしたばかりなのだ。

教室の自分の席に着くと、斜め前の席に座る少女に目が吸い寄せられた。月島栞(つきしま しおり)。風に揺れる柔らかな髪。彼女が振り向き、クラスの誰かと楽しげに話している。その横顔は、日誌に書かれていた「蜂蜜色の瞳」の持ち主だった。蓮は、彼女とどう接すればいいのか分からなかった。昨日の「俺」が書き残した熱量を、今日の自分が再現できるはずもない。蓮はただ、遠くから彼女を眺めることしかできなかった。まるで、色褪せた写真を見るように。この世界では、人と深く関わることは、毎朝、傷口に塩を塗りこむような痛みを伴うのだから。

第二章 重ねられた筆跡

失われた記憶の断片を、日誌のインクで埋めるだけの毎日。蓮は、そんな受動的な日々に慣れきっていた。だが、月島栞という存在が、彼の灰色の世界に微かな波紋を広げ始めていた。彼女は、記憶が失われることをまるで恐れていないかのように、いつも誰かに囲まれ、太陽のように笑っていた。忘れることを前提とした世界で、なぜあんな風に笑えるのだろう。

ある日の昼休み、中庭のベンチで蓮が日誌を読み返していると、強い風が吹き荒れた。手元から数枚のプリントが舞い上がり、近くで友人と弁当を広げていた栞の足元へと飛んでいく。慌てて拾い集めようとした蓮の目の前で、栞が軽やかに一枚を拾い上げた。それは、彼女の日誌のページだったらしい。

「ありがとう、水島くん」

彼女は屈託なく笑い、そのページを受け取ろうとした蓮の手が一瞬止まった。栞の日誌。そこに綴られた文字が、偶然にも彼の目に飛び込んできたからだ。

『水島くんは、いつも窓の外の遠くを見ている。彼の瞳には、どんな世界が映っているんだろう。いつか、その世界を少しだけのぞいてみたい。明日の私も、きっと同じことを思うはず』

心臓が大きく跳ねた。彼女もまた、俺を見ていた? 日誌を通してしか他人と繋がれなかった蓮にとって、それは衝撃的な事実だった。彼女の筆跡は、まるで生きているかのように温かい。

その日から、蓮の中に小さな勇気が芽生え始めた。彼は栞に話しかけるようになった。最初は、授業の課題について。次は、好きな音楽の話。会話は途切れ途切れで、ぎこちなかったが、その日の夜、蓮は自分の日誌に、これまでにないほどの熱量で書き記した。

『今日は、自分の意志で月島栞と話した。彼女の声は、思ったより少し低くて、心地よかった』

二人の距離は、日を追うごとに少しずつ縮まっていった。図書室の片隅で同じ机に座り、言葉を交わさずとも、互いの存在を感じながら本を読む時間。屋上で、自動販売機のぬるいジュースを飲みながら、他愛ない未来の話をする時間。蓮は、失われると分かっていながら、誰かと心を重ねることの温かさを知り始めていた。

彼の日誌は、栞のことで埋め尽くされるようになった。彼女の些細な癖、笑い声、時折見せる寂しげな表情。それらを書き留めるたび、蓮は「忘れること」への恐怖よりも、「記録すること」への喜びに満たされた。このインクの染みこそが、たとえ記憶が消えても、二人が確かに存在した証なのだと。もはや、日誌は単なる記録ではなかった。それは、明日の自分へ託す、未来への恋文だった。

第三章 忘却の揺り籠

ある雨の夜だった。寮の自室で、蓮は栞からもらった栞を挟んだ詩集を読んでいた。不意に、建物全体が大きく揺れ、停電が起こった。非常灯の赤い光が廊下を不気味に照らす中、蓮は不安に駆られて部屋を出た。他の生徒たちは自室で待機しているようだったが、蓮はなぜか胸騒ぎがして、誰もいない廊下を歩き始めた。そして、普段は固く閉ざされている旧校舎への扉が、半開きになっていることに気づいた。

何かに導かれるように、蓮は錆びた扉を押し開けた。黴と埃の匂いが鼻をつく。軋む床を踏みしめ、懐中電灯の光を頼りに奥へ進むと、突き当たりに金属製の扉があった。そこから、無機質な機械の動作音と、かすかな光が漏れている。蓮は、まるで禁断の果実に手を伸ばすように、その扉を開けた。

目に飛び込んできたのは、想像を絶する光景だった。広大な空間に、青白い光を放つ巨大なサーバーが林立し、壁一面のモニターには、全生徒の名前と、複雑な波形データが表示されている。それは、脳波のログだった。そして、蓮は自分の名前の横に表示された文字列に凍りついた。

『対象: 水島蓮 / 最終記憶処理: 5月15日 03:00 / 削除キーワード: 月島栞、笑顔、図書室、約束…』

これは、なんだ? 自分の記憶が、誰かによって意図的に「処理」されている? 混乱する蓮の背後から、静かな声が響いた。

「見つけてしまったかね、水島くん」

振り返ると、そこに立っていたのは、いつも柔和な笑みを絶やさない学園長だった。だが、その瞳には、ガラスのような冷たい光が宿っていた。

「学園長……これは、一体……」

学園長は、諦めたように息を吐くと、ゆっくりと真実を語り始めた。

「君たちが毎朝体験している記憶喪失は、自然現象などではない。すべては、この学園が管理する教育プログラム『忘却の揺り籠(わすれのゆりかご)』によるものだ」

彼の言葉は、蓮の世界を根底から覆した。この学園の目的は、情報が氾濫する未来社会を生き抜く人材を育成すること。そのためには、知識を詰め込むだけでなく、不要な情報を効率的に「忘れる力」を鍛える必要があった。そして、人間にとって最も捨て去りがたい情報――すなわち、他者との感情的な繋がりや、愛着といった記憶を強制的にリセットすることで、生徒たちは感情に流されず、純粋な論理と客観性で情報を取捨選択する究極の能力を養わされていたのだ。

「君たちが必死に書き留めている記憶日誌も、プログラムの一環だ。記録という行為を通して、削除すべき記憶と保存すべき記憶を無意識に仕分ける訓練なのだよ」

蓮は愕然とした。では、栞と過ごしたあの日々は? 胸に灯った温もりも、彼女の笑顔を書き留めたインクの染みも、すべては仕組まれたカリキュラムの一部だったというのか? 自分たちが感じてきた痛みも、喜びも、この巨大なシステムの歯車を回すための燃料に過ぎなかったというのか?

足元から世界が崩れ落ちていくような感覚。今まで信じてきたもの全てが、冷たく無機質なデータに還元されていく。蓮は、サーバーの放つ青白い光の中で、ただ立ち尽くすことしかできなかった。

第四章 白紙に綴る最初の言葉

絶望が、蓮の心を黒く塗りつぶした。寮に戻った彼は、ペンを握ることさえできなかった。意味がない。どんなに美しい言葉を綴っても、どんなに大切な感情を書き残しても、それは全て、巨大なシステムの掌の上で踊っているだけだ。栞との関係も、プログラムされた状況下で生まれた、予測可能な化学反応に過ぎないのかもしれない。もう、何も書きたくなかった。

翌日、蓮は栞を避けた。彼女の笑顔が、今はひどく空虚なものに見えた。しかし、栞はそんな蓮の様子に気づき、放課後、彼を屋上へ呼び出した。

「何かあったの? 水島くん、昨日からずっと、私を避けてる」

心配そうに覗き込む栞の瞳から、蓮は思わず目を逸らした。しかし、彼はもう、この偽りの世界で一人で嘘を抱え続けることには耐えられなかった。彼は、震える声で、昨夜知った全ての真実を栞に打ち明けた。

話を聞き終えた栞は、一瞬、息を呑み、その顔から血の気が引いた。だが、彼女はすぐに顔を上げ、真っ直ぐに蓮の目を見つめた。その瞳には、絶望ではなく、強い意志の光が宿っていた。

「……そうだったんだ。全部、作られたものだったんだね」

彼女は静かに言った。

「でもね、水島くん。たとえこの世界が仕組まれたものでも、私が水島くんと話したいと思った気持ちは、本物だよ。この胸の温かさは、誰かにプログラムされたものじゃない。昨日までの記憶がなくても、今日の私がまた、あなたに会いたい、話したいって思う。……それだけじゃ、ダメなのかな?」

栞の言葉が、氷のように凍てついていた蓮の心を、静かに溶かしていく。そうだ。たとえ記憶が消されても、感情の「痕跡」は魂に刻まれる。日誌に書き記すという行為は、消された記憶の墓標を建てる作業ではない。明日、もう一度ゼロから関係を始めるための、道標を立てる作業だったんだ。世界が偽りだとしても、このペンを握り、「書きたい」と願う自分の意志は、紛れもなく本物だ。

蓮は、自分が何をすべきかを悟った。失うことを恐れて、関わることから逃げるのはもう終わりだ。彼は、この世界の真実を知った上で、それでも月島栞と、自分の意志で関係を築き続けることを「選択」する。

その夜、蓮は久しぶりに日誌を開いた。そして、迷いのない文字で、明日の自分へメッセージを書き綴った。

翌朝。蓮はいつものように、昨日の記憶が薄らいだ状態で目覚めた。しかし、もう絶望はなかった。彼は日誌を開く。そこには、昨日の自分が力強い筆跡でこう書き残していた。

『おはよう、俺。きっと今、君は昨日のことをあまり覚えていないだろう。だが、一つだけ覚えておけ。教室へ行ったら、まず月島栞に「おはよう」と言うんだ。きっと、話したいことが、たくさんあるはずだから』

蓮は日誌を閉じ、静かに微笑んだ。鞄を持って教室へ向かう。廊下の向こう、朝陽が差し込む窓のそばに、栞の姿が見えた。彼女もこちらに気づき、少しはにかむように、柔らかく微笑んだ。

それは、まるで初めて会うかのような、新鮮なときめき。

そして、幾度も記憶を失いながらも重ねてきた、確かな繋がりの温かさ。

蓮は、彼女に向かって、確かな一歩を踏み出した。記憶ではなく、揺るぎない意志の力で。この学園を卒業する時、僕らは効率的に「忘れる力」を身につけているのだろうか。それとも、どんな巨大なシステムにも消し去ることのできない、たった一つの「忘れられない想い」を、この白紙のような心に刻みつけているのだろうか。答えはまだ、インクの先にしかない。

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