第一章 失われた響き
シャッターを切る音だけが、僕、蒼井湊(あおい みなと)の世界で唯一、意味を持つ言葉だった。写真部の部室の暗闇。現像液のツンとした匂いの中で、ぼんやりと像が浮かび上がってくる瞬間が好きだ。言葉にできない感情が、光と影のグラデーションとして定着していく。僕にとって、写真は雄弁な沈黙だった。
そんな僕の世界に、彩りを与えてくれる存在がいた。文学部の高槻陽菜(たかつき ひな)。彼女は、僕とは正反対に、言葉を愛し、言葉に愛されているような少女だった。彼女が朗読する詩を聞いていると、古びた活字が蝶のように舞い上がり、光の粒子になって降り注ぐような錯覚に陥る。
ある日の放課後、西日に染まる図書室で、本棚の隙間から陽菜の横顔が見えた。夕陽が彼女の長い髪を琥珀色に透かし、真剣な眼差しが物語の世界を旅している。その光景は、僕が今まで撮ってきたどんな風景よりも、心を奪う一枚の絵画のようだった。
無意識だった。僕の口から、錆びついた扉が開くように、か細い声が漏れた。
「……きれいだね」
その瞬間、陽菜が顔を上げた。僕の言葉は、確かに彼女の耳に届いたはずだ。しかし、彼女の表情は喜ぶでもなく、照れるでもなく、ただ深く、困惑したように眉をひそめた。まるで、未知の言語を聞いたかのように。僕の視線と、僕が発した言葉の意味を探るように、彼女の大きな瞳が揺れていた。気まずさに耐えきれず、僕は逃げるようにその場を立ち去った。
翌日、世界から何かが決定的に失われていることに、僕は気づいた。
古文の授業中、教師が黒板に書かれた和歌を指し、「この『きよらなる』という部分、現代語で言うところの……ええと、その、見た目が非常に整っていて、心を惹きつけるような様子のことだが」と、歯切れ悪く説明している。クラスの誰もが、その回りくどい表現に首を傾げていた。昨日まで当たり前に使っていたはずの、たった三文字の言葉が、誰の口からも出てこない。辞書を引いても、その項目だけが空白になっている。
『綺麗』
僕が昨日、陽菜に囁いたあの言葉が、世界から忽然と消えていた。まるで最初から存在しなかったかのように、人々の記憶からも、記録からも。ぞっとするような寒気が背筋を駆け上った。まさか。僕の、せいなのか? あの瞬間、僕が陽菜に投げかけた言葉だけが、この世界から消失してしまったというのか? それが、僕の青春時代の、あまりにも残酷で不可解な謎の始まりだった。
第二章 沈黙のファインダー
その日を境に、僕は言葉を固く封印した。自分の口から発せられる音が、世界を歪めてしまうかもしれないという恐怖。それは、思春期の自意識過剰などという生易しいものではなく、現実的な呪いだった。僕はますます無口になり、コミュニケーションの全てを愛用のフィルムカメラに託した。
世界は、一つの言葉を失っただけで、案外うまく回っていくようだった。「綺麗」の代わりに人々は「美しい」「整っている」「魅力的だ」といった類似の言葉を使い、少しの不便さを感じながらも日常を取り戻していた。だが僕だけが、その喪失の巨大な意味を理解していた。消えたのは単語ではない。その言葉が内包していた、繊細なニュアンス、感情の彩りそのものだった。
皮肉なことに、僕が言葉を避ければ避けるほど、陽菜は僕に興味を持ったようだった。
「蒼井くんの写真、いつも見てるよ。静かなのに、すごく色々な声が聞こえてくる感じがする」
昼休みの中庭で、彼女は屈託なく話しかけてきた。僕はただ頷くことしかできない。何かを口にすれば、それが「素敵」であれ、「嬉しい」であれ、世界からまた一つ、大切な響きが消えてしまうかもしれないのだ。
「どうして、あまり話してくれないの?」
陽菜の真っ直ぐな瞳が、僕の心の奥底を見透かそうとする。僕は咄嗟に首を横に振り、カメラを構えるフリをして彼女から視線を逸らした。ファインダー越しに見る陽菜は、少し寂しそうに微笑んでいた。その表情を焼き付けながら、胸が締め付けられるように痛んだ。
伝えたいことは、たくさんある。君の声が好きだ。君の書く文章が好きだ。君が笑うと、世界が少しだけ明るくなる気がする。でも、そのどれもが、口にした瞬間に虚空へ消え去る呪いの弾丸に変わる。僕の想いは、伝えようとすればするほど、その表現手段自体を破壊してしまうのだ。
僕は実験を試みた。誰もいない帰り道、道端の石ころに向かって、古語辞典で調べた死語を呟いてみる。「いとらうたし」。翌日、国語学者の間でちょっとした騒ぎが起きていた。ある特定の古語の用例が、あらゆる文献から綺麗さっぱり消え失せた、と。確信は絶望に変わった。僕の力は本物だ。
陽菜と分かち合いたい感情が、世界で最も危険な凶器になった。僕の青春は、伝えたい想いを胸の奥に閉じ込め、沈黙のファインダー越しに、ただ彼女を見つめるだけの、息苦しい季節になってしまった。
第三章 二人だけの語彙集(ボキャブラリー)
文化祭の日がやってきた。写真部の展示スペースの壁に、僕は一枚のポートレートを飾った。図書室の窓辺で夕陽を浴びる陽菜の写真。僕が「綺麗」という言葉を世界から消し去ってしまった、あの運命の日の彼女だ。言葉を失った僕が、ありったけの想いを光と影に託した、渾身の一枚だった。
多くの生徒が足を止め、その写真に見入っていた。「すごい雰囲気あるな」「光の使い方がプロみたいだ」と囁き合っている。でも、誰もあの光景の本質を言い当てることはできない。そこに込められた「綺麗」という感情の響きは、もうこの世界の誰にも理解できないのだから。
その時、人垣をかき分けるようにして、陽菜が僕の前に現れた。彼女はしばらく黙って自分の写真を見つめ、そして、僕の方をゆっくりと振り返った。その瞳は、初めて見るほど真剣な色を宿していた。
「蒼井くん、少し、話せるかな」
僕たちは、喧騒を離れた校舎の屋上へと向かった。錆びたフェンスの向こうに、文化祭の賑わいが遠く聞こえる。陽菜はカバンから、少し古びた革張りの手帳を取り出した。
「これ、私の曾祖母の日記なの」
彼女が指し示したページには、繊細なインクの文字で、信じがたい内容が綴られていた。
『愛しい人に「愛している」と告げた。その瞬間、彼の瞳から理解の色が消えた。世界から「愛」という言葉が失われた。私の言葉は、想いを伝えるほどに、世界からその言葉を奪っていく呪いなのだ』
全身の血が凍りつくような衝撃が走った。僕と、同じ。
「君も……なのか?」
僕が掠れた声で尋ねると、陽菜は静かに首を横に振った。
「違うの。私の家系は、『言葉を憶えている』一族なの」
彼女は、驚くべき事実を語り始めた。彼女の一族は、何世代にもわたって、世界から失われた言葉をその意味と響きごと記憶し、語り継ぐ役目を担ってきたのだという。世界が忘れてしまった言葉たちの、最後の墓守。
「あなたが、私に『綺麗』って言ってくれた時、すぐにわかった。あなたがあの言葉を世界から消したんだって。そして、あなたも『言葉を失わせる』人なんだって」
陽菜の瞳から、一筋の涙がこぼれ落ちた。
「怖かった。あなたがこれから、たくさんの素敵な言葉を消してしまうんじゃないかって。でも、それ以上に……嬉しかったの」
「嬉しい……?」
「あなたが消した『綺麗』という言葉、その本当の意味と響きを、今この世界で知っているのは、私だけ。それは、あなたが私にくれた、誰にも奪われない、二人だけの言葉になったから」
僕の価値観が、ガラガラと音を立てて崩れ落ち、再構築されていく。僕の呪いは、破壊ではなかった。それは、共有だったのだ。僕が言葉を失わせ、陽菜がそれを受け止め、記憶する。それは、世界から言葉を隔離し、二人だけの宝物にするための、悲しくも美しい儀式だったのかもしれない。
僕が失ったと思っていた言葉たちは、陽菜の中に、まるで琥珀の中の蝶のように、美しいまま保存されていた。彼女は、僕が撮った写真に視線を戻し、囁いた。
「この写真、すごく……『綺麗』だね」
その懐かしい響きが、僕の鼓膜を優しく震わせた。世界でたった一人、彼女だけが、僕の沈黙のファインダーの奥にある本当の想いを、完璧に理解してくれていた。
第四章 残響の告白
夕陽が校舎を茜色に染め上げていく。文化祭の喧騒が、まるで遠い世界の音楽のように聞こえた。僕の隣で、陽菜は静かに息をしている。彼女の存在そのものが、僕の呪いを祝福に変えてくれた。もう、言葉を失うことは怖くない。僕が失くした言葉は、世界から消えるのではなく、陽菜という名の、たった一つの心に届くのだから。
「陽菜」
僕は、初めて彼女の名前を呼んだ。自分の声が、少し震えているのがわかった。陽菜が、はっとしたように僕を見る。その瞳には、不安と、期待と、そして僕と同じ種類の覚悟が滲んでいた。
僕たちは、奇妙な共犯者だ。これから僕が紡ぐ言葉は、きっと明日には世界から消えているだろう。誰もその意味を知らず、辞書からも歴史からも抹消される。でも、それでいい。いや、それがいい。その言葉は、何億人の人々が共有する空虚な記号なんかじゃない。僕から君へ贈る、たった一つの贈り物になるのだから。
僕は、錆びたフェンスを握りしめていた手を離し、陽菜に向き直った。風が彼女の髪を優しく揺らす。僕は深呼吸をして、心の奥底でずっと熟成させてきた、最も大切で、最も危険な感情を、声に乗せた。
「陽菜、君が――」
僕は、その言葉をはっきりと口にした。
世界がどう変わったのか、僕にはわからない。その言葉が持っていた概念が、人々の心からどう抜け落ちていったのかも。ただ、目の前の陽菜が、息を呑み、その大きな瞳からぽろぽろと涙をこぼし、そして、今まで見た中で一番美しい顔で、花が綻ぶように微笑んだ。
彼女は、何も言わずに、ただこくりと頷いた。
僕たちの青春は、失われた言葉たちで編まれていくのだろう。僕が言葉を失わせ、彼女がそれを記憶する。世界が忘れていく響きを、僕たちは二人だけで何度も確かめ合うのだ。それは、誰にも理解されない、孤独で、けれどどこまでも満たされた、僕たちだけの物語。
夕焼けの空の下、僕らは言葉もなく、ただ見つめ合っていた。世界からまた一つ、大切な言葉が消えた。その代わりに、僕たちの世界には、永遠に消えない残響が、いつまでも、いつまでも鳴り響いていた。